第26話 シマイノシシのロースト
シマイノシシは、灰色に黒い縞模様が入った毛並みを持つ、大型のイノシシだ。郊外の農家で畑が荒らされる被害が出るので、秋にはその駆除依頼が多く出る。山にいれば木の実を中心に食べているらしいが、畑を荒らすような奴らは農作物をたっぷり食べているので太っている個体が多い。
「つまり、脂がたっぷりのってるってわけだ」
こんがりとローストされたイノシシのロース肉を切り分けながらセロが言う。暴力的ないい匂い、とフェデリカが表現したのが理解できる。焦げた醤油の匂いとイノシシ特有の甘い脂の匂い、コクのある赤ワインとニンニクの香りが同時に襲ってくるのだから。
脂がつややかに光るイノシシのローストは、サラダやスープ、
「この肉、売れば高いんじゃないの?」
そう聞いてみたら、セロはあっさり頷いた。
「そりゃそうだ。でも、俺が獲って俺が捌いた肉なんだから、俺が一番美味いところを持っていってもいいだろう」
「シマイノシシってあまり食べたことないけれど、すごく甘いお肉なのね。それに、すごく柔らかい。美味しいわ」
フェデリカがこんな風に手ばなしで褒めるのは珍しい。もちろん、美味しいのは本当だが、フェデリカの場合は空腹だったのも大きかったのだろう。
「それで、他の話って?」
フェデリカがパンをひとつ食べ終わったところを見計らって、そう聞いてみる。そうね、と頷きながらフェデリカは2つ目のパンに手を伸ばした。
「まず、魔法陣を売っていたイーゴレのことよ。オスロンで魔法陣をいくつか売って……それなりに高く売っていたみたいだけれど、あなたのは本当に最後の1枚で、汽車の時間もあったからかなり安くしたようね。汽車に乗って首都を通り過ぎて、次は南へ向う予定だったみたい。ただ、蒸気機関車は故障も多いわ。首都で機関車の整備に時間がかかって引き留められたところで、手配書を見た人に通報されて捕まったわよ。今はまだ警備隊のところにいるけれど、魔導院からも人を出すことになるでしょうね」
フェデリカは2つ目のパンにもイノシシの肉をたっぷりとはさみ、指先についたソースをぺろりと舌で舐めとった。気を許したその仕草が、まるで付き合っていた頃のようで懐かしくなる。
「あとは、リナちゃんのことよ。こちらに来る前のことがはっきり思い出せないっていうのは、強引な召喚のせいで、魂の輪郭がぼやけているんだと思うの」
皿の上のイノシシ肉を少しずつ食べていたリナが、顔を上げる。
「それって、よくないこと?」
「よくないというわけではないけれど、自己をしっかりと保てないってことは、体に戻る時に少し戻りにくいかもしれない。だから、魂の輪郭を定める魔法陣を持ってきたわ。あとで起動させるわね」
「魂の輪郭を定めるって……それ、君の研究成果だろう? こんなところに気軽に持ち出していいの?」
人間の魂を呼び出した後、むき出しのままでこの世界に固定するために必要な魔法だったはずだ。
「いいわけないじゃない。起動はわたしがするけれど、のぞき見て複製とかしないでね」
「初見の魔法陣を、ひと目見ただけで複製できるわけないじゃないか。――ありがとう、フェデリカ。そんな貴重なものを」
私が礼を言うと、フェデリカは小さく、ふん、と言った。
「リナちゃんのために持ってきたのよ。あなたのためじゃないわ」
「でも結局、私たちの魂を元に戻すためだろう?」
フェデリカはじっと私を見つめた。どこを見ているのか、視線は合わなかった。
まるで私の魂を見つめているかのようだった。
「あなたは……どうしてわたしをすぐに呼ばなかったの?」
「いや、君がこういうことに詳しいのはわかっていたけれど……そもそも私はこんなアクシデントなんて見たことも聞いたこともないから、正直、何をどうすればいいのか、右往左往してるうちに時が過ぎたというのが近いよ。女の子の姿になってしまってるっていうのも、なんだかこう……気恥ずかしかったし」
正直にそう伝える。フェデリカは、そう、とだけ言ってテーブルの上のスープに手を伸ばした。さっきまでは肉に夢中で、スープには手をつけていなかったのだ。
そういえば、好きなものから先に食べる人だったな、と思い出す。
「君の研究は……その、魂の輪郭を定める魔法? それで、目標を達せられたのかな……」
あの頃、フェデリカは寝食を忘れるようにして研究にのめり込んでいた。召喚術の、それも魂を扱う分野となると、魔道具を主に扱う私とは専門が違う。初歩的な質問をしてフェデリカをわずらわせるのは嫌だったし、優秀なフェデリカから、そんなこともわからないの?という視線を向けられたらと思うともっと嫌だった。実際に彼女は私にそんな視線を向けたことなどなかったが、私は多分、彼女に嫌われたくなかったのだ。
「ほんっ……と!」
はぁ、とフェデリカがため息をついた。
え? な、なんだろう、その反応は。
「ほんっとにあなたって、ただ可愛いだけの男ね!」
はぁ!?
