3-7 鬼類婚姻譚

 境内に、私と清春さんが取り残されている。

 外の景色を一瞥した後に、ため息をひとつ溢し。それから覚悟を新たにして彼が歩き出し始める。

 鞘に刀を納めることはなく、抜身のまま。

 最後に残った鬼の末裔の元に。


 社殿には、白無垢を纏った花嫁がいる。マユラさんはこの凄惨な光景に静かに目を伏せている。それでも迫りくる自分の死を前に、取り乱したり逃げ出そうとする様子はなかった。

 運命を受けて入れているみたいに、そこにただ在り続けている。


「………………そうだったか」


 力なく項垂れて、やるせのない清春さんの声。

 そっとマユラさんの様子を覗き込む。遠目では分からなかったけれど、彼女の口元から胸元にかけて、折角の白無垢が鮮やかな紅に染まっている。

 その赤に見覚えがある。

 マユラさんの服に、点々と刻まれていた斑点と同じ色。てっきり染料と思っていた、鮮やかな赤い色。


 ごほごほ、とマユラさんが咳き込む。その咳は空咳で、でも途中からは痰が混じったくぐもった音になり、苦しそうな顔に変わってしまう。

 彼女は必死に隠そうとしたけれど、口元の赤い鮮血は隠しきれないでいる。それどころか余計に血の染みが広がっていってしまう。


「……労咳」


 どうしてもそんな言葉が漏れていて。口にしたことに気がついて、慌てて口を手で押さえた。

 私の心無い様子に、マユラさんは力なく笑みを、慈愛の笑みを浮かべている。


「兄は、勝てなかったのですね」


 清春さんは静かに彼女を見据えている。

 たった今、彼女の兄であり夫となるはずだったアラキを斬った剣を掴んだまま、清春さんは彼女を見据えている。


「……その様子だと、手も足も出なかった訳じゃないみたいですね。良かった。……兄は、ずっと貴方と戦ってみたいと言っていました。本気で戦えば、どっちが勝つか分からないって。本当に楽しそうに、そう言っていたんです」


 くすくすと、昔を思い返してマユラさんが小さく微笑みを浮かべている。

 この凄惨な光景にふさわしくない、童女のような嫌味のない笑い。本当にただ懐かしそうに彼女は笑っている。

 眼の前の死に、恐怖を感じたりはしないのだろうか。


「……労咳は、治らない病気じゃない」


 清春さんが言う。その冷たい声音からは感情は読み取れない。

 無機質に無感情にも聞こえるし、感情を押し殺しているみたいにも聞こえる。

 真剣な目がマユラさんに向けられている。


「事前にアラキから言付けを預かっていた。もしも自分の身に何かあったら貴女の事を任せたいと。……仇に情をかけられたとは思わないで欲しい。友の奥方を助ける栄誉をいただきたい」


 すっと柔らかな動作で清春さんが刀を納める。それで、骸が3つも転がるようなことはなくなる。

 途端に空気が弛緩して、思わず私の口から大きく息が吐き出されていた。

 頬を紅潮とさせ、笑みを湛えながらも具合が悪そうでいるマユラさんに肩を貸そうとした時だった。


「舞香さん、貴女は触ってはだめだ」


 ぴしゃりと言い放たれた清春さんの言葉。

 思わず目を丸くしてしまう。


「結核は感染するんです。特に、喀血した血には触ってはいけない。……俺達は戦場で多く見てしまったので良く知っているのです」


 やるせない、悔いるような、諦観の声。

 ”俺達”と言葉にされたことで、はたと気づいてしまう。

 アラキという男がどうしてこれ程に事を急いだのか。

 彼等は戦場で多くの死を目撃してきた。それは戦傷によるものだけではなくて、もっと理不尽な死を目撃してきた筈なのだった。

 およそ作戦とは言えない無謀な命令。兵糧の不足による死。鉄砲や大砲の雨から逃れる中、衰弱していく体。蔓延る病。


 戦場に立った彼等のもっともやるせのない絶望は、病に侵されていく仲間を見送る時。

 結核による死も、その凄惨な結末を、彼等は随分と見送ってきたのだった。


 私の代わりにマユラさんに肩を貸そうとする清春さん。しかし、彼女は首を横に降ってそれを拒んだ。

 やせ細った病苦の身体、なのに頬だけは薔薇のように紅潮として鮮やか。


「教えていただきありがとうございました。それで、合点がいきました。……この里では母が一番最初に労咳になったんです。それがどんどんと皆に広がって。今では皆労咳を患ってしまって。お陰で私達は疫病神扱いでしたけれど。労咳は伝染る病、だったのですね」


