蛍ちゃんと呼んでくれていいんだよ?

「あ、あっ……」

 山にかかる月を背に英人へと振り向く少女。

 闇に支配された山、深淵の如き漆黒のスーツ、黒曜石の如く黒く光る長い黒髪、その上に乗る黒い帽子。

 その殆どを黒に支配された空間で幼くも美しい少女の肌が、深淵の如く深い漆黒の闇の中に白磁の如く艶やかに浮かび上がる。

 狂気より一転、幻想的なまでの光景。

 非常識、非日常の連続により英人の理解能力、言語能力を奪い去った。

「え、あぁ……?」

 少女は僅かに眉を顰めるとゆっくりと腰を落とした。

「──ま、待ってくれっ!人間!俺は人間だっ!!」

 英人がそう言った瞬間、眼前で少女の足が止まった。

 正に刹那、間一髪。

 コンマ一秒弁明が遅れていれば、英人の頭はすぐそばで永遠の眠りについたゾンビと同じ道を辿っていたであろう。

 少女は英人を胡乱な目で見ながらもゆっくりと足を下ろし髪を払った。

「人ならそうと早く言わないと危ないよ」

 危ないのはお前だと英人は言いたかった。

 少女はまだ疑っているのか、ジロジロと嘗め回すように英人を観察し、何かに気付くと口の端でニッっと意地の悪い笑みを浮かべた。

「君……もしかして、腰を抜かしているのかい?」

 年端も行かない少女……いいところ中学生、身長だけなら小学生でも通る幼子のからかうような口ぶりに、英人はムッとし足に力を入れた。

「そんな事──」

 しかし、どれだけ力を入れようとしても腰から下には力が入らなかった。

 つまり、少女の言うそれは事実であった。

「──え、あれ?嘘?」

 生まれて初めて経験した腰を抜かすという状況に英人は間抜けな声を上げ、不安そうに顔を上げるもその場にいるのは少女と英人のみである。

 少女は眉をハの字にし、左の口端をニッっと吊り上げてニヤニヤと笑みを浮かべながら英人に手を伸ばした。

「ほら、掴まりなよ」

 英人は見るからに自身よりも幼い少女の態度に苛立ちを覚えた。

 しかし、それと同時に先ほど目の前で起こった出来事、少女の纏う異様な雰囲気は紛れもない現実だ。

 この意味不明な状況に躊躇する英人の手を少女は返事もまたずに掴んだ。

 次の瞬間、英人は宙に浮いていた。 

 そして、浮いた身体を少女は米袋でも担ぐように肩の上に乗せてしまった。

 粗雑な扱い。

 だが、二度も圧倒的な少女の力を目の前にした英人に堂々と不満を言う度胸は無かった。

「あの……もう少しこうなんとかなりませんか?」

「何?お姫様抱っこの方が良いのかい?」

 自身の半分程度の体重も無さそうな少女にお姫様抱っこをされている図を創造して英人は顔を歪ませた。

「せめておんぶにしてもらえませんか?」

 そう言われると、少女は「仕方ないな」と言いながら起用に英人を背負いなおした。

「胸が近いからといって揉むなよ?」

 本気かジョークかわからない言葉に英人は悩んだ。

 笑っていいものか、否定すればいいのか。

 選択を間違えて機嫌を損ねた結果、ゾンビと同じ末路など想像したくも無かったからだ。

「おいおい。突っ込んでくれよ。これじゃあまるで滑ったみたいじゃないか?」

 実際滑っているのだが、少女はそんな事は気にせず英人を背負ったまま村の方向へ少し進み、辺りを見渡すと何かを見つけて屈み込んだ。

 それはこの闇夜には不釣り合いな真っ黒なサングラスだった。

 彼女は迷いなくそれをかけると次はすぐ近くに落ちていた自身の大きな旅行鞄を拾い上げた。

 そして、クルリと向きを変えると山の方へと進みだした。

「もう少し待っていてもらうよ」

 少女はそう言うと、頭の砕け散ったゾンビの近くまで行くと一度そこで鞄を下ろし、中からゴム手袋と丈夫なフリーザーバッグ数枚を取り出した。

 そして、ゾンビの欠片を幾つか慎重に採取すると、ゾンビの欠片もゴム手袋も直接触れないように気をつけながら袋を三重にして旅行鞄へ仕舞いこんだ。

「さて、そろそろ行こうか。集落を目指せばいいかな?」

「ア、ハイ。よろしくお願いします……えーと?」

 英人は今更になってこの小さな少女の名前すらしない事に気づいた。

「茶文蛍(さもん けい)だ」

「サモンさんですね。俺は寺衛英人です」

「英人君だね。悪いけどボクは自分の苗字があまり好きじゃないんだ。蛍ちゃんと呼んでくれるかい?」

 どんな理由があるか知らないが、ゾンビの頭を一撃で粉砕する得体の知れない少女をちゃん付けで呼ぶ勇気は英人には無かった。

「ケイさんですね」

 その呼び名に蛍は少し不満そうだった。

 しかし、いつまでも呼び方一つにこだわる蛍でもない。

「さて、帰るまでの道中がてら教えてくれないかい?」

 僅かに変った蛍の声色に英人は唾を飲んだ。

「どうして君はあんな所にいたんだい?」

 文字通り隠す理由も何も無い英人は、蛍の背中で彼女の質問に一つづつ、包み隠さず全てを話す事になった。


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