第54話 決断
「案内しろ」
そう言いはしたが、頭の隅に追いやっていた疑問が鎌首をもたげてきた。
ボズクルトに追いついて、俺はボズクルトをどうするつもりだ。
俺は、ボズクルトを殺せるのか。
俺を見捨てたボズクルトの判断は正しい。俺を殺さずに眼を潰すだけに済ませて追放した事に端を発する一連の行動は、全て俺が知っているボズクルトらしい行動だ。一族を離れようが、クトゥブの庇護下に入ることと引き換えなら理解もできる。
そうだ。ボズクルトの判断は間違っていない。間違っていたのは一族が亡びようとも戦い続ける道を選んだ俺だ。
だが、ボズクルトは俺を見捨てた。
怒りとやるせなさがない交ぜになって胸中を駆け巡る。吐き気にも似た気分の悪さが喉からせり上がってきた。上辺だけ力は残っていても、芯から気が抜けていく。
「……クトゥブを殺す」
呟いても気分は優れない。しかし失せていた芯が身に戻ってきた。クトゥブがボズクルトに話を持ちかけなければ、ボズクルトは俺と共に死んでくれただろう。
それなら、元凶はクトゥブだ。
馬から降りたボズクルトの姿が見えた。その背後には民家がある。ホーエンハイムがアル=イクシールの実験をしていた家だ。ボズクルトの手に女の首はない。既に渡した後か。
「ハリル、もう止めにしよう!」
聞く耳は持たなかった。俺は馬を突っ込ませて飛び上がる。ボズクルトの頭を超え、勢いそのままに家の扉を蹴り壊す。入り口は炎の壁で塞いだ。これで邪魔は入らない。
中庭に走り込むと、クトゥブが一人で待っていた。
「サービト──」
「──ハリルだ!」
そこで、俺は自分の不自然な息の荒さに気付いた。疲れてはいない。しかしどうして困憊したように乱れている。
「ハリル、事情はイフラース、いや、ボズクルトから聞いた。私を殺すなら殺してくれて構わない。しかしアル=イクシールだけは完成させてくれ」
クトゥブもまた、切迫したように息が早かった。
「……何故ボズクルトと手を組んだ。お前たちには利がない筈だ」
「かの地でマリードが争ったという噂を聞き、それを探す為に現地の協力者が必要だったからだ。君を追い落とすつもりはなかった」
全ては万能の霊薬──アル=イクシールを作る為か。俺は曲刀を握りしめ、切っ先をクトゥブに向けた。
「アル=イクシールを作って何をするつもりだ」
「娘の為だ。娘の不治の病を治す、それだけが私の望みだ」
ナーディヤ。病弱でいて正義感が強く、度々倒れようとも自身を顧みず、ダマスクスの街の為、市民の為、尊敬する父の為だと無理を押して不正を暴こうとしていた。
「私はどうなっても構わない。ただ、娘にアル=イクシールを飲ませるまでは待ってくれ。ようやく探し求めていたマリードの死骸が手に入った。本当にあと少しなんだ。信じられないようなら腕でも足でも落としてくれ。ただ、殺すのはもう少しだけ待ってくれ」
クトゥブに向けた曲刀が、震えていた。
動揺ではない。曲刀が俺の意思とは無関係に下がろうとしている。それを持ち上げようと意識すると、知らず知らずに曲刀が震えた。
「ハリル、騙されんじゃねえ!」
アスワドが下卑た笑いを洩らした。
「あの娘が不治の病だって? あんなのただの栄養失調の運動不足だ。病気でもなんでもねえよ」
「そんなわけがない!」
叫んだのはクトゥブだった。アスワドが馬鹿にしたように笑い出す。
「知らねえのは親父だけだ。ヤークートの爺さんが一言でも娘が病気だなんて言ったか? 不治の病だなんて言ってるのは親父だけだ。考えても見ろ。日頃は家に閉じ籠りっぱなしで飯もほとんど食わねえ。そんな奴が急にこのクソ暑い街を歩き回るようになったらどうなる? 倒れるに決まってるだろ!」
「そんなわけがない!」
叫び、クトゥブは膝を着いた。その眼から大粒の涙が止めどなく零れていく。アスワドがさらに声を上げて大笑いした。
「娘が人嫌いになった時と同じだ。結局こいつは娘の事なんざ見ちゃいないんだよ。さあハリル、こいつを殺そうぜ。ナーディヤにとっちゃこいつは眼の上の瘤でしかねえ。殺した方が娘の為だ」
ナーディヤは、アスワドの言う通り不治の病ではないのだろう。過保護だったクトゥブに比べてナーディヤの意思を尊重していたヤークートの態度も、今思えば納得できる。
「ハリル、クトゥブを殺せ。お前がこうなったのは全てこいつのせいだ。復讐を遂げろ。そして俺たちが好き勝手できる理想の国を作ろうじゃねえか!」
結局、悪人はいなかった。
俺が感情を無遠慮にぶつけられる悪人など、そもそも存在しなかった。
そういう事だ。
いや、一人だけ見過ごせない奴が残っているか。
「焦っているな、アスワド」
「……何?」
「俺がクトゥブを殺すのを躊躇うかもしれない。そう思ったから焦りを見せたな」
躰の中で、何かが膨れ上がるのを感じた。躰が実際に変化しているのではない。アスワドが俺の躰から出ようともがいている。
「俺に憑りついたのは正しかった。お前に協力して、かつマリードに勝てるのは俺しかいないだろう。だが、俺に憑りついてしまえばさしものお前でも己の意思で俺から離れることはできない。だから俺の心変わりを恐れて焦った」
俺は曲刀を構え直し、自らの首筋に刃を当てた。
「どうやら俺は……悪人になり切れなかったらしい」
俺は手に力を入れ、自らの首を斬りつけた。
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