「え、ちょ、なにそれ!?」
そんな罵倒、聞いたことないよ!?
「今がリナちゃんの姿だから、よけいにそう! もう、なんなのよ、本当に!」
怒っている……というか、勢いよくあきれているというようなフェデリカの様子に、リナは顔を上げて少しきょろきょろした後、肉を食べることにしたらしく視線を皿に戻した。セロは、ちょっとわかる、とぼそりと呟いて視線をそらした。アロイは表情を変えずに……いや、口角が少し上がっている。面白がっているのかもしれない。
フェデリカはもう一度小さくため息をついて、口を開く。
「あなた……付き合っていた頃に、わたしの研究についてあまり聞かなかったわね。それでいてわたしが禁忌に手を出していると知ったら、そういうのはどうかと思う、なんて」
「それは、だってしょうがないじゃないか。君が教授にも逆らって、人間の魂を軽々しく呼ぶような実験を繰り返すから」
「じゃあ、どうしてわたしがそんなことをしていたのか知っている?」
「それは……」
教えてもらえなかった。――けれど、彼女に理由を聞いた時、私はどこまで本気だっただろうか。
「実験の過程で、禁忌と呼ばれるものに手を出したことはあるわ。だってわたしの目標は、アネイラを超えてさらにその先、異世界に手を伸ばすことだもの。わたしは自分の術式と魔力で、異世界に手が届くかどうかを実験していたのよ。あなたと付き合っていた頃は、まだ力が及ばなくてその手前……結果的に、アネイラの上層にいる魂を呼ぶことになったわ。そして、まだ、魂の輪郭を定める魔法を確立させていなかったから、一時的に使い魔の体に入ってもらったこともあるわ。だから確かにそこだけ見れば禁忌ね」
小さく肩をすくめるフェデリカに、質問したのはアロイだ。
「僕とセロはこちらの世界の死生観に、少しにぶいところがあるから実感はできないけど、なぜそんなことをしようとしたのか、聞いてもいいかな」
アロイの問いに、フェデリカは少し考え込んだ。
「……これをあなたたちの前で言うのはどうかと思うのよ」
「ということは、稀人を否定するような方向性の話ってことだね。構わないよ。多少の否定をされたくらいで世をはかなむほど僕たちは打たれ弱くない」
そう言ったアロイの隣でセロも頷いている。
「そう……そうね。じゃあ言うわ。わたしは、人工的な稀人の召喚をやめさせたいのよ。わたしが研究してるのは、稀人の魂をむき出しのまま、つまり入れ物なしで呼んで、その魂と会話することよ。そこから知識が得られるなら、稀人の入れ物のために、死に瀕した人の治療が中断されることはなくなるわ」
「フェデリカ、それは……」
言いかけた私を遮って、フェデリカが続ける。
「違うとでも言うの? オスロンではまだそうかもしれないわね。でも、あなただって人工的な稀人召喚の成功例が増えてきたっていう話は聞いたことがあるでしょう? 首都では実験が盛んよ。――ベルナール、あなたの友人は……セロさんとアロイさんは2人とも優秀だと思うわ。でも、そうじゃない稀人もいるのよ。そして、どんな稀人が召喚されるか、呼んでみなければわからないの。そんな賭けのために、ひょっとしたら治療が間に合うかもしれない人の体が、魔法陣の上に置かれるのよ。相手の魂の了承を得て、一時的に使い魔の体に入ってもらうことのほうがよほど倫理的だわ」
私はアロイを見た。
それは少し前にアロイと話したことでもある。
「フェデリカ、僕は君の研究に賛成するよ」
アロイが微笑む。フェデリカが意外そうに眉を上げる。その顔を見ながら、アロイが続けた。
「稀人が全員優秀だとは限らない、それは本当だ。そして、君はさっき僕らを褒めてくれたけど、僕もセロも、こちらの世界の発展に役立つような知識なんか持ってないんだ。前職は……向こうで死ぬ前までしていた仕事は、こちらで必要とされる専門分野じゃない。オフィス用のPCをリースする時の見積もりなら力になれるけれどね」
後半を冗談めかしてアロイが笑う。それに続けてセロも肩をすくめた。
「俺は、ローカルな観光情報とか、裏通りのカフェめぐりの情報なら出せるぜ? ただし、日本の、しかも5年前のだが」
アロイとセロが言うことの詳細はわからない。ただ、前世の知識を役立てて今ここにいるわけではない、ということだけは伝わった。
フェデリカ、とアロイが呼びかける。
