第15話 徹夜明け(セロ視点)


 気がついたら空を見上げていた。森の中の、少しひらけたところで大の字になって草花に半分埋もれていた。空はどんよりと重い雲に覆われていて、さっきから遠慮のない雨が降り注ぎ、バシャバシャと体を濡らしている。まごうことなき、土砂降りだ。

 あまりに雲が厚すぎて、朝なのか昼なのかすら判別がつかない。少なくとも夜ではないなと思っていたら、カッと空が一瞬明るく光り、少し遅れてガラガラと大きな雷鳴が響く。


 なぜ、こんな天気にこんな森の中で大の字になっているのか。それを疑問に思うより先にせめて木陰に移動したい。したいが、全身がこわばっていて、手足にうまく力が入らない。なんだか心臓もやけにバクバクしている。

(回復の魔結晶を使わなきゃ)

 なぜか唐突にそう思った。ズボンのベルトに小さな袋がさげられていて、その中に回復の魔結晶が入っているということも、なぜか知っていた。

 わけがわからない。わからないけれど、嵐の森の中で寝転がったままでいるより、この妙な感覚に従ったほうがよさそうだ。


 私は腰にさげた袋の中から、震える手で淡い水色の石を取り出して、それを握りしめて魔力を込めた。

(魔力? 魔力だって?)

 水色の石はラムネ菓子のようにほろほろと崩れてなくなってしまったが、その代わり手足には血が巡るようになったし、心臓の鼓動も落ち着いた。体は雨で冷えているけれど、どこかに移動するならできそうな気がしてくる。

(猟師小屋はこの森を抜けた先だ)

 わけのわからない知識だが、今はこれが自分を生かすと信じることにした。


 ゆっくりと起き上がる。周囲には弓と矢筒、それに大きめのナップサックのような革袋が転がっていた。

(まるでゲームの導入部だ。これが初期アイテム……というわけではないだろうけど、少なくとも持ち主はいそうにない)

 周囲に落ちているものを拾っていると、近くで黒焦げになった木を1本見つけた。一旦燃えたものが雨に打たれて消えたのか、ぶすぶすと煙が立ち昇っている。

(……落雷?)


 森を抜けて猟師小屋にたどり着く。小屋と言ってもそれなりにしっかりとした造りだ。小ぶりのログハウスといった風情か。

 中は薄暗いが、扉には鍵がかかっていなかった。そのことを知っていたかのように私は迷わず扉を開け、ようやく濡れない場所についたことにほっと息をつく。

「電気電気……」

 口に出したところで、魔力がどうのというような場所で、電気などないかもしれないと気づく。半ば習慣的に、戸口の横の壁を手探りすると、何かに触れた。ひゅっと指先から何かが吸われて、唐突に部屋が明るくなった。あまり大きくはない部屋が柔らかい白い光で満たされる。見上げると天井の真ん中にソフトボール大の球体がぶら下げられていて、それが光っているようだ。


 見渡した部屋の中は見覚えがあった。いや、そんなわけはない。見たことなんかない。なのに覚えている。これは3日前に“自分”が出て行った時のままだ。

 部屋の隅に台所があり、その横の壁に鏡がかかっていた。歩いていって、のぞき込む。

 鏡の中から自分を見つめ返したのは、びしょ濡れでぼさぼさの金髪の男だった。まばらに無精髭まで生えているが、よくよく見るとまだ若い。

 白い光の中で、自分の格好を見下ろした。皮のブーツ、ごわついた生地のズボン、上着は同じくごわついた生地のハーフコートのようなものと、その中にはゆったりとした白いシャツを着ている。コートはどうやら防水性があったらしく、中のシャツは濡れていない。ただ、どの服も見たことのないデザインだった。