 ごほごほとまたマユラさんが咳き込む。慌てて手を貸そうとする私達を彼女が頑なに手で遮って拒絶をする。


「……母は、血を吐くようになってからはあっという間でした。きっと、私も手遅れです」

「何度も言いますが、結核は治らない病ではありません。きちんとした静養と滋養を付ければ治る場合もあるのです。ですが何よりも患者が気を強く保たないと――――」


 清春さんの必死な説得を、彼女は静かに首を横にふる。

 優しさが漂うな慈愛の笑み。静かに運命を受け入れている人の笑み。


「ねぇ、舞香様」


 切実で、真摯で、曇りなんて無い本当に澄んだ瞳が私に向けられる。


「あの、色打掛だけは貰ってくれませんか? 本当は自信作なんです。障ってしまいましたが、労咳の症状が出る前に拵えたものなんです。だから穢れてはいないと思うんです。どうかあの色打掛だけは貰ってやってはくれませんか?」


 ”どうしても何か残したいんです”

 最後にか細く言葉になった想いに、そんな悲痛な懇願に、首を横に振れるわけがない。

 彼女の勢いに気圧されるままにこくりと頷いている。


「……よかった」


 満面の笑みを浮かべた後、彼女が居住まいを正す。


 揺るがない覚悟が湛えられた瞳。

 血染めの白無垢から、その懐から、忍ばせていた懐刀を一振り、彼女は取り出している。

 ゆっくりと鞘から抜かれて、顕になる眩しい白刃。

 月光の様に静かに佇む人を、その決意に満ちた瞳を、刃は鏡のように写している。


「……ごめんなさい舞香様。こんな汚らわしいものをお見せして。でも、蚕は人の手が無いと生きていけないのです。……夜刀の方。最後までご迷惑をかけました。ですが介錯は無用です。その刀は決して穢さないで下さい」

 

 相貌から涙が伝いながら、ぞっとする程美しい笑みをマユラさんは最期に浮かべていた。

 勢いを付けて喉元に懐刀を突きつけた後は、見ることが敵わなかった。

 呆然としている私を、清春さんが抱きしてくれて見なくて済むようにしてくれていたから。

 鼻をつく血と鉄の匂い。一枚の布を挟んで感じる鎖帷子の冷たく重い感触。暗闇と、清春さんの息遣いと、小さな震えと、回された腕の暖かさと、歯を噛みしめる悲痛な音。そんなものに包まれている。

 

 耳を、強く塞がれている。

 何の音も聞こえないように強く強く抱きしめられていた。



 心と身体が別物になってしまったみたいな。魂が抜けてしまったみたいな。そんな不確かな現実感がある。

 あまりに衝撃的な出来事の連続に、心が麻痺してしまっているのだと思う。


 大火が里を焼き尽くし、一晩が経った。

 山間から朝日が差し込むと、里の変わり果てた姿を顕にする。


 真っ黒に焼け落ちた家々の残骸から、白い煙がまだ薄っすらと上がっている。

 辺りはとても静かで、私と清春さんの他に生きているものはない。人の姿らしき燃え尽きた遺体が目の端に写るだけ。

 昨日、次の里長になるべき青年の結婚式が行われていたなんて、きっと誰も信じないだろう。

 野に還っていくであろう、打ち捨てられた焼け跡だけが、そうして残っていた。


 アラキから受けた手傷が随分と酷いようで、この里の凶状だけにではなく、ずっと苦虫を噛み潰しているみたいな、怖い表情を清春さんがなさっている。

 それでも境内に残されていた里長の遺体と、アラキの遺体と、マユラさんのご遺体を社殿に並べられて、社殿に火を付けられた。古い建物をそのままにしておくと野盗が棲み着くかもしれないから、と、淡々と仰った。

 彼女の体に触れることは許されなかった。

 血を失い、ただでさえ白かったマユラさんの体は、白磁の様に真っ白で、そして枯れ葉の様に脆く見えた。

 