「僕は、回復術師だ。助かる人間は1人でも多いほうがいい。オスロンでも似たような事例が少し前にあったよ。異世界からの召喚を当面の間禁止するっていう、王立魔導院からの通達があったのはそのせいだと思っていたけれど」
「……先日、冒険者ギルドで回復術師を求めてる人が駆け込んできたわね。セロさんの怪我を癒やした後で疲れてるはずなのに、何の迷いもなくあなたは立ち上がった。治療の技術を見た時もすごいと思ったけれど、求めに応じてすぐに手を挙げたのを見て、本当に優秀なんだと感じたのよ。だから、わたしもこんな話をしているのかもしれないわ」
「あの日は、魔力にはまだ余裕があったからね。回復術師なら当然のことで、褒められるようなことじゃないよ」
予想外なことを言われたとでもいうように、アロイの頬がふっと緩んだ。謙遜ではなく、本当にそう思っているのだということが伝わったのだろう、フェデリカの頬も少し緩んだ。
「魔導院は稀人を積極的に召喚したい積極派と、無理に召喚すべきではない自然派とに分かれてるわ。だからわたしの研究は注目されているのよ。――わたしが実験している最中にもアネイラの中で境目がゆるくなっているのを実感したわ。ここ1年ほどのことね。わたしはもちろん報告したし、稀人召喚を研究していた人たちもその報告に同意したの。このままでは人間の体に獣の魂を召喚してしまう事故が起こるかもしれないってね。人の命を犠牲にして、ネズミやウサギの魂が召喚されても困るでしょう? だから異世界からの召喚が禁止されたのよ。積極派と自然派が同じ結論に達するのは珍しいわ。……そもそも抜け道探しよね。人間の魂を使い魔の体に呼ぶことは禁忌、でも稀人は呼びたい、だから人間の体に人間の魂を呼べばいいなんて。そのほうがよほど忌まわしいわよ」
フェデリカは笑顔のまま、拳を握りしめた。
「稀人を人工的に召喚する術式に、まだ確実性なんてないわ。あの術式では界を越えられない。だから、成功率なんていう言葉が出てくるのよ。あの人たちは、偶然、向こうから界を越えてきた魂をようやく捉えてるだけに過ぎない。なのに、成功率が上がった、ですって! 境界がゆるんでいるからよ。そして、ゆるみが大きくなったせいで事故が起こりそうになって、そうしたら途端に怖くなって一旦禁止にしようっていう結論になった。――と言うより、実際に事故は起こったのかもしれないわ。隠蔽されているだけでね。だから積極派も召喚禁止のほうに傾き始めたのかも。ベルナールとリナちゃんの件も、ゆるみから来る事故のひとつよね」
握りこぶしを解いて、フェデリカはリナの背中を優しく撫でた。
「じゃあ、イーゴレの魔法陣は……体ごと呼べるなら、それはひょっとして画期的な発明だった?」
私が聞くと、フェデリカは、ああ、と天井を見る。
「あなた、自分がどうなったか忘れたの? あなたの魔力は多いほうよ。なのに、あなたの魔力のほとんど全部と補助の魔結晶を使っても、リナちゃんの魂と体を同じ場所に正しい形で召喚できなかったじゃない。それに、異世界から肉体を連れてきても、その体の中に魔力袋がないわ」
そうか、と頷いたのはアロイだ。
「なるほど、僕らの世界には魔法がないからね。魔力袋がないまま、こちらの世界で暮らすのは難しい。実際、事故で魔力袋を損なってしまうと、心臓が無事であってもその患者は助からない。……四千年前、この星をまるごと取りまいた魔力は、本来は生き物を蝕む力だったのかもしれないね」
確かに、そういう説も聞いたことがある。
「人類も他の動植物たちも、長い時間をかけて魔力を体に取り込んで、共生してきたんだっていう説だね。じゃあ、莫大な魔力を使って、もしも異世界の人間を呼べたとしても、その人たちは長く生きられないってこと?」
私の言葉に反応したのはリナだ。ぴくん、と耳を立て、少しおびえたように私とフェデリカの顔を見比べる。
「あたしは元に戻っても大丈夫……だよね? ベルさんの魔力で魔力袋が作られたって言ってたもんね……?」
「ええ、大丈夫よ、リナちゃん。あなたの体はこの世界にちゃんと適応しているわ」
そう、体が入れ替わった直後、周囲に漂っていた自分の残存魔力を再吸収したことで、私の……リナの体には魔力袋が作られたはずだ。少なくとも、今、私は魔法を使うことに何の不自由も感じていない。
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