第40話 春
大学の入学式は快晴に恵まれた。
ふたりが入学する国立大学は、学生数が一万五千を超える巨大な総合大学だ。当然のように医学部に合格した珪を横目に、春日は堅実に法学部に合格した。本日、晴れて入学式である。
式典に参列する気はお互いさらさらなかったが、式典後に行われるそれぞれの学部のオリエンテーションには出なければならない。春日は朝から珪を叩き起こして、昼前に大学に到着した。
「ええな? ちゃんと資料全部受け取って説明聞いて、終わってから出てくること。途中で嫌になったからって退室しないこと。喧嘩の売り買いもしないこと、声かけられても穏便に対応すること、ナンパとセクハラは現行犯で捕獲して俺のとこ連れて来い」
「わかったうるせえ黙れ」
医学部のオリエンテーションが行われる棟の前で、珪はこれ見よがしに耳を塞いだ。
春の爽やかな日差しの下で、金色が綺麗にきらめいている。スラックスに薄手の長袖というシンプルな出で立ちをした破格の美人は、立っているだけで異次元の存在感を放っていた。大学の敷地内に入ってから、医学部棟にたどり着くまでに、声をかけてきた人間の数は両手両足の指では足りない。
奇跡の美貌を惜しげもなく晒して、珪はシッシッと手を振ってきた。
「いいから行けよ。お前のオリエンテーションも始まるだろ」
「あーもー、心配。お前が初日から傷害事件起こすんやないかって不安でしゃーない」
「そっちかよ」
「間違いなくめんどくさい奴に声かけられると思うけど、かわせや。手ぇ出さずに、問題起こさずに、穏便に。ただし手ぇ出されたら遠慮なく潰せ」
周囲からのおびただしい視線に怯む素振りもなく、珪は泰然と立っている。
大学入ったらフードはやめる。
合格後にそう宣言した珪は、その言葉の通り、顔を晒して大学に踏み入れた。現実的に考えて、大学生活すべてを覆面で過ごすなど不可能だ。故に、それなら最初から顔を出すという、潔い決断だった。
『めんどくせぇもんはお前が蹴散らしてくれんだろ』
大丈夫かと問うた春日に、珪は偉そうに鼻で笑った。
『せいぜい頑張れよ。俺が傷害事件起こさねえように』
まったく物騒で、極めて分かりにくい、無類の信頼の言葉だった。
後ろ髪を引かれ過ぎて禿げそうになりながら、春日は法学部のオリエンテーションへと参加した。スーツ姿でどこか浮足立っている周囲の同期を眺めながら、説明される情報を頭に叩き込む。途中で何度も確認したスマホはうんともすんとも言わず、珪から特段の連絡もないまま、予定時刻ぴったりにオリエンテーションは終わった。
新入生歓迎会、という言葉を丁重に辞退して、急ぎ足で向かった医学部棟前には、果たして人だかりができていた。
「やっぱり……」
ごった返している人混みの中心に、ちらりと金色が見えた。漏れ聞こえてくる声を聞く限りでは、名前や出身を問うものから、さっそくサークルへ誘うもの、どこの芸能事務所に所属しているのかと探るもの、様々である。
春日はひとつ息を吐いて、人混みの中に突進した。
長身を活かして有象無象をかき分ける。群がっている人間は、スーツ姿が半数、私服姿が半数。新入生に限らず、在校生も大量に釣れているようだ。今頃、あらゆるサークルのライングループで、医学部に天使出現のメッセージがやりとりされているだろう。きっとそこには、本人の許可もなく撮影された、何枚もの写真がつく。
それでも珪は、頑として、顔をあげて立っていた。
「はいはいはーい、すんません! 通ります! ちょっ、ごめんなー! 通るでー!」
春日は声を張り上げて人だかりの中心地に身体をねじ込ませた。鉄扉面のような無表情を貫いていた灰色の瞳が、ふと上がって、春日を捉えた。
ざわ、と人混みがどよめいた。
笑ったわけでも、声を出したわけでもない。珪の表情は何も変わらない。しかしまるで人形に命が吹き込まれたかのように、精巧な無表情が、一転して人らしい彩を得た。ほんのわずかな、しかし鮮やかな、変化だった。
「……遅ぇ」
「予定時刻ピッタリやったって。こっちはよ終わったん?」
「知らね、予定時刻っていつだよ」
「自分とこのスケジュールくらい把握しとけ阿呆」
開口一番から文句を言う阿呆は、近くの人間を押しのけて春日に寄ってきた。先ほどの五割増しで黄色い悲鳴が飛び交う周囲に、見向きもしない。
知り合いですか!? と春日にまで質問が飛んできたが、春日は適当に手を振って濁した。
目の前に来た珪が、綺麗なドヤ顔で見上げてくる。
「殴らなかったぞ」
「めっちゃドヤるやん……」
