ゆめゆめ

久米レオン

第一章

弘徽殿にて 1

 本当に、どうかしている。


「かぐや姫を月の使者から守るために、近衛府の兵をすべて動かす」


 今日の朝議で主上はそう宣言したらしい。


 誰に相談することもなく突然そんなことを言うものだから、全員が猛反対した。相談されたとて、首を縦に振る者はいないでしょうけれど。


「朝議は荒れておりました。いつまで妖しい娘に執心なさるおつもりかと左大臣が大声を出されたのを皮切りに、他の公卿たちも不満を大いに噴き出しまして」


 また父さまが暴れたのね。父さまは気に入らないことがあると、すぐに怒りをまきちらす。あれは不治の病にちがいない。


「ご迷惑をおかけしました」


 御簾のむこうに座る宵宮よいのみやさまへ頭を下げる。風に吹かれて御簾が小さく波を打った。それとともに宵宮さまの香がこちらに入り込む。ほんのりと遠くで潮の囁きを感じるような優しい香りに思わず目を閉じた。これは龍涎香だわ。


「皇后さまのせいではありません。どうか顔をお上げください」


 柔らかい声音で宵宮さまが応える。私は頭を上げて扇を広げ直した。


「まったくお恥ずかしいことです。ですが、主上にも困りましたね」


 父さまの悪癖も困ったものだけれど、今回はそれもやむ無し。今日こそは父さまの気持ちが分かるというもの。あの得体のしれぬ無位の姫のため、近衛府を動かそうだなんて。ご自分の立場を何と心得るのか。


「主上も頑ななご様子で。珍しく声を荒げながら大臣たちと話し合われておりました」

「それはそれは」


 珍しいなんてものじゃないわ。すぐ後ろに控えている女房の唐松からまつをちらと見やると、あちらも目を丸くして私を見ていた。いよいよ主上の気が触れたのやもしれぬ。


「主上にもそのような激しい一面がおありなのね」


 十三の年に入内してから十年のあいだ、主上の心が大きく揺れるところなど見たことがない。初めてお互いの顔を見たときも、初夜も、東宮を産んだときでさえ表情が変わらなかったというのに。


 人嫌いで、口数は少なく、挨拶以外の会話をほとんどしたことがない。


「ここまでご乱心のご様子は、私も幼い頃から数えて片手で足りそうです」


 御簾のむこうから、ふうっとため息が漏れ聞こえた。こちらも珍しい。


 まだ夏至を過ぎたばかりの強い日射しに照らされて、御簾ごしでもはっきりと彼の表情が読み取れる。背筋が伸びて姿勢こそ良いものの、太い眉を寄せ唇のはしを力ませている様子は数日前よりも憔悴している。


「皇后さまの前で、失礼いたしました」


 宵宮さまは小さく頭を下げた。


「息の一つも吐きたくなるでしょう。今の貴方を咎められる人はおりません」


 気の毒なこと。宵宮さまは幼い頃から、公私ともに主上に頭を悩まされていらっしゃる。生まれる母が違えばこの方が今、帝だった。そうであれば、と願う人は今もなお増え続けている。


「近衛府を動かすのは、避けねばなりませんね」

「どういたしましょうか。今回は皇后さまのお父上だけでなく、私を含めた他の者も納得いたせませぬ」

「それはそうでしょう。そもそも、主上が平民と相通じることなど認められません」


 あの女は一体何者なのかしら。


 主上と尚侍ないしのかみしかまともに会ったことがないという、妖しい平民の娘。後宮にいる女であればそれが下級女官であろうと恋をするのも結構だけれど、帝と平民では夢とうつつほどに離れた存在。本来めぐり逢うことさえ許されないわ。


 何よりも驚いたのは、あの主上がひと目で恋に落ちたということ。


 噂を耳にした主上がそそのかされてひと目見たがさいご。まるであやかしに取り憑かれたかのように、かぐや姫の話ばかり口にするようになった。主上はすっかりその気になり、浮かれたままうつつをさまよっている。


