第2話 動き出す静物
0.スライム――透明で粘液状の生物。
多くの人々はそれを、ゲームやファンタジーの中で見かける無害な存在だと考えている。
しかし、それが現実に現れた時、恐怖の本質が浮かび上がる。
スライムはただの物質ではなく、ありとあらゆるものを包み込む。
しかし包み込むのは形ある物だけなのか。
時にはそのものしか持たない記憶や思考までも吸収してしまう。
1.街の片隅にある小さな美術館。
その中には現代アートを中心としたさまざまな作品が展示されている。
目を引く大作から少し風変わりなものまで、訪れる人々に刺激を与える場所だ。
その一角に、ひっそりと置かれた「不明な生物」という名の標本があった。
作者はアレク・モラン(Alec Moran)という無名のアーティストで、過去の展示記録もほとんどない。
展示物は無色透明の粘液状の物体で、外見だけなら学校の理科室にある寒天や片栗粉で作ったスライムにしか見えない。
「これがアート?」佳奈は内心疑問に思ったが、美術には詳しくなかったため、深く考えずにその場を離れた。
2.ある日、佳奈は館内を巡回している際に奇妙な変化に気づいた。
絵画の一つの顔が前日と微妙に違っているように見える。
口元が少し歪んでおり、目の焦点が変わったようだ。
別の日には、展示されている模型がかすかに位置を変えているようだった。
「掃除の時に触れたのかな?」
そう思い、同僚に尋ねてみたが、誰も心当たりがなかった。
さらに、展示室の隅で、小さな粘液の痕跡を見つけた。
佳奈は最初、それを単なる水の跡だと片付けたが、その痕跡が展示物の「不明な生物」の近くで見つかることが増えたため、不安が募り始める。
「気温や湿度で変わるものなのかもしれない…」 そう自分に言い聞かせる佳奈だったが、次第に胸騒ぎを抑えられなくなっていた。
3.その夜、佳奈は職場に忘れたメモ帳を取りに、美術館へ戻ってきた。
普段は穏やかな美術館も、営業時間外の静寂に包まれると、どこか不気味な雰囲気を纏っていた。
足音が館内に響き渡り、佳奈の心は次第にざわついていく。
展示室に入ると、ふと耳に入る「ぬめる音」。
最初は気のせいかと思ったが、確かに何かが滑るような音が近くから聞こえる。
足を止め、耳を澄ませる。
「誰かいるの…?」
か細い声で問いかけるが、返事はない。
ただ、展示室中央にある模型が微かに揺れているのが目に入った。
その不気味な動きに、佳奈の背筋が凍る。
後退りしようとした瞬間、乾いた割れる音が響いた。
足元を見ると、ショーケースのガラスが砕け散っている。
佳奈が踏んでしまったのだ。
慌てて視線を戻すと、目に飛び込んできたのは「不明な生物」の展示台。
だが、そこにあるはずの標本が消えていた。
「盗まれた…?」
咄嗟にそう考えた佳奈だが、その思いはすぐに打ち消された。
何かがゆっくりとこちらに向かっている。
視線を下ろすと、床を這う無色透明の粘液――「不明な生物」だった。
展示台から消えたそれは、今や自ら動き始めている。
そしてそのサイズは、記憶しているよりも明らかに大きい。
「これ…動いてる…?」
声が震える。
すると、展示室のあちらこちらで同じ「ぬめる音」が立て続けに聞こえ始めた。
かすかな月明かりに目を凝らすと、床には他にもいくつもの「不明な生物」が蠢いているのが見えた。
それらはじわじわと動き、まるで佳奈を囲むようにゆっくりと接近してくる。
佳奈はパニックに陥りながらも、異常な光景に気づいた。
粘液が近くの展示物に触れるたび、それらが変化していくのだ。
絵画の顔はさらに歪み、模型は崩れていく。粘液はそれらを取り込み、さらに巨大化していた。
「ありえない…こんなの…」 佳奈は恐怖の中、出口へ向かおうと一目散に走り出した。
しかし、粘液の動きも変わった。
緩慢だったはずのそれは、彼女の動きに反応したかのように、突如として勢いを増し、一気に膨張し始めた。
瞬く間に館内の空間を埋め尽くすほど広がる粘液。
どこを見ても逃げ場はなく、佳奈の恐怖と絶望は頂点に達する。
「助けて…!」
叫び声は虚しく反響するだけだった。
4.翌朝、美術館ではいつも通りの慌ただしい朝が始まった。
職員たちは開館準備のために館内を清掃し、パンフレットを綺麗に並べていく。
特に変わった様子もなく、日常が続いているように見えた。
「佳奈さん、今日は来てないの?」
1人の職員がふと尋ねると、近くにいた別の職員が答える。
「昨日、急に実家に帰ったって連絡があったよ。お母さんが倒れたんだってさ。」
「そうなんだ。」
短い会話はそれで終わり、誰も特に気に留めることなく、それぞれの仕事に戻っていった。
展示室もいつもと変わらないように見えた。
絵画や彫刻が静かに並び、ほんの少し変化があっても、誰も気づかない。
展示室の片隅には、見慣れない新しい作品が飾られていたが、それすらも誰の目にも留まることはなかった。
それは、一人の女性が何かに怯えたまま凍りついたような像だった。
目を大きく見開き、口元が恐怖に震えた表情をしているその姿は、生々しさと美しさが同居していた。
まるで命を吹き込まれたかのような彫刻。
その異様な存在感は、展示室のどの作品よりも鮮烈だったが、誰もそれが本当に何を意味しているのか考えようとしなかった。
その像の前に、ある職員が立ち止まった。
手に持っていたプレートを取り出し、台座の前に取り付ける。
プレートにはこう記されていた。
「恐怖の彫像 – 作者不明」
プレートを付け終えた職員は、少し離れた同僚に声をかけた。
「佳奈さん、もう戻れないみたいだよ。」
その声に、同僚は興味なさげに「そうなんだ。」と適当な相槌を返した。
一方、その展示室の片隅では「不明な生物」の標本が、以前と変わらない姿で静かに置かれていた。
だが、それが本当に「変わらない」のかどうかを確かめる者は誰もいない。
もしかすると、その粘液状の存在は他の作品、人に擬態しながら、館内で密かに増殖し続けているのかもしれない――。
[あとがき]
スライムという存在は、単なる粘液の塊ではなく、じわじわと侵食し、人の存在や記憶を飲み込む恐ろしい力を持つかもしれない。
現実世界に存在する「作品」の中にも、こうした異形が紛れている可能性があると思うと、背筋が凍るのではないだろうか。
美術館の片隅に静かに佇む「それ」は、誰かの恐怖を吸収しながら、新たな形を生み出していくのだ。
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