神使の爪痕
葛西 秋
壱、白毛の祟神
猿が家屋を荒らすこと
第1話
「まぁた今日もやられていたわぁ」
裏戸からのっそりと入って来た権蔵は、家主の十兵衛の姿を縁側に見かけると挨拶もそこそこにそう言った。権蔵は馬子である。脇街道の小さな宿場町を拠点に山間の村や海辺の漁村を行ったり来たりして物を運ぶことを生業にしている。
「今日も出たか」
表の店を開ける準備に忙しい十兵衛は、その場に腰を下ろすことなく、けれど権蔵に真っ向から応えた。
十兵衛はその宿場町で旅人相手の飯屋をやっている。やっているとはいっても店の切り盛りは十兵衛の母の富江と十兵衛の嫁であるキヌ、そしてキヌの妹であるヨシが張り切っていて十兵衛が何の気なしに店先に顔を出すと邪魔者扱いされる。
だから十兵衛の仕事は店で出す料理の食材の調達である。山から野菜や茸を、海から魚を運んでくる馬子の権蔵とは自然、懇意である。権蔵は他にも回っている店があるようだが、十兵衛の家の縁側を休憩代わりの息抜きに使っている。
勝手知ったる知人の家、権蔵はその縁側にひょいと腰かけると煙管を取り出し、火口にちょいちょいと器用に火をつけると紫煙を冬枯れの庭に吹き上げた。
「こんなことはこれまでなかったんだがなあ」
権蔵は十兵衛の忙しさなど構うことなく長々と溜息を吐く。
「なあ十兵衛、人の世が変ったからと云って、獣まで生き筋を変えることはなかろうが」
「わからんぞ権蔵、なんせ相手はエテ公だ。それこそ猿の人まね、人の世が変るのなら己らも一つ、変わったことでもやってみようかと思ったのかも知らん」
「猿が、か」
「猿だから、な」
十兵衛は首を伸ばして店の表の様子をうかがった後、いそいそと権蔵の隣に座り込み自分も煙管に火をつけた。
「なんだ、店はいいのか」
十兵衛の仕事の邪魔をしているという自覚は無いのか、権蔵が尋ねる。十兵衛はふうッと大きく煙を吐いて、
「いいんだ、どうせここらは脇街道、先だって官軍様が東に進むのを見送ったあとはまともな客はほとんど通らない。物騒だからしばらく閉めておくかと思案しているところでな」
きらきらと日の光に輝く錦の御旗を押し立てて新政府軍が東海道を江戸に向かったのは今年の初めの二月のこと。それから師走の今に至るまでどうも落ち着きのない日々が続いている。
これまで国を治めていた徳川の将軍様がその位を京の帝に返還し、これからは帝がこの国を統治するのだと薩摩訛りの兵士が触れ歩く。その兵士と浪人侍が往来で切り合うことも度々あるのも物騒だが、何より困るのは宿場町の代官所にお役人がいなくなってしまったのだ。
もともとこの地を治めている藩から代官所に遣わされていた役人だったが、その藩自体がなくなってお殿様は別の領地に遷された。代官所の役人は職を失ったわけだ。争いごとに揉め事、許可が必要なあれこれを採決する場所がなくなり、小さな宿場町には不安がずっと漂っている。
落ち着きがなくたって農民は時期になれば種を蒔き苗を植えて、畑や田を作らなければならない。落ち着きのなさは十兵衛や権蔵のような商いを生業にする者たちの方に顕著だった。
「猿のやつらもお代官様がいなくなったと知って、町に出て暴れるようになったのかも知れねえなあ」
二人の話題に上っている猿とは、このところ宿場町の近くに現れては家屋に入り込み、食料を荒らしていくやっかいな癖をもった猿のことである。
それも一匹や二匹ではない。十数匹の群れが押し寄せるから、女子供だけでは太刀打ちできない。下手に追い払おうとすれば、山の胡桃を噛み砕く猿の歯に指を嚙み千切られてしまう。家屋の裏手に小さく作った畑の作物ももちろん食い尽くされている。
十兵衛は軒の下から空を眺めた。師走の澄んだ青空は今の話題とそぐわない。
権蔵が煙管をトン、と打つ。
「追い払うには銃を使うのが一番だが、宿場町の近くで銃を使うにはお代官様の許可が必要だ。そのお代官様の影も形もどこにもねえ」
「ならば弓矢か」
「この宿場町のだぁれが弓矢を使えるんだぁ。十兵衛、おまえ使えるか」
十兵衛は黙って首を横に振り、権蔵も同じく首を横にぶんぶんと振った。
「しっかし何もしないでただ猿どものやりたい放題にさせるわけにはいかん」
「どうするかなあ」
二人して一服終えた煙管を手にして空を仰ぐ他はなかった。
「……そういえば」
「お、なんか思い浮かんだか。いいぞ十兵衛」
「このところ外陣の離れにお武家様が御泊りじゃあなかったか」
「外陣」
外陣とは通称で、東海道の脇街道であるこの宿場町で唯一、武士の宿泊が許されている宿である。主街道ではないのでほとんど使われずにいたその外陣だが、数日前からそこに止まっている武士がいる、と町で密やかに噂されていた。
ただ、誰なのかは分からない。
徳川様の御代ならば、泊まる武家の身分は詳らかに宿場町に伝えられ、粗相がないように代官所の役人にきつく言い含められたものだ。なのに、今、外陣に泊まっているお武家様の身分は誰も知らされていないのだ。
代官所が無くなったのだから当たり前かもしれない。
けれど、それにしてもまったく漏れてこないのは不思議なことだった。
「ちょっとそのお武家様にお頼みできないか、算段を立ててみよう」
十兵衛の決意を聞いた権蔵が、大丈夫かぁ、というやや不安気な声を上げた。
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