 寵妃の梨壺が現れるまで主上は衆道であると皆に思われていたが、その梨壺でさえ主上の寵愛を得るまで長い月日を経た。それというのに、かの女はひと目で。


 あんなに梨壺を寵愛していた主上は「かぐや姫」を知ってから、わかりやすく梨壺を呼び寄せる回数が減っている。梨壺はさぞ屈辱に震えていることでしょう。身分違いと影で囁かれながらも苦労して手に入れた地位を、自分よりさらに低いところから瞬く間にかすめ取られたのだから。


「お考えを改めていただくよう進言せねばなりませんが、さりとて私からお話するのも難しいのです。主上は私のことを父さまと同義とお考えのようですから、聞き入れていただけませぬ」

「難しいのは皇后さまだけにございませぬ。主上の気の病が増えて、私の拝謁も減っております」

「宵宮さまにも頼めないとは、厳しい局面となりましたね」


 皇后ではあるけれど、私は月に数度顔を合わせる程度。入内して十年の間に、主上との仲と言えるようなものは何ひとつ築いていない。


 今回のようなときには本来、私が問いただすのでしょうけれども、まったく役に立たぬ。仕方がなく、こうして宵宮さまをひそかに呼び出してあれこれと策を練るしかない。


 外では爽やかに風が吹き壺の木々がさらさらと音を立てているが、室内は空気が重さを増した。


「気の病とはいうけれど、主上のそれが仮病であることは明白です。余程、他人と顔を合わせるのが嫌なのでしょう」


 とくに私とは。顔が似ているため、私を見ると嫌でも父さまを思い出すと言われたことがある。それについては私自身もうんざりしている。今だに美姫と名高い母似であればよかったものを。


 父さまは意思の弱い主上が帝であるうちに、自らの天下を作り上げようとしている。体も、声も、態度も大きい上に生まれた家柄も良いものだから、誰も父さまに逆らえない。まるで自分が帝であるかのように振る舞っているし、実際に権力を握っているのも父さまだ。


 主上の存在など見る影もなかったけれど、かぐや姫なる女が現れてから急に輝きを帯びた。私を含め皆が、その光に振り回されている。もっとも光る星は主上ではなく、かぐや姫のようだけれど。


