第16話 これでもう、きっとおしまい

 青空が眩しい。水色の絵の具で塗りたくったような文句のない色に、綿菓子みたいな雲がくっついている。屋上からは入学式の時に通った桜並木がきれいに見えて、その間を行き交う生徒たちがゴマ粒みたいに思えた。柔らかい風にポニーテールがなびく。口に入りかけた髪を払おうと首を軽く動かすと、陽の光が目に入って痛かった。


「いい天気だな……」


 呟いて、伸びをする。それから、コンクリートの上にすとんと座り込んだ。光希の方はといえば、用が済んだからすぐにどこかへ行ってしまうのかと思っていたけれど、楓の隣で屋上からの景色に目を細めている。


「……天宮、その、色々と大丈夫なのか?」


「なにが?」


 本当は分かっていた。光希が尋ねているのは、無能でありながら霊能力者たちと一緒くたに授業を課されて、見下されているこの現状についてだ。それでも分からないふりをしたのは、もうこの程度で傷つく心は持っていないから。そんなものは、とっくに黄昏の野に棄ててきた。


「どうして、戦わないんだよ。おまえはおれより……、武術面では強いだろ。あんなヤツらの拳が届くよりもずっと、おまえの方がはやい」


 先と同じ問いを光希は楓を見ずに尋ねて、楓もまた光希を見ずに返事をする。


「……そうだな、ボクも無能でなければそうしてたよ。あの日、おまえにはきちんと無能らしく負けておけばよかったんだ。調子に乗りすぎた。いつもなら、こんなヘマはしなかったはずなのに」


 なぜだろう。あの日、刀の切っ先の向こうに真っ直ぐな瞳を見てしまったから、抑えが効かなかったのだろうか。無能であることを、この人なら気に留めないと予感したからいけなかったのだろうか。自分を見てくれるかもしれないとほんの少しでも期待したから、暴かれることを恐れてしまう。ああ、なんて愚か。


「ボクは無能だ。無能は霊能力者よりも弱くなきゃいけない。それにボクは──」


 ──バケモノだから。


 最後の言葉は声には出さずに飲み干して、抱えた膝に顔を埋める。光希が隣でしゃがみこむ気配がした。


「そんなわけないだろ。おまえはおれに勝ったんだ。そのことをもっと誇るべきだ。……これでも、学年トップだし。そのおれにあんな簡単に勝ったんだから」


「ははっ、だからなんだよ、出しゃばれって? 霊力のあるおまえには分からないよ!」


 乱暴に立ち上がって光希を睨みつける。そして、一度叫んだらもう止まれない。


「いいよな、おまえは。霊力があって、強くて。ボクには無いものを全部持ってて、お高くとまっててさ! どうせおまえだって思ってるんだろ!? 無能なんて、目障りだって! 無能なんて消えればいいって、思ってんだろ!?」


 ちがう。そんなことを言いたかったんじゃない。でも、口が止まらない。光希だってたくさん傷つけばいいと毒を吐いて、毒を吐いて──。


「さんざん無視して、今になって心配してくるとか意味が分からないんだよ! 安い同情なんかいらない! 今更同情するくらいなら、無視し続けろよ! ボクは独りでも生きていける。今までそうやって生きてきた。だから、……ボクのことは放っておいてくれ!」


 いつの間にかつむってしまっていた目をゆっくりと開く。目の前で光希が目を見開いて硬直していた。楓は唇を引き結んで地面に視線を落とす。言い過ぎたのだと分かっていたけれど、謝るための言葉を忘れてしまったみたいに何も出てこない。これで光希との関係はたぶん終わったなと頭の片隅にいる冷静な楓が告げる。


 冷たい風が吹き抜けていくようなこの気持ちを果たして何と言っただろうか。楓はもう、笑顔の作り方くらいしか覚えていないのに。


 無表情で光希の横を通り過ぎる。背中で光希が口を開く気配があった。


「……天宮、怪我は、大丈夫なのか?」


 馬鹿みたいだ。あんなに怒鳴ったのに、光希はまだこんなことを言う。楓は思わず口のを歪めた。指先を制服の胸元のリボンに掛けて引っ張る。はらりと青いリボンがコンクリートの地面に落ちた。ジャンパースカートのファスナーを開けて脱いでしまえば、白いシャツだけが残る。長い黒髪が白いシャツをするりと滑り落ちた。


「っ!? おまえ、何を!?」


 呆気にとられて動けずにいる光希に、楓は手を伸ばせば触れられる距離まで近づいた。それから薄く笑ってシャツをはだけて、見せつける。


 滑らかな、白い肌を。


 あれだけ殴られれば、しばらくは消えない痣が残るのは必定だ。踏みつけられた腕には靴跡が残るはずだし、擦り傷だってできているはずだ。けれど、そのことごとくが楓の身体からは跡形もなく消えている。あの光景すべてが幻か何かであったかのように。


「相川、ボクは……バケモノなんだ。だから、ボクには関わらない方がいい。おまえだって、せっかく優秀な霊能力者なんだから、バケモノになんてかまけるな。おまえは霊能力者とつるむ方がきっといい」


 手早く制服を着直して、最後に胸リボンを拾い上げて結んだ。最後に笑って、立ち尽くす光希の脇をすり抜けるようにして歩き去る。


 もうきっと、これでおしまいだ。





 屋上にひとり取り残された光希はずるりと座り込んだ。顔に手を当てて、できる限りの深い呼吸を。


「くそっ」


 まず、最初に口を突いて出たのは悪態だった。不甲斐ない自分への叱咤だ。護衛になりたくないと逃げ回って、任務を認めたくないと無視をして……。子どもみたいな駄々をこねていたから、こんなのは当然だ。いないものとして扱っていたのに、今更声を掛けて、身勝手ないたわりの言葉を吐けば、傷つけてしまうのは明白だ。


 それでも、地面に引き倒される楓の姿を校舎の窓から見つけてしまっては止まれなかった。こんな感情が自分の中にあったことに驚くくらい、全身が沸騰したような激情に駆り立てられて飛び出していた。


「何なんだよ……」


 天宮楓は己が傷つくことを当たり前と認識していた。あれほどにいたぶられてなお、ケロッとした顔で笑ってみせる。光希が何も言わなければ、楓はすべてをへらへらと笑って済ませただろう。無能だから当たり前なのだと、そう言って。


 けれど。


 放っておいてくれ、バケモノだから関わるな、と楓は光希に言い捨てた。


 ならばなぜ。


 まだ光希の目にはその時の楓の表情が焼き付いている。そう口にした楓は、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。


「こんなの、放っておく方が無理だろ」


 それなのに、光希はその機会を自らの手で握り潰してしまったのだ。今さっき。


 これでもう、おしまいなのかもしれなかった。





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