第7話 SIDE:雪村美月
――物心ついた時から。
あたしは、ひどく感情の乏しい子供だった。
嬉しい、楽しい、悲しい、辛い。
そんな当たり前の感情が、ほとんど感じられない欠陥品。
『美月ちゃんは、落ち着いてるわねぇ』
大人からはよくそう言われたが、違う。
ただ何も感じないだけ。
何が起ころうと、何とも思わない。
……だから、というわけではないが。
『美月。お留守番よろしくね』
ネグレクト同然の母に対しても、特に何も思わなかった。
一週間家に帰らなくても、仕事が忙しいんだな、とだけ。
愛されない辛さも、一人の寂しさも、何も感じない。
けれど、それがおかしい自覚はあった。
自分はきっと、壊れた人間なのだ、と。
……でも、そんな自分でも。
『——美月? 何してるんだ?』
『……伊織』
たった一人だけ、”例外”がいてくれた。
天野伊織。
隣の家に住む、同い年の男の子。
五歳の頃、引っ越した先で出会い、それ以来ずっと一緒にいた。
この男の子だけが、自分にとって”特別”だった。
『伊織……どうしたの?』
『どうしたのって……一応、心配したんだぞ』
『心配、してくれたんだ?』
『そりゃ、するだろ……』
彼の前でだけは、心から笑えた。
嬉しい、楽しいと、心から思えた。
自分が”普通”でいられるのは、彼といる間だけだった。
だから……
『……ね、伊織?』
『……なんだよ』
『ずっと一緒にいてね。約束』
『……まあ、お前がそれでいいなら』
まだ小学生だった頃の、ささやかなお願い。
でも伊織は、そんなことはありえない、とばかりに流す。
それが気に入らなくて、彼の腕に抱き着いた。
『ちょ、ばっ! 何すんだ!』
『伊織が悪い』
『なんで!?』
……あたしがどれだけ伊織を必要としているか。
それを知りもしないくせに。
そんなことを思って、ぎゅっと抱き着く。
伊織は真っ赤になって狼狽えていた。
可愛い。楽しい。嬉しい。
感情が溢れる。
伊織といると、いつも世界が華やいで見えた。
自分にとって、伊織は”酸素”だ。
あって当然。なければ息すら出来ない。
自分が生きていく上で、不可欠な存在。
だから、どうかお願い。離れないで。
『ね、約束』
『分かった! 分かったってば!』
そんな幼い頃の約束。
確かに、伊織は頷いてくれたのに。
――その約束は、たった数年で破られた。
『……伊織』
『……』
『ねえ……どうして、あたしを避けるの?』
それは、小学校高学年になった時。
突如、伊織は自分を避け始めた。
それまでは何をするにも一緒だった。
家でも、学校でも、ずっと。
なのに最近は、学校に行く時も別々。
手も繋いでくれない。帰りも迎えに来てくれない。
意味が分からなかった。
『……もうそんな歳でもないだろ』
どこか作ったような無表情で、そんなことを口にする。
『……歳? 歳ってなに?』
成長したから? 子供じゃないから?
そんな理由で、伊織は自分を避けるのか?
