第16話 亡き王女のためのパヴァーヌ
――その日の夜。
夕飯を食べた後、僕と美月は、リビングでくつろいでいた。
「……伊織?」
「ん……」
今はソファで、美月に膝枕をされている。
優しく頭を撫でてくる手に、僕は必死に眠気を堪えていた。
「寝ちゃダメだよ? 夜眠れなくなっちゃう」
「いや、大丈夫……」
「大丈夫って感じ、しないけど」
半開きの僕の目を見て、美月が苦笑する。
それでも頭を撫でるのはやめない辺り、多分本気で止めてはいないのだろう。
その優しい眼差しと笑みを見て、僕は思う。
「……お前、さ」
「うん?」
「学校でも、もっと笑えばいいのに」
素材がいいから、どんな表情でも美人だけど。
でもやっぱり、笑顔が一番綺麗だと思う。
それを僕しか知らないのは、なんだかもったいなく思えた。
「……あたし、笑ってない?」
「全然。超無表情。まあ、それはそれで需要あるんだろうけど」
その超然とした雰囲気で、一部の女子からは女神様みたいな扱い受けてるし。
「んー……努力はしてるんだけど」
「僕の前だと笑うのにな」
「伊織の前だから、じゃない?」
……そう言われると嬉しいのだが、少し困ってしまう。
美月にとって、僕以外の人間は、どんな風に映っているのだろうか。
彼女の周りには、いつも人が集まる。
彼女の魅力に惹かれて。振り向いて欲しくて。
でも、当の美月は、いつも淡々としている。
まるで集まってきてしまうから、仕方なく相手をしている。そう言わんばかりに。
「……伊織は、友達多いよね」
「え?」
「後輩の、井上さん? とも仲良いみたいだけど」
「げ」
しまった……ヤブヘビ。
頭を撫でてくれていた手が、なぜか首筋に触れる。
「名前呼び、してたし、されてたね」
「……げっ」
二連続。効果はばつぐんだ。
冷や汗を流す僕の顔を、美月は上から覗き込んで。
「ヤキモチ、焼いてもいい?」
「……ごめんなさい。勘弁してください」
「ふふ」
……いや、そんな怖い脅し方ある?
ヤキモチって、気づいたら焼いてるものじゃないの?
焼いてもいい? って、頷いたらどうなるんだ。
一気に眠気が覚めた。むしろもう寝れる気がしない。
「ごめんね、重くて」
「……いや、全然」
とんでもございません。
むしろ僕の方こそ、すみませんでした。
でも、な。朝陽の場合、名前呼びやめさせるのめっちゃ大変そうなんだよな……
「ね、伊織」
「ん?」
「なんで、急に体鍛えようと思ったの?」
再び、じっと見つめられる。
……まあ、聞かれるだろうな、とは思ってた。
普段運動なんてろくにしない僕。
それが突如ジムとか、心配されても仕方ない。
……さて、どう答えよう。
といっても、この幼馴染に隠し事なんてできないのだが。
顔を上げる。
するとこちらを覗き込む、幼馴染の顔。
すっとした鼻筋、艶のある唇。
透き通った肌に、人形のように小さな顔。
そして夜空を閉じ込めたような、大きく美しい瞳。
魔性とさえ呼べる美貌。
この顔に狂わされる男は、きっとこれからも増え続ける。
「……美月は、さ。美人だよな」
「……? うん」
しかしそんな僕の称賛に、美月は当たり前のように頷いた。
「……即答か。少しは迷え」
「でも、事実だし」
「事実だけども」
……ええい、顔を近づけてくるな。
分かった。分かったから。美人だから。超美人だから。心臓に悪いからやめて。
降参、と両手を上げる僕に、ふふ、と楽しそうな美月。
はぁ、とため息をついて。
「……まあ、だから僕も、少しはかっこよくなろうかなって」
「……そっか」
「ん」
こくり、と頷く美月。
口にするのは恥ずかしいが、結局はそういうこと。
好きな女の子と並ぶのに、恥ずかしくない自分でいたい。
ただそれだけ。
改めて言うと、ほんと照れくさいけど。
「……別に、あたしは」
「ん?」
「伊織がどんな風でも、傍にいるけど」
「……そうやって甘やかすから、僕がダメになるんだろ」
「いいよ、ダメになっても」
笑って、再び僕の頭を撫でてくる。
ゆっくり、ゆっくり。溶かすような手つき。
思わず眠くなりそうになるのを必死に堪える。
そんな僕に美月は、優しく微笑んで。
「でも、さ」
ぽつり、と呟いた。
「伊織、自分で思ってるほど、ダメじゃないよ?」
そう言って、彼女はリビングの一角を見た。
つられて、僕もそちらに目を向けた。
「……」
その視線の先に鎮座するものを見て、僕は顔を顰める。
……なんとなく、美月の言いたいことは分かった。
確かに僕にも、取り柄、と言えるほどじゃないけど。
多少見栄えのする趣味はある。
でもそれはあくまで、趣味程度の話で……
「かっこいいと思うけど」