 自分の顔や体をべたべたと触ってみる。間違いない。若い男の体だ。


 ――さっきまで女だったはずなのに。


 私の名前はリョウコ。出版社で雑誌編集をしている32歳だ。校了日で忙しくしていて、結局徹夜になってしまった。全ての原稿を入稿し、事務処理まで終えたのは、夜明けどころじゃなく、朝の9時だった。途中で食事や休憩をはさんではいるものの、24時間仕事をしたことになる。

(会社を出て、どうしたんだっけ……)

 出勤のピークもとっくに過ぎた駅前通りを、太陽がまぶしいと思いながらふらふらと歩いていた。駅に向かい、帰る前にどこかのカフェで朝食と熱いコーヒーを摂取したいと思ったのは覚えている。

(そう、コーヒーが飲みたい)

 混乱している。何か、落ち着くきっかけが欲しい。


 部屋を見回してみる。木製の椅子とサイドテーブル。台所には小さな食器棚があり、タイル貼りのシンクには湧き水でも引いているのか、ポンプの出水口がある。そしてシンクの隣にあるのは……なんだろう、IHコンロ? まさか。

 だが、近づいてみてもIHコンロに見える。黒い石板に白い筋が……いや、ただの筋ではない。これは文字だ。びっしりと細かい文字が彫り込まれている。手前にはこれがスイッチだと言わんばかりに小さな赤い石が嵌まっている。

(……まさかね)

 指先で赤い石に触れると、先ほど部屋の明かりをつけた時のように、ひゅっと何かを吸われる気配がした。そして黒い石板の中央に炎が突然浮かび上がった。

「うわーお」


 なるほどなるほど、と周囲をもっと見回してみる。棚の中にあるいくつかの箱を開けてみることにした。小麦粉、塩、砂糖、紅茶っぽい葉っぱ……そして黒い豆。

「やった!」

 近くにはコーヒー豆をすりつぶすのに使われているらしい小さなすり鉢とすりこぎも見つけた。ネルっぽい布の袋も見つけたので、本来はこれでドリップするのだろうと思うが、残念ながらカビている。

 適当に見つけた小鍋に湯を沸かし、すり鉢ですり潰したコーヒー豆をそこに直接入れた。少々乱暴だが、煮出しコーヒーだ。


 豆の質も味も、気に入りのカフェには及ばない。けれど、濃く煮出したコーヒーを口にすることで頭の中が少しすっきりしてきた。

 ……そうだ。車が突っ込んできたんだ。

 すぐ近くの交差点で車同士の衝突事故があり、衝撃で跳ね上がった車が私のほうに飛んできた。眠気でぼんやりとしていて、私の反応も遅れた。気づいた時には車のヘッドライトとバンパーが眼前にあった。

 その後の記憶はといえば、森の中で大の字になって寝ていたことだ。

 あの車につぶされて私が死んだとして……じゃあここは死後の世界? それとも命は助かって意識不明のまま超絶リアルな夢を見てる?


(いや、魂が引っ張られたんだ)

 私の中の誰かが言う。

「……おっけー、わかった」

 声に出して言う。コーヒーを飲んで体も温まったし、一度眠ることにしよう。頭の中に違う誰かがいるなんて、きっと私はまだ混乱している。眠ってリセットするんだ。


 外に続く扉とは違う扉を開けてみると、小さいながらも居心地のよさそうな寝室があり、ベッドの毛布はカビていなかった。くん、と毛布の匂いを嗅いでみたが、自分の匂いではないはずなのに妙に馴染んだ。

(コーヒーは眠る前にちょうどいい)

 カフェインで眠れなくなると母親はよく言っているが、カフェインの覚醒作用は摂取してから数時間後だし、そもそも私は徹夜明けだ。何よりも睡眠を欲している。

 私はすぐに眠りに落ちた。


 夢を見ていたと思う。

 見知らぬ若い男の人生を夢に見ていた。

 怪我をして狩人を引退することになった父親が、独り立ちするならここを使えと言って男に小屋を譲ってくれた。男は小さい頃から父親の狩りについてきて、この小屋にも出入りしていたので馴染みがあったし、男は人嫌いだったから、山小屋で暮らすのは願ってもないことだった。時折、狩人仲間と交流はあったが、基本的には1人で狩りをして、獲物を街に卸して暮らしてきた。