 煌々と高く燃える炎は、昨夜の惨劇と同じ筈なのに、やけに神々しい弔いとして3人の身体を燃やしていく。

 彼らに、どんな因縁と想いがあったのか。もうわからない。でも常世でこそは、仲良く手を携えられるといい。

 そんなことを想いながら手を合わせた。



 一面が焼け野原になってしまった里で、神社の鳥居と離れの建物だけが残っている。

 あの大火に奇跡の様に見えるけれど、おそらく意図的なものなのだと思う。始めからアラキという人は私達だけは生かして帰すつもりだったのかもしれない。離れの中は一切物取りが入った様子はなくて、マユラさんが残したあの色打掛も煤のひとつもなく飾られたままでいる。

 

 あるいは、自分たちも逃げおおせるつもりだったのかもしれない。

 弔いや後片付けに追われて、結局もう一晩この土地に泊まらざるを得なくなった。何か使えるものをと離れの中を物色した時に、荷造りされた旅道具が2つ出てきた。

 丁度、若い男と女の旅支度。

 そんな代物にたまらなくやるせのない想いになる。


 アラキは里を滅ぼして、マユラさんと二人逃げおおせるつもりだった。

 もし本当にそうならば、警備が手薄になる結婚式の日を舞台に、野武士の一団を、外敵を引き入れたのにも納得が出来る気がした。里の全てのものを屠れば、誰も彼等を追うものもなくなる。そうであれば、混乱に乗じて真っ先に最大の障害である里の長である父親の命を狙ったことも、理に適っているように思った。

 この里の軛から離れて、自由を手に入る。そんな光だけを見据えて。

 

 鬼に成り果てようとしたアラキの記憶は、とても断片的なもの。私が一瞬垣間見た記憶の欠片から本心を読み取ることは決して適わない。

 それでもただ、始めてマユラさんと出逢ったアラキの記憶は、何よりも眩しく鮮明に彼の中に刻まれていた。

 汚泥に咲く蓮の様に。とても美しく。


 けれどそれももう考えたって仕方のないことだった。

 私はこの眼で、時々変わったものを視てしまうけれど。視ることが出来るだけ。

 アラキが本当は何を考えていたのか。マユラさんが彼にどんな眼差しを向けていたのか、もう確かめることは適わないのだった。



 最期に残った離れの建物も壊してしまって、そうして本当にこの里には焼け跡しか残らなくなる。

 清春さんはじっとその戦場を見届けた後、振り返ることはしなかった。

 私は何度も後ろ髪を引かれるような想いで振り返ってしまうのだけれど、此処で私が出来ることなんて何も無くて、ただ彼の後ろを追うだけだった。


 帰り道はとても長く感じた。

 二人共何も話すことはなかった。何か話そうとお互いに切掛を探しているようだったけれど、結局どちらも何も言葉にすることは出来なかった。

 それでも、進む一歩は着実に目的地へと向かう。

 


 道中、野営を行った早朝に、数多の煙が空に昇っていくのを見た。

 炊事の煙。

 それにしては数多に広がる夥しい数の白い煙たち。


「この森向こうに、官営の製糸工場があるんですよ」


 じっと登る煙を眺める私に、清春さんが静かに告げた。

 製糸工場では、周辺から数多の女性たちが女工として寝泊まりしていると噂に聞いた。この炊事の煙は、彼女たちの朝食のために立ち上る煙。

 まだ、影杜の隠れ里から幾らも来ていない場所に、あの結婚式の準備よりも遥かに上る煙の数々に、やるせなさを突きつけられる。


 こんな山間にも、新しい時代の波が押し寄せている。

 ”文明の波に飲み込まれる”

 アラキの言葉が、不意に思い浮かんだりもするのだった。

 


 武陽に戻り、お屋敷に戻った時。帰ってきたと思う前に、門前に春香さんの姿があった。

 彼女は走り寄ってきて、ひどく真面目な表情で私のことを覗き込みながら言った。


「舞香ちゃん。貴女の親御さんの行方が分かったわ」


 労いや帰宅の挨拶の前に、そんな言葉を投げかけられてしまった。

 疲労と、飲み込みきれない思いとが溢れていく。


「そう、でしたか」


 それだけを何とか絞り出すことが出来て、意識は淀む。白く白く、視界は、世界は、霞んでいくのだった。

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