「主上に文をお送りしていますが、お返事さえいただけません」

「もとの性分というものもお有りでしょうけれど、あんなに内気でいらっしゃるのも、尚侍が人との関わりを絶ってきたからでは?」

「尚侍は主上の乳母でもありますから、多少はそのような配慮もあったと思います」


 まったくこの人は、何度呼び寄せても真面目でいらっしゃる。


「宵宮さま、ここでそのような遠慮は不要です。そのために人払いをしているのですから」


 宵宮さまを呼ぶときは、入内したときから変わらず重用している唐松を除いて皆下がらせているのに。そうと知っていてなお、毎度このやり取りをする。


「ここには唐松しか置いておりませんと、お伝えしております。幾度も文を預けたり、手引きをしてもらっているというのに。唐松が信じられませんか」

「いえ、失礼を申しました。松内典しょうないしのすけどののことは、もちろん信頼しております」


 宵宮さまは暑さで滲む汗をぬぐい、袖から扇を取り出すとゆったりと扇いだ。龍涎香の香りが扇がれた風に乗って私の元まで波のように漂う。


「たしかに尚侍は主上に対して、他の者との関わりを厳しく制限しておりました。主上が気を患いやすかったことと、皇太后さまのご意向も強かったようです」


 そうらしい、とは噂を耳にしたことはあったけれど、やはりそうだったのか。そうでなければ、人望がないにしても主上の周りに頼りになる人が少ないのは不自然だ。


「そうでしょうね。その方が後々御し易いですから」

「皇后さま、お控えください」


 唐松が慌てたように身を乗り出し、横から口を挟んだ。私は扇を振って軽くあしらって続ける。


「今、まさに皇太后さまの望んだ通りになっているでしょう。妹である尚侍に乳母をさせて。目をかけている弟の娘を入内させて」


 宵宮さまの扇ぐ手が止まる。


「そして東宮が産まれたらすぐに私を皇后に推したのですから」


 ただあるがままを述べているだけなのに、虚しさを覚える。本当に父さまの駒のひとつとして動かされているのだわ、私も主上も。


「父さまの言葉に難色を示しても、主上の周りには正しい意見を言える者がおりません。そのたびに皇太后さまが優しくなだめ、主上はやむなく首を縦に振るのです」

「皇后さま、そこまでにされては」


 宵宮さまが焦って御簾に一歩迫るけれど、私に口を止める気はない。これくらい大目に見ていただきたい。


 主上のことを言えぬほどに、私も心を許せる相手が少ないのよ。心の内をこぼせるのは唐松の他にいまは、宵宮さましか挙げられぬのだから。


「これくらいの話なら、誰に聞かれても大事ありませぬ。何せ私は皇太后さまが一番皇后にしたかった姫ですもの。父さまにとって私は唯一の姫ですから、私の立場が危うくなれば父さまのことも道連れにしてしまうわね」 


 そう言うと宵宮さまは言葉に詰まったようだった。部屋にはしばらく沈黙が訪れる。虫の音だけがいつまでもせわしなく響いた。


 この世は今、皇太后さまと父さまが権力を握っている。私は何をしても皇后の座を降ろされることはないでしょう。皆、私の機嫌を損ねないよう常に腫れ物のように扱う。水の中に沈められたように息苦しく、藻の上を歩かされているかのように気持ち悪い日々だ。私まであの二人と同じだと思われているなど。


「それにしても、この件については皇太后さまも予想なされなかったようですね。よもや主上が里娘に恋して手綱をとれなくなるなんて、誰にも想像つきませんもの」

「このようなことになってしまうとは」


 宵宮さまがうなだれている。自分が居合わせた場で、かぐや姫を見に行くよう他の公達がそそのかすのを止められなかったと、まだ悔いていらっしゃるらしい。そんなこと、と思うのだけどそこが良さでもあるかしら。


「宵宮さまがお止めしなくても、いずれは同じことが起きていたでしょう。すでに殿上にまで噂が上っていたのですから、いつ主上の耳に入ってもおかしくはありませんでした。もう気に病むのはよしてはいかが」

「畏れ多いことです」


 宵宮さまは申し訳なさそうにわずかに頭を下げた。その顔にはわずかに悔しさも滲んでいるのか見える。普段は切れ長な宵宮さまの二重の目尻が垂れているのを見て、唐松と目配せで「仕方がない人ね」と苦笑う。この方は、一生これを後悔していそうだわ。


「私ではお会いできないでしょうけれど、そうは言っておれませんね。他の妃にも話を振ってみましょう」


 寵愛していた梨壺ならば、主上も清涼殿に上げるのではないかしら。そうなると問題は、梨壺が私の話を聞くかどうかとなるけれど。


「主上はここのところ血の気が多いようですから、今朝のことは父さまの発言を受けて勢いづいてしまわれたのでしょう」


 そう言うと、宵宮さまは大変言いづらそうに顔をしかめた。扇をしゃっと音を立てたたむと手を下ろす。


「まことに残念ながら、参議や衛門督には少し前から今朝と同じことをお話されていたようです」


 本当にどうかしているわ。


「言い争った結果ではなく、本気でそうお考えなのね」

「そのようです」


 そう答えると、宵宮さまは視線を下げて口をつぐんでしまった。


 先程の宵宮さまのため息の意味をようやく理解した。そんなことを本当に考えているなんて。皇太后さまも主上との初めての対立がこれでは、今まで好きにしてきた代償とはいえ悔やんでも悔やみきれないことでしょう。


「また文を遣わしますから、ひとまずここまでとしましょう。しばらく主上もお籠もりになるでしょうから、休息だと思ってゆっくりなさいませ」

「ありがたく存じます。それではこれで」


 宵宮さまは一礼すると、衣擦れの音もなく立ち上がる。光を背に受けて立つ宵宮さまは、顔に影がかかり御簾の内からでは表情がほとんど分からない。しかし、わずかに口元が微笑んでいるように見えて、私もそっと微笑み返す。それだけで沈みかかった心にふと光が差した気がした。

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