続く闘争

第46話 暴動

 病状が良化しようとも、ナーディヤは自室から出ようとしなかった。

 クトゥブだけでなくヤークートや他の使用人とも会わないで済むように距離を取り、サービトだけが日々の世話をする為の入室を許可されていた。


「これからどうするつもりですか?」

 サービトがそう聞いても格子窓の凹部に座ったナーディヤは振り向きもせず、呻くような小声を洩らした。

「夢を見たの……まだカイロにいた時、お母様が生きていた頃の夢よ」


「良い夢でしたか?」

 言って、サービトは置いてあったナーディヤの服を新しいものに交換する。

「幸せな夢よ。あの頃と比べて……お父様が変わったとはとても思えないの。勿論仕事が変わって忙しくなり、家族を顧みない事も増えた。でも……お父様はあの頃のままよ」

「直接聞くしかありませんよ」


「……それは」

 ナーディヤは押し黙った。サービトは服を抱えたまま立ち尽くし、続く言葉がなさそうだと判断して口を開く。

「マムルークの件も途中です」

「見過ごすつもりはないの……ないのだけれど……」


 法を破り横暴を働くマムルークやアミールを止めたいというナーディヤの気持ちに嘘偽りはないだろう。しかしその根底にあるのは、父クトゥブの助けになりたいという思いだ。

 それが今、揺れている。


 ダマスクスの街が食料品の高騰に喘ぐ中、信じていた筈の父クトゥブは総督や他のマムルーク、商人と同じように小麦を退蔵していた。尊敬していた父クトゥブは清廉潔白などではなく、欲に塗れた堕落した人間でしかなかった。

 ナーディヤの心中は困惑と現実拒否が入り混じり、幸か不幸かそれが粉々になったクトゥブ像を繋ぎ止めているようだった。


「なんだか、騒がしいわね」

 ふと、ナーディヤが固い声でそう言った。窓に近づくとサービトの耳にも遠くから聞こえる祭りとも違う主張の激しい喧噪が届いた。

「何かあったのかもしれません。服を渡すついでに聞いてきましょう」


 サービトは退室して一階に下り、女中にナーディヤの服を渡す際に話を聞いた。しかしその女中も首を捻り、たまたま通りかかったヤークートに助けを求める。

「総督が強制販売をするとの噂が流れているようです」


 聞かれる事が分かっていたように、ヤークートはつらつらと語る。

「強制販売は往々にして退蔵していたものを商人に高値で買わせます。すると商人も損が出ないようもっと高い値段でその品物を売ることになります。つまり、待っているのはただでさえ高騰している食料品の更なる高騰です。もしかするとそれで我慢ができなくなった市民が暴動を起こしたのやもしれません。危険ですから皆さんはこの屋敷を出ないようお願いします。ここは安全ですから心配はいりません」


 市民が暴動を起こした。

 いやそれより、話の内容の割にヤークートの冷静な態度にサービトは疑問を覚えた。ヤークート、もといクトゥブはこの事態を予期していたのか。

 ともあれサービトは急いでナーディヤの自室に戻った。ありのまま伝えると、ナーディヤは表情を険しくして重苦しい息を吐く。


「……あの貯蔵庫に行きましょう。もしかすると、お父様はこの時に備えて小麦を集めていたのかもしれないわ。お父様が小麦を安く市場に流せば一気に値崩れを起こして、損をしまいとした他の人も堰を切ったように小麦を値下げするかも……」

 あまりにも楽観的な考えだが、サービトはあえて口にしなかった。真実は貯蔵庫に行けば分かることだ。ナーディヤはすぐさま準備をして、サービトとウトバを連れて外出した。


 貯蔵庫の周りは静まり返っていた。

 解放された貯蔵庫に群れる市民の姿はどこにもなく、それどころか建物の入り口は固く閉ざされ、その前には曲刀を下げた何人もの見張りが眼を光らせている。


 貯蔵庫を解放する気がないのは明白だった。ナーディヤは顔色を悪くするばかりで一言も発さず、ウトバは狼狽えたように辺りを見回し、それからナーディヤに助け舟を出した。

「正直、私にも皆目見当がつきません。私の知る旦那様がこのような事をなさる筈がありません。何か事情があるか、誤解がある筈です」


 無論、何かしらの事情や誤解があるのかもしれない。確実に言えることは、クトゥブは理由があれば市民の困窮を無視できる人物ということだ。少なくともナーディヤが抱いていた清廉潔白な人物像は、これで完全に砕け散った。

