第二章:初春、それぞれの衝撃

第9話 普通の高校生の、真似事

 平日の昼間、珪はいつも、市内の図書館を徘徊する。


 同じ図書館に通い続ければ目立ってしまうため、適当にローテーションを組んで、毎日あちこちの図書館に出向き、夕方まで居座る。高校の課題をやることもあるが、大抵すぐに終わってしまうので、ほとんどの時間は手当たり次第に本を読んで過ごした。


 本を、たくさん読むこと。


 もう何年も前に課された約束を、粛々と遂行する。


 昼間からふらふらと出歩く珪に、楠木は何も言わない。通信制高校とはいえ、出席が必要な単位もある。珪は、一度も出席していない。


『無理なら行かなくてもいいよ』


 楠木がそう言ったので、珪は『無理』だと答えた。一年次については、レポート代替や課題の追加や、あるいは二年次への持ち越しということで、かろうじて進級は認められた。しかし、このままでは必要な単位が揃わず、卒業出来ないことは明らかだ。


 それでも、楠木は『いいよ』と笑っただけだった。


 民俗学の本のページをめくる。手当たり次第に本を読む。楠木が大学に行けというのなら、何が何でも行かなければならない。興味を惹かれる学科などあるわけもないが、とりあえず無難で、将来の就職に有利なところを選べばいい。


 この数か月、片っ端からさまざまな分野の本に手を出しているが、今もこれといったものは見つからない。


 ブブ、とスマホが震えた。


〈至急:一生のお願い。お前の助けが必要。手伝って〉


 焦げ茶の馬鹿からのラインである。

 クマが大げさに泣き崩れているふざけたスタンプを見るに、どう考えても至急の案件ではない。

 珪の返事は決まっている。


〈断る〉


〈せめて内容聞こーや〉


 春日のラインは早い。珪が次の返事を打ち終える前に、ねじ込むようにピロンピロンと続いてくる。


〈どーしても必要なものあんねん〉


〈俺じゃ取れへん〉


〈お前しかおらん〉


〈お前なら出来る〉


〈十七時までに迎え行くからよろしく〉


「聞けよクソが」


 時計を見れば、十六時半を指している。

 珪はさっさと立ち上がると、机に積んでおいた書籍を書棚に戻し、借りる数冊を持ってカウンターに向かった。


 今日、春日は診療所のバイトに入っていない。毎週水曜と金曜は午後の診察が休みのため、あのやかましい馬鹿が来ない安息の日である。当然、珪を捕獲しに来ることもないので、本日、珪がどの図書館にいるかなど知らせていない。


 とっとと帰るに限る。


 そう思って図書館を出た先、いつも春日と落ち合うモニュメントの前に、背の高い焦げ茶がいた。


「あー、おった! ぴったりや! 俺も今ついたとこ!」


「うっぜ。禿げろ」


「今日だけはお前の暴言も広い心で受け止める所存! ってことで、行くぞ!」


「行かねえ。帰る」


「お前は先月のバレンタインに結衣からチョコレートをもらいました」


 春日が突然真顔になった。


 二月十四日、塾に迎えに来いと言う不当要求を寄越した結衣は、その日、満面の笑みで小さな箱をくれた。ラッピングされた箱の中に、チョコレートが入っていた。


「んで、今日はホワイトデーです。もらったら返す。これ、礼儀。最低限のマナー。お前の用意は?」


「……」


 不覚にも返事に詰まった珪の腕を鷲掴み、春日は某大型ショッピングモールへ乗り込んだ。


 平日とはいえ、夕方の時間帯ともなれば混みあっている。高校帰りらしき制服の集団を避け、歩く春日の背中を追っていけば、それはゲームセンターで足を止めた。


「これや」


「何が」


 胸を張る春日の後ろに、クレーンゲームがあった。中には、抱きかかえるほどのサイズの、オレンジ色の物体が置かれている。


「結衣が最近ハマってるポケモン」


「ポケモン?」


「そう。んで、こいつがホゲータ」


「ほげーた」


 聞いたこともない単語である。


 そのホゲータとやらを指さしてから、春日はバン! と顔の高さで手を合わせた。


「ホワイトデーにこれやりたいんや! どーしても取れへん! もうお前しかおらん!」


「……普通に買えばいいんじゃねえの」


「クレーンゲーム限定商品やねん! 結衣がこのでっかいホゲータ抱っこしてるとこ想像してみ!? かわいい! 絶対これがいい!」


 拳を握りしめて力説したかと思えば、突然スンと真顔になる。


「協力を拒否するなら、結衣に相応のホワイトデー用意するまで逃がさんからな」


「落差が怖ぇよ。何なんだよお前のシスコン」


 春日は親の仇を見るような目で、ホゲータを睨みつけた。


「これ、高校の友達総出でチャレンジしてもろたけど、あかん。このホゲータ、ラスボスすぎてあかん。全員敗退した」


「……ふぅん」


 高校の友達、という言葉が不意打ちだった。

 今更ながら、こいつ高校生なんだっけか、と思い出す。


 学校帰りの春日は学ランだ。三月になり、薄手のパーカーを羽織るだけの軽装になっている。中高生で賑わう平日夕方のゲームセンターに、春日は何の違和感もなく馴染んでいた。


