第48話 二者択一

 ターリクが戻ってきた。その背後には、獲物を手にした兵士が何人も控えている。窓の向こうでも複数の足音が集まってきた。


「盗人一人に随分と物々しいですね」

「盗人ですか。それより残念な知らせがあります。先ほどの客は総督の使者でね、アミール・クトゥブの娘とついでにその奴隷、二人の身柄を引き渡せと言ってきたのです」

 状況が読めない。さきほど襲ってきた連中は総督の手の者だったのか。だとすれば目的はなんだ。サービトは思考を巡らせながら、いつでも動けるよう耳と脚に意識を集中する。


「面白い事になってきた。何故だか分かりますかな。今私は、二人の命運を握っているからです。一人はアミール・クトゥブ、もう一人はダマスクス総督。ご息女をどちらに渡すかで全てが変わる」

「どういう意味ですか?」

「やはり娘には何も話していなかったか。良いでしょう、代わって私が教えて差し上げよう。今この街で何が起こっているのか知っていますかな?」


 出入り口は完全にターリクに抑えられている。望みは薄いが可能な限り時間を稼ぎ、クトゥブを初めとした助けが来るのを待つしかない。

「暴動のことですか? それともマジュヌーン騒ぎやハラーフィーシュの事ですか?」


「もっと前から起こっている事です。そう、私やアミール・クトゥブがこの街に来てから争いは始まっている。相手はダマスクス総督だ。総督は前スルタンが死んだ際、いち早く同輩である現スルタンを支持し、このダマスクスの地を任された。だが同輩は同輩、信頼できる人間ではない。そこでアミール・クトゥブを筆頭に、私たちスルタン子飼いのアミールがお目付け役として任じられたというわけです」


 その話はサービトも聞いていた。今思い返せば、クトゥブはこれから危険になる、そう言っていた。この事態からナーディヤを守る為に新しく奴隷を買ったという事か。


「表面上、私たちは総督と上手くやっていた、表面上は。しかしある出来事が起こった。ナイル川の増水が始まっていないという嘘の噂です。流したのは勿論総督でしょう。同時に小麦を中心とした穀物を買い集めて退蔵、さらにはベドウィンに命じて輸送商人を襲わせもした。値を吊り上げた後、強制販売を行い大儲けをしようと目論んだのです」


 かっ、とナーディヤが眼を見開いた。

「お父様はそれを防ごうとしていたのですか!?」


「少し違う。私たち二人で防ごうとしていた、それが正しい。私たちも穀物を買い集めて高騰を誘発し、ズールたちを指導者として早めに暴動を起こさせ、暴動を制御する。そしてその責任を総督に押し付けて解任に追い込み、貯め込んでいた穀物を解放して高騰した値段を正常化させる。前任のムフタスィブが総督と衝突し、自ら辞任したのは覚えていますかな? あれも暴動を誘発させるための作戦だ。市民にはいらぬ負担を掛けるが、総督が居座り続けるより被害は少ない。そう判断しての事だった。当然、この件はスルタンの承諾を得ている」


 つまり、クトゥブは悪人ではなかった。一片の曇りもない清廉潔白な人物ではないかもしれないが、大義の下に行動していた。

 緩みかける頬を、しかしナーディヤは引き締めた。

「私たちをどうするつもりですか?」


「そこだ。先ほど来た総督の使者はこう言っていた。アミール・クトゥブの娘を引き渡せ。そうすればアミール・クトゥブを失脚させられると」

「失脚? 辞任ではなく?」

「総督はイルハン国を呼び込んだ」


 この国の北に隣接する大国──イルハン国。両国がまともにぶつかればただでは済まない。多くの人間が死に、その影響は周辺の国々にも及ぶだろう。

「向こうも向こうでアミール・クトゥブを失脚させる為に前々から仕組んでいたのか、単純に前々からイルハン国に通じていたのか。とにかく総督はアミール・クトゥブの娘を人質にして、イルハン国を呼び込んだ罪を被らせようとしている」


 クバイバート街区をうろつくマムルーク、それと話していたイルハン国の商人、そしてクバイバート街区に密かに蓄えられていた大量の武器。あれらはこの為に総督が用意していたのか。

「クバイバート街区の事なら私たちが対処しました。お父様に罪を被せることはできません」


 ターリクは意外そうに眉を持ち上げた。

「欲深いムーミヤ(ミイラ)かと思えば、知恵も残っていたか。しかしそれがなくとも結果は同じだ。アミール・クトゥブはイルハン国との交渉も任されている。さらに言えば異教徒にも寛容だ。この点はスルタンも容認しつつ本心では良くは思っていない。そのアミール・クトゥブが自らの口で罪を認めれば、極刑以外に道はないだろう」


 ナーディヤが歯噛みした。

「……私たちを総督に渡すつもりですね?」

「結論を急ぐのは良くありませんな。話を聞いた時、私の胸は踊りに踊った。絶世の美女が素肌を露わにして踊っているのかと思うほど浮かれてしまった。アミール・クトゥブを嫌っているのは総督だけではない」

 そこで、ターリクは笑みを浮かべた。

「私もそうだ」


 その唇がめくり上がり、歯を見せつけるような獰猛な笑みに変わる。

「私は八つの頃、自らの意思で奴隷となりマムルークとなった。カイロの学校では日々仲間たちと殴り合い、時には殺し合った。しかしアミール・クトゥブはマムルークではなくウラマーだ。戦いの何たるかを知らないにも拘わらず、スルタンに気に入られアミールの称号を頂いただけの男だ。しかも人格者でもある。そのせいで酒やハシシを売るのに苦労させられた。金を渡せば黙認していた総督とは大違いだ」


 何のことはない。そもそもターリクは総督と初めから通じていた。スルタンの命で手を組んでいただけで、クトゥブの仲間ではなかったということだ。

「恥を知りなさい!」

 ナーディヤが怒鳴っても、ターリクの獣じみた表情は変わらない。


「私の頭は存外小さいようで、最初に知った金の魅力で一杯になってしまった。私はスルタン子飼いのアミール・ターリク。総督を見張りつつ、金を稼いでささやかな贅沢を楽しむ。今までと同じだ」

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