からかうように言われる。
それにますます苦い顔で、リビングの隅を睨む。
そこに置かれているのは、我が家に似つかわしくない高級品。
――数百万価格の【グランドピアノ】。
父親がとち狂って買ったそれを、僕たちは無言で見つめた。
「ね? 弾いてよ。久しぶりに」
「……言うと思った」
ああ、こういう流れになるのか。とため息をつく。
美月は期待に満ちた目で僕を見ている。
幼い頃から、ことあるごとにこの目でねだられた。
そして僕は、美月のこの目にめっぽう弱い。
「……弾かないと、ダメ?」
「だめ。美人な彼女のお願い」
「あー……」
そう言われてしまうと、なあ。
「……分かったよ」
「ん」
渋々立ち上がり、グランドピアノに向かう。
美月が小マメに手入れをしているおかげで、ホコリ一つ被っていない。
鍵盤蓋を開け、白と黒のコントラストをそっと指で撫でる。
――随分、ご無沙汰だったな。
最後に弾いたのは、確か二ヵ月前くらいだったか。
大分間が空いてしまった。
席に座り、そっと鍵盤の感触を確かめる。
ふとリビングを見ると、美月は椅子に腰かけ、こちらを見て微笑んでいた。
観客は一人だけ。
僕は別に、特別上手いわけじゃない。
才能もないし、コンクールに出られるような腕前じゃない。
だから観客は、昔からいつも一人。
でも、それでよかった。
僕がピアノを弾く理由は、いつだって、この美しい幼馴染のためだったから。
そっと、静かに鍵盤に指を置く。
(……うん)
忘れてないな。
頭の中に楽譜を浮かべ、僕は内心安堵した。
そして最初の一音を鳴らす。
選んだ曲は『亡き王女のためのパヴァーヌ』
フランスが誇る音楽家、ラヴェルの名曲。
僕にとって、この曲は特別だった。
幼い頃、勉強も運動も並だった僕が、なんとか美月の気を引きたくて、必死に練習したピアノ。
要領がいいわけでもないから、何度も失敗して。
やっと先生に太鼓判を押してもらって、美月に聴かせた最初の曲が、これだった。
『——伊織、すごい。カッコいいよ』
初めてそう言ってもらえた時の達成感と感動は、今でも忘れられない。
手の届かない高嶺の花に、初めて認めてもらえた気がした。
嬉しくて、何度も何度も弾いた。
そしてその度に、美月はいつも喜んでくれた。
それ以来、僕がどんなに難しい曲を弾けるようになっても、美月は必ずこの曲を聴きたがった。
もう何百回弾いたか分からない。
今では、鍵盤を見なくても指が勝手に動く。
僕達二人にとって、特別な曲。
「――」
やがて、最後の一音。
弾き終えた僕は、ゆっくりと息を吐いた。
ミスは……なかったはず。
二ヵ月ぶりだが、やはりもう染み付いてる。
静かに指を離すと、ぱちぱち……と小さく拍手が聞こえる。
振り向くと、昔から変わらない、たった一人の観客の姿。
「――やっぱり、綺麗な音」
独り言のように、美月が呟く。
僕のピアノなんて、もう飽きるほど聴いているだろうに。
でもその度に、美月はいつも褒めてくれる。
どう反応したらいいか分からず頬をかくと、美月は悪戯っぽく笑って。
「……ふふ、十分かっこいいじゃん、伊織」
からかうように、そう告げた。
「……どうも」
ますます照れくさくなって、僕は席を立つ。
すると美月は、きょとん、とした顔をして。
「ん、もう終わり?」
「交代。次は美月が弾いてくれよ」
「……あたし、簡単なのしか弾けないけど」
「いいよ、それでも」
言うと、美月は一瞬きょとん、として、やがて苦笑して頷いた。
彼女に席を譲り、今度は僕が観客になる。
ゆっくりと綺麗な所作でピアノの前に腰掛ける美月。
黒のロングヘアがさらりと揺れ、細く白い指が鍵盤に置かれる。
驚くほど小さく美しい顔が、静かにピアノと向かい合う。
その姿は、まるで一枚の絵画のようで。
……なのに弾かれるのは、ぎこちない『猫、踏んじゃった』。
そのあまりの不釣り合いに、思わず笑うと、美月がむっとした顔で睨んできた。
「……ひどくない? そっちが弾けって言っといて」
「いや、ごめんて」
不意に、幼い頃にタイムスリップしたような錯覚を覚える。
昔もよく、僕が弾いた後に美月が弾きたがって、間違える度にむくれていた。
そんなやりとりが、たまらなく心地良くて。
あの頃の僕にとって、まるで宝石のような時間だった。
「……伊織? どうしたの?」
「いや、ただ……」
この幼馴染と今も一緒にいれることが、幸せで。
彼女と恋人同士だなんて、未だに信じられなくて。
――こんな日常が、ずっと続いて欲しい。
この時僕は、そう願っていた。
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