 きっと友人と来た時も、春日はここに馴染んでいた。友人があり、学校に通い、同年代と遊ぶ、普通の高校生。


 賑やかなゲームセンターの中で、フードを被って顔をあげられない珪は、一生ここには馴染まない。


「だからもう、俺が頼める知り合い、お前だけやねん。軍資金三千円用意した。これでなんとか」


 拝み倒してくる春日を見上げ、珪は嘆息した。


 この馬鹿のことはどうでもいいが、結衣のためというのなら、一度くらい、普通の高校生の真似事も引き受けてやろうかと思った。


 ◇◇◇


 二百円で一回。五百円で三回。


 世知辛い回数制限を受けながら、角度と距離を確認してボタンを押す。


「んでな、ほんまは今日も高校の友達に頼もうと思ってたのに、あいつら逃げやがった。取れなかった時のお前が怖い、とか言うて。失礼やわー、失礼やろ?」


「賢明だな」


「お前も失礼やな。人をシスコンみたいに」


「自覚ねえのかよ。嘘だろ」


 オレンジ色の物体にアームがかかる。一瞬頭部を持ち上げたアームは、重さに負けてすぐに外れた。


「珪なら、今日も絶対図書館やろと思って。そろそろ帰る時間やし、丁度良かったな」


「よくねえよ。なんで今日、県立図書館にいるってわかった」


「いつものローテーションだと、たぶんそこやろなって」


「ストーカーか……」


「しみじみ言うな」


 珪は数秒、黙考した。オレンジ色の物体を、馬鹿正直に持ち上げて獲得することは、おそらく不可能だ。


 春日が五百円玉を追加したので、改めてボタンを押す。


「つーか、これまでいくらつぎ込んだんだよ、これに」


「一万」


「似たようなやつ買ったほうが絶対安いだろ……」


「結衣にやるもんに妥協はせえへん」


 春日はホゲータを睨みつけながら、断固とした口調で言った。


「ええ子やろ。毎日毎日塾行かされて、友達と遊ぶ時間なんかほとんどないのに文句も言わんと、いっつもにこにこしてくれてんねん。俺ほんま結衣のおかげで踏ん張れてる」


 わざとずらして下ろしたアームで、半ば強引にホゲータを押しのける。

 ずんぐりむっくりとした物体は、四十五度回転した。


「結衣が喜ぶためなら一万も二万も安いわ。そのためにバイトしてんねん。俺もう、結衣のために生きるって決めてる。結衣を守って、たまにこうして喜ばして、ちゃんと大人になるまで育てたら、俺の人生それで満足」


 意地のようにホゲータから目をそらさず、決して珪を見ないまま、春日はぼそっと愚痴った。


「……自分の将来の夢ちゃんと持てとか言われるより、ずっと現実的で必要な目標やと思わん?」


 それが愚痴だと分かる程度には、この数か月、嫌でも隣にいた。高校三年生を目前に控えた三月、進路希望だの進路面談だの、そんな言葉を春日の口から聞くことも多くなっていた。


「まあ、夢も希望もねえけど」


 これからいくらでも将来の道が開ける高校生にしては、あまりにも切迫した目標であるとは思うけれど、それが悪いとも思わない。


 珪は思ったまま言った。


「やりがいはあんじゃねえの」


 あの無邪気で素直な子どもをひとり、己の手で守り育て上げるというのなら、それは誰のそしりを受ける必要もない、誇るべき役割だ。


 アームをもう一度降下させ、回転させた物体を、さらに狙った角度へと誘導していく。次いで、腹部にアームを引っかけて、若干の横移動。


 そこで制限回数が尽きた。ここまでの投入金額は千円だ。随分とぼったくられている気がするが、出資者は春日なので構わない。


 待てど暮らせど、次の五百円が投入されなかった。


「おい、金」


 振り仰いだ先に、焦げ茶の頭が見えなかった。


 代わりに、足元にうずくまっている学ランがいる。


「何してんだお前。金寄越せよ」


「それカツアゲの台詞やから人前で言うたらあかんで……」


 なぜか脱力したように床に潰れて、春日は腕だけを伸ばして五百円玉を寄越してきた。


 突然の奇行は放っておくことにして、さっさとゲームを続行する。


「たぶん次の三回で取れる」


「ほんまに? お前に頼んだ俺の目に狂いはなかった? よっしゃ、取れたらドーナツ奢ったろ。あとな、俺今めっっっちゃ珪のこと好きやわ、どーしよ」


「いきなり持ち上げようとするゲームじゃねえんだな。重心計算して角度調節してからアーム引っかけてく仕組みだろ」


「やりがいなぁ。やりがい。ええ言葉やな、やりがい」


 完全に無視したというのに、春日は何やら満足そうに、同じ言葉を繰り返した。

 かと思えば、突然立ち上がってくる。


「あー、元気出た! がんばろ! 俺は結衣をちゃんと育てる! んで結婚式に父親ポジションで出席して号泣する!」


「結婚するとも限んねえだろ。最近は独身率あがってるし」


「結衣が他の男どもに放っておかれるわけないやろ、あんなええ子他におらんでお前ふざけんなや」


「わかった」


 ドスのきいた声でまくし立てられ、珪は取り急ぎ頷いておいた。

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