 つい3日前も大物を求めて少し遠出をした。願った大物は獲れなかったが、鹿や雉を仕留めることはできた。捌いてから魔法の収納袋に入れて帰路についたが、途中で嵐に見舞われた。稲光と雷鳴の中を移動するのは危険だ。男もそれは知っていた。だが、あと少しで猟師小屋につく。あとほんの少しだ。

 カッ!と稲光が一際まばゆくあたりを照らすのと同時に、割れ鐘の中に閉じ込められて外から叩かれたかと思うような、バリバリという轟音が響いた。それらを知覚した瞬間、男の体は誰かに思いきり殴られたかのような衝撃とともに、草むらに投げ出された。

 それが、21年で終わったセロという男の生涯だった。


「……なんて言ったかな。側撃なんとか」

 雷が直撃して燃えた木を見た。そこから地面を伝って余波がこちらに来たのだろう。服も焦げていなかったし、もちろん体に火傷もなかった。だからひょっとしたら、周りに人がいる状況だったなら、蘇生は可能だったかもしれない。

 ――けれど、魂は離れてしまった。

 3日前までその男が使っていた毛布にくるまって、私は目を開けた。眠っているうちにいろいろと、自分の体が知っているはずのことを思い出させられたようで、眠る前より混乱は少なくなっている。

 寝室の窓からは朝日が差し込んでいた。もう雨はやんだようだ。窓を開けてみると、早朝の冷たい風が吹き込んだ。森の風は爽やかではあるものの、いかんせん寒すぎる。私自身の記憶では、徹夜仕事をしたのは夏の初めだったが、窓の外にある木々の中には色づき始めているものもある。ここはもう秋なのかもしれない。


 空腹を感じて台所を捜索すると、それなりに備蓄はあった。魔法の袋とやらに仕留めた獲物の肉も入っているようだから、しばらくは何とかなりそうだ。日本のものによく似た米もあったので、とりあえず米を研ぎ、浸水させている間に風呂の準備をした。風呂の存在を知った時は、桶で水を汲んで薪で湯を沸かすことを覚悟していたのだが、台所と同じポンプが設置されていたし、台所のIHコンロと似た仕組みで適温の風呂にすることができた。風呂場自体も湯船も、香りのよい木材で作られていて、まるで温泉旅館の檜風呂のようだ。


 風呂に浸かりながら、自分の状況をまとめようと努力してみる。ここはどこなのか、なぜ自分が男になっているのか……それはつまり、やはり自分は死んだのか。

(悪いことしたなぁ……)

 父は5年前に亡くなっている。妹は結婚して遠い街に住んでいるので、家は私と母の2人暮らしだった。昨日まで笑って食卓を囲んでいた相手が、ある日突然帰ってこなくなるというのは、どれほどの喪失感だろう。

(母さん、ごめんね。ミサキ、あとは頼んだ)

 心の中で、母と妹にそう呟く。声には出さなかった。今の体で声を出すと男の声になってしまうので、なんだかそれは自分ではないような気がしたからだ。

 ――確か去年、付き合いで入った保険は、死亡保障がそれなりに付いているはずだ。それに交通事故でこちらは歩行者だったのだから、賠償金も入るだろう。会社帰りの通勤経路だし、労災もおりるのではないだろうか。少なくとも母親が生活に困ることはなさそうだと考えると、少しだけ気が楽になった。


「さて、じゃあ次だ!」

 男の声でそう言い、あらためて自分の全身を見る。骨張った手足と、ごつくはないがそれなりに筋肉のついた体。狩人として暮らしていたのなら納得、というところか。

 私はもともと、性格も言葉遣いも男以上に男らしいなどと言われていたのだから、本当に体まで男になったからと言って……いや、なんともないとは言えないが、でもまぁ、しょうがない。人間、配られたカードで勝負するしかないという言葉を聞いたことがある。その通りだと思う。ただ、私の場合はそのカードが、思いもよらず再配布されただけだ。