「喧嘩してねえし口論もしてねえし、うぜえものは全部無視して黙ってたし、お前と別れてから一言も喋ってない。怪我人はゼロだ」
「相変わらずびっくりするほど低いハードルで勝負してんなぁ」
入学式で怪我人がゼロなど、当たり前であるべきだ。その常識が、珪に限っては通用されないので、本日の成果は珪にとって上々だろう。珪は最難関ミッションをクリアしたような顔で、偉そうに己の功績を告げてくる。
春日はため息を隠して、珪に手を伸ばした。そうして、「偉い。お前にしては偉い、最高」と金髪をぐるりと混ぜる。子どもは褒めて伸ばすべきである。
小柄な背中を押して密集地帯から抜け出しながら、「それにしても」と愚痴が出てしまったのは、無事に終わった安堵のせいだ。
「一言も喋らんからこんだけ押しかけられたわけか。お前、口開いたら台無しやし、ちょっとでも喋っとけば、やばい奴やと思われて遠巻きにされたかもしれんのに」
「喋るなっつったり、喋っれっつったり、どっちだよ」
追いすがってくる集団に「このあと用事あるんですんません!」と怒鳴って牽制し、足早にその場を立ち去るところで、それは聞こえた。
「いや絶対無理っしょ。彼氏いるっしょ、あれは」
「無理だね~、あの美人がフリーなわけがないね」
「けどさあ! 大学に入って他の男見たら新しい世界に飛び込みたくなってくれたり!?」
「しねえって」
「しないねぇ」
どこぞの先輩方らしき会話である。
「ほい、諦めろ。人のモンに手ぇ出してトラブルは御免だ」
「せめてお友達から始めてきてもいい!?」
「彼氏くんのガード硬そうだから、やめといたほうが無難かなぁ」
ありがちな、非常にありがちな、誤解である。横浜の診療所で耳にタコができるほど言われた類の、誤解だ。
しかし、春日は無視を決め込んだ。聞こえなかったふりをして、足を止めずに進む。医学部棟前から歩道を通ってペデストリアンに出る頃には、追いすがる人数もかなり減っていた。
黙って隣を歩いていた珪が、ふいに「……なるほど」と呟いた。
「何。いきなり何の納得?」
「あの誤解を放置しとけば、今後俺に声かけてくる人間が確実に数割は減るわけだな?」
「う~~~ん、うん、んん……」
最適な解決策を得たと言わんばかりに、珪は機嫌良く春日を見上げた。
新緑の並木の下で、陽の光を浴びる顔が美しかった。
顔をあげて歩くと決めた、珪の勇気と決断を、最大限支えるつもりでいる。嫌なものは蹴散らしてやると言った春日の言葉に賭けて、珪はフードを取ったのだ。
であればこそ、珪を守るためならば、誤解だろうと道化だろうと、いくらでも引き受けてやる所存ではあるのだが。
「ちょうどいいな。同居してるとなりゃ、説得力もあんだろ。完璧だ。今後積極的にお前のことを吹聴して歩く」
「……まあ、それが一番手っ取り早いかもな。うん。お前がいいならそれでええわ」
どうせ手放すつもりはないのだから、この関係にどんな名前がつけられようとも、春日はまったく気にしない。むしろ誤解ではなく事実にしてしまえば手っ取り早いかもなぁ、などと思う。
春日は珪を見下ろすと、あくまでも朗らかに、そしておおらかに、頷いた。
「よし。まずは役得として乗っかっとこ。その設定貫くなら、手ぐらい繋いで帰るべきちゃう?」
「頭沸いてんのか?」
「辛辣」
隙を見て珪の右手を勝手に取れば、それはそれは嫌そうな半眼を寄越された。無言で振りほどこうとしてくる手を、強引に引き寄せる。
目の前にきた小柄な手を眺め、逃がさないように、改めて強く握り込んだ。
「救いの手や」
「あ?」
「俺に降ってきた、救いの手。今更離す気ないから、諦めてつかまっとけ」
二年前の冬、唐突に春日の目の前に降ってきた、世界で一番美しい救いの手だ。これを離さずにここまできた。離さなかったから、ここにこられた。
いつかの珪の託宣は、今、現実となって春日の前にある。
珪は少しだけ驚いたように春日を見上げて足を止めると、繋がれた手に視線をやった。
「……降ってきたか」
小さく零れた声に、隠し切れない安堵があった。
その声に応えるつもりでもう一度手に力を込めれば、珪は何も言わずに、また歩き出した。
数歩もいかぬうちにあっさりと手は振りほどかれたが、その数歩を黙って繋いでいてくれたことが、珪らしい譲歩だった。
柔らかな風が、新緑の匂いを乗せて空に駆けていった。
ふたりが出会って、三回目の春が、始まろうとしていた。
そして、春がくる 山崎あんこ @ondecco
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