 サービトは努めて平静に言った。

「お嬢様、決断の時です。これからどうしますか?」


 ナーディヤの眉尻が少しずつ上がっていく。盲目のサービトにはそれが見えないが、そうなっているであろう確信があった。

「……確かめましょう」

 声に力が戻っている。これなら大丈夫そうだ、サービトは無意識に安堵していた。


「いたぞ! こっちだ、急げ!」

 突然、怒声が響いた。距離は少し遠い。ややあって連なった足音が近づいてくる。

「誰だあれは? 暴動の参加者か? いや、カターダの手下か?」

 ウトバが自問自答するように呟く。ナーディヤは遠くから走ってくる厳めしい集団を見据えて唇を結んだ。

「丁度良いわ。あれがカターダさんたちなら──」


 ──奇声や嬌声が聞こえた。厳めしい集団は威嚇するように散々に騒ぎ立て、それぞれがボロ布や損傷の激しい鎧の一部を身に着け刀剣を振り回しながら走ってくる。

「……何かおかしいな。お嬢様、一先ず私の後ろにお下がりください」

 言いながらウトバはナーディヤの前に出た。

「サービト、お嬢様を頼んだ」


 厳めしい集団はあまりにも煩かった。過去何度も接近してきたカターダたちが静かに事を運ぼうとしていたのとは正反対だ。

「逃げろ!」

 ウトバが叫ぶ。サービトはナーディヤの腕を引いた。抵抗は一瞬、ナーディヤは自分の足で走り出し、サービトはその足音に集中して後を追う。


 あれは誰だ。議論している余裕はない。ナーディヤの息は早々に乱れ、足取りが不安定になっていく。ウトバだけでは完全な足止めは不可能だ。時期に追いつかれるだろう。しかしどこに逃げるべきだ。サービトは後方に意識を向けつつ頭を働かせる。

 アル=アッタール邸は駄目だ。素性が割れている以上、既に周辺を抑えられていると考えるべきだ。目指すとすれば異教徒のいるクバイバート街区だが遠すぎる。


「カターダのフブズ屋に行きましょう。ここからそう遠くありません」

 返事はないがナーディヤの行き先が変わった。一抹の不安はある。カターダが真にクトゥブの協力者なのか結論は出ていない。誰かに操られている可能性は残っているが、他に行先がなかった。


「見つけたぞ!」

 大声が後方から響いた。まだ距離はありそうだ。これなら追いつかれる前にフブズ屋に辿り着く。サービトは安堵しそうになり、前方の刺々しい喧噪に気付くのが遅れた。追手と雰囲気が違うが不穏な気配だ。しかし今さら行き先は変えられない。


「慌てるな! まだフブズは残ってる!」

 男の一際大きな声が聞こえる。その通りに出た途端、ナーディヤの足が止まった。


 通りが人で埋まっていた。

 カターダのフブズ屋だけでなく、周辺のフブズ屋全てに大勢の人間が押し寄せている。店員と客、客同士、滅多矢鱈に怒号が飛び交い、殴り合いもあちこちで起こっていた。フブズ屋の入り口も完全に閉ざされている。それでも開店自体はしているのか、二階から顔を出した店員がフブズを捨てるように投げ渡していた。


 暴動の余波だろう。これではカターダの店には入れない。一旦足を止めたナーディヤは躰を折り、胸に手を当てて激しい呼吸を繰り返している。

 追手の奇声が喧噪を貫いた。迷っている暇はない。サービトはナーディヤを抱き抱える。

「行き先を指示してください」


 まずをこの通りを抜けるのが先だ。サービトは身を屈めて群衆に紛れつつ、可能な限り人だかりの際を通っていく。後方で喧噪が騒動に変わった。悲鳴が響き、それがまた別の悲鳴を引き起こす。

「追え! あそこだ!」

 重要な言葉だけは良く聞こえた。風に乗って血の臭いが流れてくる。叫喚が広がりサービトは壁に押し付けられながらも一歩一歩進んでいく。


 ここを抜けた後はどうする。どこに逃げる。そもそも逃げられるのか。問題は山積しているが前に行くしかない。

「退け! 全員殺しちまうぞ!」

 すぐ後ろで声が聞こえた。近い。手を伸ばせば届くかもしれない距離だ。「もう少しよ!」ナーディヤが掠れた声で言った。


 抜ける。圧迫感から解放される。衝撃が、サービトの腰に突っ込んできた。

「逃がさねえよ!」

 男の声。捕まった。抱えていたナーディヤごとサービトは倒される。群衆から漏れ出すようにいくつもの足音が現れた。


 地面の砂が震えていた。

 遅れてサービトの聴覚が音を認識する。角笛の低く太い音が、一帯を震わせた。前方からだ。サービトを押し倒していた男がおずおずと離れていく。喧噪も角笛に掻き消されるように静まっていき、男の大音声が木霊した。


「即刻解散せよ! これ以上の乱暴狼藉をする者は問答無用で切り捨てる! 繰り返す! 即刻解散せよ!」

 追手が後退り、群衆に消えていく。サービトの前方から誰かが近づいてきた。

「またお会いになりましたな、ご息女殿。お怪我はありませんか?」


 アミール・ターリクの声だ。その背後には大勢の兵士が控えている。ナーディヤはターリクの手を借りて立ち上がり、サービトも後ずさっていく追手の足音を気にしつつ躰を起こした。

「何やら追われていたようですな。私の家でしばし休むと良い。アミール・クトゥブには私から連絡して迎えを寄越させましょう」


 クトゥブの得体は知れないが、それでも娘のナーディヤに危害を加えるような事はしまい。クトゥブと懇意だというターリクに保護されるなら安全だろう。

 サービトは深々と息を吐いた。

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