格致狂言

白玖黎

龍鶏邂逅


 康熙こうき二十七年、西暦でいえば一六八八年。

 天の御子みこが治める中原の地に、西方から魔の手が忍び寄りつつあった。

 宗教、哲学、芸術その他あらゆる相貌そうぼうを持って侵入した無数の魔物ども。

 中でも最も重宝ちょうほうされ、畏怖いふされたのは、某国ぼうこくでは神をも死に追いやったという学問だった。


 いわく――格物かくぶつ致知ちち

 後の時代には「科学」という名で広く知られるようになった代物しろものである。


 ◆ ◇ ◆


 誰もが夢見るような生涯しょうがいを送ってきた。

 ちん元龍げんりゅう弱冠じゃっかんにして科挙かきょを第二位で及第きゅうだいし、皇帝直属の学士の位を授かった稀代きだいの秀才だった。

 生来学を好み、忠君愛国の精神を持ちあわせ、天子の覚えもめでたく、同僚どうりょうからの信頼も厚い。

 加えて、かの中原随一ずいいちの名将たる項羽こううもかくやというほどの男ぶりときた。

 天は人に二物を与えずと言うが、二物どころか三物四物を抱えた彼は君子のかがみと称された。


 しかしその日、世にも珍しい完璧かんぺき至宝しほうに泥を塗り、思い切り叩き割ろうとした者がいた。


「……左遷させん、ですか。この私が」

陛下へいかより書状が届いておる。直ちに欽天監きんてんかんへ異動せよ、とのことだ」

「しかし、私は何も耳にしておりませんが」

「決まったことは決まったことなのだ。ほら、この通り」


 上官の男が見せた書状を陳元龍はまじまじと観察した。

 末尾には、当代の大清国皇帝である康熙こうき帝の玉璽ぎょくじが押されている。

 呆気あっけにとられる彼を見て、男はいびつな笑みを浮かべる。


「聞いたぞ。賄賂わいろ密謀みつぼう、挙げ句の果てには汚吏おりどもとつるんで私利の独占、か。随分ずいぶんと派手に仕出かしたものだ。陛下に気に入られているからといってつけ上がったのか?」

「私はそのようなことなど一切……」

「ああ、もうよい。その気に食わないつらにもいい加減傷食しょうしょく気味なのだ。早々に立ち去れ」


 男は泥鰌どじょうのようなひげを伸ばし、吐き捨てた。

 公明正大な陳元龍が理解するはずもなかった。

 泥をすすって生きる魚が如何いかに高潔な清水を嫌っているかを。


 かくして、学士の位を剥奪はくだつされた陳元龍は、失意の中、新たな職場へと向かうために重い足を引きずっていた。

 しかし、取り次ぎの官吏に案内されている間も、彼の思考にはある違和感が引っかかっていた。


「欽天監だというのは本当に間違いないのか?」

「は。そのようにうかがっております」

「いや、しかし……かの官署は天文をつかさどる部門だったはず。なぜ学士の私がそんな場所へ?」

「さあ。末官からは何とも」


 地方の閑職かんしょくに飛ばされるものだと思っていた陳元龍は一層いぶかしんだ。

 くだんの部門は名誉めいよある学士よりも位は下がるが、まつりごと中枢ちゅうすうになう有数の重職である。

 たしかに、変人と蛮族ばんぞく巣窟そうくつだとは度々たびたび耳に挟むが。


 心中でくすぶっていた懸念けねんは、朱塗りの大門をくぐった瞬間、ますます存在感を増した。


 城外の敷地しきちには、人の気配というものがなかった。

 広大な庭に巨大な道具がいくつも影を落としている。

 地球儀、渾天儀こんてんぎ天秤てんびん、星盤。知っている限りでも様々な天文器具だ。


 なまりのような扉を開け放ち、正殿へ踏み入る。

 薄暗い部屋の中に一条いちじょうの陽光が差しこんだ瞬間、背後で息をむ音がした。


「ひっ……し、しかばね!?」


 陳元龍の後を追った官吏は、力なく床に横たわるものを前に硬直した。


 それは若い青年のようだった。

 たけの長い袍服ほうふく官帽かんぼうを身につけ、片手に見慣れぬ十字形の首飾りをにぎりしめている。

 陳元龍が目をみはったのは、床に広がる長髪が色の抜け落ちたような灰色だったからだ。


 怯える官吏を他所よそに冷たくなった体を仰向けにする。

 一面に飛び散った赤黒い液体が衣服の胸元にもこびりついていた。

 呼吸を見て、脈をとる。案の定反応はなかった。


「何だ、本当にただの亡骸なきがらなのか――」


 そのときだ。

 ふいに屍の指先が動き、かっと両眼が開かれた。


「……ぷはあああ! やった、やったぞ! おお神よ、ついに我は成功した! 息を殺し脈を止める、これぞ真の擬死タナトーシス! ふはははは、どうだ引っかかっただろう!」


 孔雀くじゃくの羽根を思わせる華美な碧眼へきがんに陳元龍の姿が映る。

 深い海をたたえたまぶたがぱちぱちと二度往復した。


「誰だきみは!」

「こちらの科白せりふだが?」

「ああ、わかったぞ! 天子が言っていた新しい教え子とはきみのことだな!」


 教え子? いったい何の話だ。

 陳元龍が首をかしげる前に、青年はがくりと項垂うなだれる。


「臣下に格致かくちなるものを教授してくれ、と天子に頼まれたゆえ、少し前から弟子取りを始めたのだ。だが、いざ教えると、どいつもこいつもまるで霊でも見たかのように怯え出して真面目に聞いてくれやしない」


 地べたでうなっていた青年は、にわかに体を起こすと絶叫した。


「これで九人目だ! 監正かんせいともあろう我から逃げたのは! 我は今、失意のぞんどこだ!」

「……どん底?」

「どんぞこだっ!!」


 一体なんだこの屍は。死んだと思えば生き返る。

 蚊の鳴くような声でうめいたと思えば、雄鶏おんどりのように声を張る。

 おまけに。


「監正、ということはお前がここの長官か」

「そうだ! きみは天子に命じられてやってきたんだろう?」

「そういうことになっている」

「ならば話ははやい! きみは新たな弟子に選ばれたのだ! これから毎日ここへやってきて、我から教えを授かることになる! 逃げた先代の代わりにな!」


 ちょっと待ってくれ、と陳元龍はこめかみを押さえた。


「疑問が尽きないのだが……そもそも、お前は僵屍キョンシーか、それとも仙人か?」

「違う!」

「ならばなぜ息を吹き返した? この血はどうしたのだ」

「息と脈をとめる練習をしていただけだ! これはおやつの柘榴ざくろの汁だ!」

「なるほど、狂人だったか」

「少し違う気がするが、まあいいだろう! 我が名はジョアシャン・ブーヴェ、この地では白晋はくしんと名乗っている! 他に何か聞きたいことはあるか?」


 しばしの逡巡しゅんじゅんの後、陳元龍はおもむろに口を開いた。


「私の仕事はそれだけか?」

「それだけだ! いいな!」

「私は、こんなやつと師弟していごっこをするためだけに左遷されたのか……」

「サセン、は知らないが、きみは逃げてくれるなよ! 新人!」


 陳元龍はまだ知らなかった。

 この白晋とかいう異邦人いほうじんこそが、彼の人生をぶち壊した張本人であり、彼を数奇すうきな運命へ導く明星みょうじょうであったことを。

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