第51話 心の扉と目覚めと


 帰路についたヴァレリアは、夜のとばりが降りるとまた、どうしようもない不安に襲われた。

 専属医も「精神的に不安定になるかも」と言っていた。


 ベルナルドはこの子を、自分を受け入れてくれるのだろうか。

 それでも変わらずに愛を伝えてくれるのだろうか。

 今は監視の目も激しい。イヤリングもある。

 そんな中で、どうやって家族になれるというのか。


 人生の幸せを数えたら、片手で足りる。

 ベルナルドと交際したこと、彼と小屋で過ごしたこと、そして今。

 全部、ベルナルドと育んだ幸せだった。


 もし、彼に拒まれでもしたら。

 彼の嫌悪に満ちた表情や言葉を想像すると、じんわりと視界がにじんでいく。


 翌日、『恋思合』で顔を合わせると、あの不安はどこかへ消えてしまった。

 好意を口にすることも、動作で伝えることもできない。

 内側にため込んだ愛情を喜びを爆発させ、彼に注ぎこみたい、と何度思ったか。


 カフェでカップに氷で「愛してる」と綴ってくれたとき、その場で声をあげて泣いてしまいたかった。だができないから、ずっとカップを傾けて、顔を隠した。


 迷子を助けたとき、ベルナルドが子供に良い印象を抱いたのが分かった。

 彼も頭のどこかで未だ見ぬ我が子を思い描いたことはあるのだろうか。

 妊娠を伝えるにはいいタイミングかもしれない、と思った。

 その時間が、その広場が、公開処刑を執行していることまで考えが及ばなかった。


「言うべきか、言わないべきかずっと考えてることがあるんだ。まだ話すべき時ではないかもしれないのだが……、もっとはっきりとしてから言うべき、だとは言われたし……」


 でも、どうしても言いたい。妊娠したんだ、ベルナルド。


 あとに続くその言葉を用意していた。


 だが絞首台の件があって、それまでの雰囲気は粉々に砕け散った。


「やってられるか。恋愛の真似事なんて」

「どこまで行ってもあんたは、帝国の人間なんだな」


 そう言って去っていくベルナルドの背を最後に、記憶は飛んだ。

 どうやって家に帰ったのか、いつ陽が落ちていたのか。

 心配してくれたマリーが何度も声をかけてくれていたが、それも覚えていなかった。


 女医が言った通りだった。

 心臓の内側で蛇が暴れているかのように、後悔、怒り、悲しみ、懇願、愛情、喪失、あらゆる牙が突き立てられた。


 妊娠が幸せだったのも、ベルナルドが受け入れてくれる、喜んでくれると信じていられたからだ。

 今となっては彼との亀裂をさらに広げる刃物にさえ感じられた。


 気が付けば頭の中は「ベルナルドに嫌われたくない」というでいっぱいになった。

 その念はやがて一つの牙となり、そしてどの牙よりも鋭利だったそれは――彼女の心を食い破った。


 ベルナルドへの想いを口にしなければならない。

 衝動。感覚。義務感? 

 分からないがそれを形にしなければ。

 今すぐ心から口に移して、音にしてしまわなければ。

 自分はおかしくなって、死んでしまう。


「愛してる……ベルナルド」


 イヤリングを着けたまま告白してしまったとまもなく気が付いた。


 彼女はすぐさま、しがみつくように鏡に向かった。

 だが好意ある告白を感じ取れば光るはずのイヤリングは、わずかばかりの光さえ放ってはいなかった。


 もう一度、恐る恐る言ってみる。

 しかし光らない。

 はっきりと、大きく言ってみる。

 光らない。


 公開審問での自身の言葉が浮かぶ。


 ――心底、嫌っています。好意を持ったことも、触れたいと思ったことも、愛したことも、たった一度もありません。


「違う、違う違う違う違う! 本官はそんなこと……! 本官はベルナルドが好きだ、大好きだ。愛している。ずっと一緒にいたいと思ってる! 慕っている、想っている――」


 イヤリングは、むしろ暗闇に溶け込んでいくかのように、影と同化している。


 一度、たまらなくなってマリーの部屋に行った気もする。

 だが、気が付けばまた部屋にいた。

 辺りを見渡す。


 ベルナルド、ベルナルド、ベルナルド、ベルナルド、ベルナルド……


 帝国を裏切ったことへの罪悪感。

 ベルナルドに必要とされていない絶望。

 そして自身の中から彼に対する想いが消えてしまった、喪失。


 これらが合わさった時、彼女が自我を保つ方法はたった一つ。

 

 デスイエロ将軍へと自身を巻き戻すことだった。


 部屋の中身を全て燃やし、ベルナルドは敵、と何万回も頭の中で唱えた。

 最初の数時間は、雑念が入った。

 だが徐々にそれも消え、伽藍洞がらんどうと化した心の扉が音もなく閉まっていった。


 例え何度、名を呼んでくれようとも。

 何度、抱きしめてくれようとも。

 何度、愛を伝えてくれようとも。


 再びこの扉が開くことはない。


 ………………

 …………

 ……



 ――すまなかった、ヴァレリア。



 どうして、その言葉がするりと、針の穴を通すように入ったのか。

 久しぶりに、あいつの声を聴いた。


 だが、もう……


 ――その子を頼んだ。


 諦めたような、それでいて、信頼に満ちた声だった。

 自分に迫る死を受け入れ、希望を誰かに託す声。


 自分で目覚めようとしたわけではない。

 ただ、深い海の底で溺れていると、急に胸が空気でいっぱいになったように。

 ヴァレリアはふっと体が浮き上がる感覚とともに、目を覚ました。


「ベルナルド――!」


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