違う。伊織はそんなことは言わない。
『……ちゃんと、答えて』
『……っ』
そうして、無理やり伊織から事情を聞き出した。
曰く、"クラスの男子から嫌がらせにあっている"とのこと。
『雪村さんから離れろ』『釣り合ってない』『勘違い野郎』など。
それを聞いた時、自分は。
『……そっか』
制御できない、業火のような感情を感じた。
後にこれが、”怒り”という感情だと知った。
『……誰?』
『え……』
『誰が、伊織にそんなこと言ったの?』
自分の表情が、抜け落ちているのが分かる。
それを見た伊織が、少し怯えていた。
でも、早く知りたい。
あたしの大切な人を、傷つけた人間を。
どうでもいい赤の他人。
興味もない知らない誰か。
そんな奴らが、あたしから伊織を奪う気か。
『……ああ……』
――許さない。
ここまで強い感情は、生まれて初めてだった。
伊織に嫌がらせをした男子はすぐに特定できた。
クラスのリーダー格の、体の大きな男子。
いつも話しかけてきて、迷惑していた人だ。
『おい美月! 天野なんかより、俺といた方が楽しいだろ?』
(……この人、か)
ニタニタと笑う、気持ちの悪い男。
この人が、伊織を傷つけた。
この人のせいで、伊織はあたしから離れようとしている。
怒りを超えて、頭が冷えていった。
自分の唯一。自分の半身。
それをこの人は奪う気だ。
なら潰そう。消してしまおう。
二度と自分と伊織の前に現れないように。
そう決めて、自分は動き出した。
……今にして思えば。
自分の中で”タガ”が外れたのは、この時だったかもしれない。
『な、なんでこんな……! ち、違う! 嘘だ! 俺じゃない!!』
力じゃ勝てない。
だから自分が用いたのは、別のやり方。
下校時に男子をいじめている写真。
物陰で女子に乱暴している写真。
コンビニで万引きをしている写真。
撮って、撮って、撮り続けた。
そして、バラまいた。
教室に、廊下に、職員室に、トイレに。
ただ、それだけ。
『お、おい! なんとか言えよ! お前らだってやってただろが!』
誰も彼を助けない。
彼の味方は誰もいない。
裸の王様が窮地に気づくのは、剣を突きつけられた後だった。
『――ねえ』
『っ!? み、美月……!』
名前を呼ばれる。反吐が出そうだった。
自分を名前で呼んでいい男の子は、一人だけなのに。
『な、なあ美月? お前からも言ってくれよ。分かるだろ? 俺がこんなことするわけないって!』
『……』
『い、今まで言わなかったけどさ。俺、お前のこと好きなんだよ。だから……』
縋りつくように伸びてくる手をかわして、一言。
『きみ……名前、なんだったっけ』
『え……?』
今更ながら、思った。
あまりに興味がなさすぎて、この男子の名前すら知らなかったことに。
『な……え……?』
『さよなら』
翌週。彼とその取り巻きは、学校から消えた。
その後どうなったかは知らない。どうでもいい。
でも、これで。
『――伊織? もう大丈夫だよ?』
『大丈夫って……誰が、こんな』
『さあ? 誰かがやってくれたんじゃないかな』
伊織は、少しだけ怯えていた。
安心させたくて、ぎゅっと抱きしめた。
次の日から、伊織はいつも通り。
家でも学校でも、一緒にいてくれた。
安心した。安心したからこそ、自分は決めた。
あたしには、伊織だけがいればいい。
他はいらない。
いつか必ず、伊織と二人だけの世界を作る。
——それが、自分の夢になった。
「……ん……?」
——不意に、目が覚める。
……なんだか、酷く懐かしい夢を見た気がする。
時計を見ると、朝の五時。
起きるにはまだ早い時間帯。
「……すー……」
目線を下げると、伊織が胸に顔を埋めて眠っていた。
頭を撫でてあげると、少し擦り寄ってくる。
「……ふふ、可愛い」
……ああ、幸せだ。
心から思う。
伊織のおかげで、あたしは”幸福”を感じられている。
誰かを愛して、愛される喜び。
絶対に手放したくない。
……あの夢を見て、改めて確信できた。
(……あたしには、伊織さえいればいい)
ずっと二人で。二人だけで。
それが自分の夢。
……でも、焦らない。
本当の意味で”二人きり”になるのは、まだ早い。
あたしだけじゃなく、伊織にも、そう望んでもらいたい。
だから、今は待とう。
少しずつ、少しずつ、溶かしてしまおう。
あたしなしじゃ生きられないように。
他の誰も、目に入らないように。
心で、体で、溶かしてあげよう。
伊織は何も知らなくていい。
あたしの本心も。自分が囚われていることも。
何も知らないまま、溺れてしまえばいい。
——それがきっと、一番幸せなことだから。
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