第2話 幼馴染

 制服に着替えてから部屋を出て、学生寮の玄関をくぐり外に踏み出す。

 同時に、AR情報とMR情報が視界に殺到してきた。


 目の前の道路を走る車の頭上には、赤い矢印が表示され、さらに予想進行ルートが、赤い光のレールとして、地面に表示されて見える。


 英語の看板に視点を合わせると、すぐ近くに和訳が表示される。


 首を回せば、MRの存在である宣伝用のアドバルーンや看板が立ち並び、信号機の上では、デフォルメされた犬のおまわりさんが、通行人に指示を出している。


 今、赤信号なのに渡ろうとした学生に、怒っているところだ。

 出会いがしらの衝突事故を防ぐために、曲がり角へ視線を合わせると、警告マークで接近者の有無を教えてくれる。


 これらの映像はすべて、耳の裏に装着したデバイスが、皮膚を通して脳髄へと直接電気信号を送り込み、脳に見せているというから驚きだ。


 俺の時代にもこれがあれば、交通事故なんて起きないんだけどな。

 続けて、街を行き交う人々に注目してみた。



 これらの3D映像はすべて、耳のXRデバイスが、皮膚を通して脳髄へと直接電気信号を送り込み、脳に見せているものだ。


 XRデバイス、単にデバイスとも呼ばれるこれは、今や国民の九〇パーセント以上に普及し、人々の生活を支えている。


 最初は、ゲームしかりケータイしかりネットしかり、教育論者を中心に、多くの大人たちがデバイスの危険性を訴え、警鐘を鳴らした。


 新コンテンツに対する、根拠のない批判で印税や講演料、番組出演料やアドバイザー料を稼ぐのは、一〇〇年経っても変わらない。今から一〇〇年後も、きっと似たようなことをしているだろう。


 けれど、デバイスを利用した生活改善アプリや危険予測アプリ、情報取得アプリの利便性は無類で、デバイスユーザーと非ユーザーの格差はみるみる広がっていった。


 結果、今では老若男女、誰もが愛用する、生活必需品としての地位を確立している。


 

「やぁ、幹明じゃないか」

「あ、おはよう」


 赤信号に足を止められていると、隣の学生寮から、幼稚園からの親友が声をかけてくる。


 背の順で並べばいつも一番後ろの長身。


 均整の取れた、モデル顔負けのスラリと長い手足。


 そして、一度微笑まれたら、ドキリとせずにはいられない、甘いマスク。

地方に住んでいる親戚の女の子にこいつ、橘内夏希(きつないなつき)の顔写真を送ったところ、紹介して欲しいと興奮気味に電話がかかってきた。


 もっとも、憧れるのは顔だけにしておくべきだろう。

 夏希に会えば、人の夢と書いて【儚い】という言葉の意味を知るのだから。


「それで幹明、昨日送った巨乳美少女画像フォルダは気に入ってくれたかい?」

「え、お、おう」


「ふふふ、お礼ならいいよ。パンの耳しか食べれずオカズのない君へのせめてもの救援物資さ。来週はお尻のラインが綺麗な子のフォルダを送ってあげるよ」


 こいつは得意げな顔で何を言っているんだろう。

 橘内夏希、そう、こいつは、超が付くオープンスケベなのだ。しかも……。


「まぁ、ボクは幹明のお尻にも興味があるんだけどね、お礼は体で払ってくれてもいいよ」


 美女の生き血を狙う、吸血鬼のように怪しい声音で、夏希はすり寄ってくる。

 夏希と肩が触れ合った途端、本能的に、お尻が硬く締まるのを感じた。


 そう、こいつは男女どちらでもイケてしまう雑食系なのだ。


 昔から幾度となく【連れション】を要求してきた意味が、今ならわかる。

 幼い頃の俺は無知で、そして純真無垢の権化だった。

 童貞なのに、こいつに大事な何かを喪失させられた気分だ……。


「あ、可愛い子発見!」


 いやらしい視線が、十字道路を挟んだ対角側の歩道に注がれる。


「おぉ、しかも、結構胸ある。いいなぁ、お近づきになりたいなぁ、どこの学園かなぁ、あの制服は確か……」


 鼻の下を伸ばして、漫画なら目をハートにしていそうな、だらしのない顔だった。


「ねぇ、信号青、だよ」

「おっとっと、美少女の揺れる胸を観察するのに夢中で気づかなかったよ。じゃあ、ボクらも早く行こうか、み・き・あ」


 通りすがりの美少女にくびったけだった夏希がくるりと振り返る。

 すると、控えめな胸が俺のほうを向いて、彼女のスカートがふわりとひるがえった。


 橘内夏希。


 俺の幼馴染で、幼稚園の頃からずっと同じクラスの、女子である。

 ちなみに、親戚の女の子に夏希の全身写真、それも海に行った時のものを送ると、


「返して! 私の初恋を返して!」とデバイス通信越しに泣き喚かれた。


 以来、夏希の顔写真を女子に送るのはやめようと思った、一夏の思い出である。



「「あ」」


 俺らが信号を渡ろうとした時、一陣の風が吹き抜け、夏希のスカートを持ち上げる。


 それでスカートの中身が丸見えに、なんていうベタな展開は起きないものの、夏希の白い太ももと、一瞬、白ではない何かが見えた。


 夏希が、脊髄反射に近い動きでスカートを押さえる。

 目の下を赤く染めながら、しおらしくまつげを伏せて一言。


「今、『あ』って言ったよね?」


 男らしさの欠片もない内股で、夏希はそう尋ねてくる。

 やめろ、可愛い仕草をするな。恋に落ちたらどうする。

 オープンスケベの夏希だが、曰く、不意打ちには弱いらしい。


「見てないよぉ」


 努めて冷静な無表情を心掛け、俺は言った。


「ボク、まだ何も聞いていないんだけど?」


 くちびるを尖らせ、夏希はちょっとうらめしそうな目つきになる。

 俺が、しまった、と思うのと、信号が赤になるのは同時だった。


   ◆


 寮を出て五分ちょっと後、学園に着いた俺は、気だるげなため息と共に、一年二組の教室のドアを開けた。


 二十一世紀半ばなんだから自動ドアにして欲しいのだけれど、コストと停電時、故障時のリスクを考え、教室のドアは未だに手動だ。


 パンの耳しか食べていない体だと、ドアの開け閉めすら惜しくなってくる。

 すると、教室ではいつも通りの平和な日常が流れていた。

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