 この体は、気を抜くと肩が内側に入ってしまう。生来の猫背なのか、それともセロという男に背中を丸める悪癖があったのか。

 私は湯船から立ち上がり、胸を開いて背筋を伸ばした。顎を上げて一度、大きく息を吸う。へその下に重心を持ってくるようにして、ゆっくりと息を吐き出した。

「向かい風の時こそ、顎を上げろってね」

 石けんを泡立てて顔や体を洗い、目の前にある鏡を見ながら剃刀で無精ひげを丁寧に剃った。

「髪もぼさぼさだ」

 裸のままで一度リビングに行き、ハサミを持ってまた風呂に戻る。中途半端に伸びた髪は、せっかくきれいな金髪なのに、くせ毛をそのまま放置しているせいで野暮ったいことこの上ない。くせ毛を生かす形で整えて、姿勢を正して鏡の中を見つめる。

「なんだ、ちゃんとすれば結構イケメンじゃん」

 人嫌いだったなんて、もったいないぜ、セロ。


 風呂からあがって、米を炊き、鹿肉に塩を振って焼いた。備蓄の中から見つけた芋らしき物体は、皮を剥いたら中がオレンジ色だった。驚いたが、とりあえずそれも焼いた。

「よし! 顔も体も頭もすっきりした! いただきます!」

 いつから食べていないのかはわからないが、猛烈に空腹だった。少なくとも、混乱の中に立ち止まるばかりじゃなく、空腹を感じることができている。そして自分で食事を用意できている。鍋で米を炊く方法を、以前、自分が編集した雑誌で読んでいたのが役に立った。

 少しぱさついているが、温かな炊きたての白飯、塩を振りすぎた鹿肉、なぜかトマトの味がする芋。私は一口ずつ、よく噛みしめて食べた。

(これを食べ終わったら、コーヒーを淹れよう。思いきり濃く煮出して)



 ――その日から、私の生活にセロの記憶が寄り添ってくるようになった。

 年の離れた兄が首都に住んでいて、狩人を引退した父親はそっちに身を寄せたことや、母親はセロが子どもの頃に亡くなっていること。セロと父親は近くのオスロンという街で暮らしていたが、セロはこの小屋を引き継いでから、こっちでの生活がメインになっているので、オスロンにあった部屋は引き払っていること。

 魔法の収納袋の他に、保存箱という大型のものもあるらしく、狩りで獲った獣はそこに入れてあること。街との取引で金を貯めて、一昨年、天馬を買えたこと。


 私は、頭の中にあるセロの記憶と会話しながら、自分の新しい体の使い方を覚えていった。天馬の乗り方を練習すると、その日の夜には天馬を買った時のあれこれを夢に見る。妖精魔法について書かれている本を読むと、妖精じゃないほうの魔法(一般魔法と言うらしい)がセロは不得意で、中等院では「初等院レベルで止まっている」と教師にため息をつかれたことを夢に見た。他の人が気軽に使う発火の魔法すら、成功率が低いらしい。

 だからなのだろう、日常で使う小さな魔道具がこの家のあちこちに置いてある。氷も自力では作れないので、断熱性の高い箱に冷却の魔道具を取り付けて、強弱で使い分けている。要は冷凍庫と冷蔵庫だ。冷凍庫のほうに水を入れておけば氷はできる。

(なるほど。そういう工夫をする人間は嫌いじゃない)

 セロの記憶を見るに、少し引きこもりがちというか、あまり世間と関わりたくないという姿勢が見えたので、人間なんか関わってなんぼでしょうが!と多少いらついていたのだ。


 秋が深まる前に、私は――“俺”は、小屋を出てオスロンの街へ移動することにした。

 もっと、人と関わるために。



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