第2話 やまみことなでしこ
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体が芯から暖まったのか、部屋に戻っても頭がふわふわとして、どうやって大浴場から戻ってきたのか曖昧なほどだ。
「さて、温泉に入ると腹が減るもんだな、そろそろ夕食をお願いするか」
私がここに着いたのは昼をかなり過ぎた頃だったから、これがこの宿で最初の食事になる。少し緊張しながら部屋の電話の受話器を持ち上げると、すぐにフロントに繋がった。
「はい、渓水の間のお客様ですね。いかがなさいましたか?」
男性の声だ。女将以外の従業員を見ていないから、少し意外な気がした。
「あ、はい、夕食の準備をお願いしたいのですが」
「承りました。では、お部屋にお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」
「あの、少しお酒も欲しいのですが」
「かしこまりました。ビール、ワイン、日本酒、焼酎、ウィスキーとございます。いかがなさいますか?」
「そうですね、じゃ、ビールとウィスキーにします」
「承知いたしました。それぞれ準備してお持ちいたしますので」
「はい、お願いします」
私はそれほど飲む方ではないが、これほど準備がいいとどんな酒が出て来るのか気になる。飲むのも仕事のうち、なんていう仕事柄というヤツだろうか。
それより、食事の内容や種類を聞くのを忘れてしまった。しかし、何も聞かれなかったと言うことは、選べないのかもしれない。
ほどなくして、部屋の扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
「お待たせいたしました。では、お食事を準備させていただきますので、少々お邪魔いたします」
食事を持ってきてくれたのは二人だった。男性の方はさっきの電話の人だろう。もうひとりは女将と同じくらいの年齢に見える女性、というか、女将にとてもよく似ている。
二人は手際よく料理を卓上に並べていった。肉料理が中心のようだ、それも牛肉、豚肉、鶏肉がそれぞれ数種類の料理法でしつらえてある。
そう言えば私は魚が苦手だが、そんなことは伝えていないはずだ。肉料理が多いのは、ここが山間の温泉宿だからだろうか。
「あの」
私は女性の従業員に声を掛けてみた。
「魚が苦手っていうこと、私、お伝えしていましたか?」
女性従業員は振り返るとにっこりと笑いながら振り返る。
「ええ、承知しております。この宿をご予約なさるときに、いろいろとお伺いしていますよ?」
「そ、そうですか」
-そうか、予約の時に聞かれていたのか。何年も待ったから忘れてしまったんだな。しかし、さすが人気の宿だ。サービスが行き届いている。
私は納得して、先ほど気になったことを聞いてみた。
「えっと、お嬢さんは女将さんにとてもよく似てらっしゃる。ご
その問いにも女性従業員は笑顔で応えようとしたが、男性従業員が笑いながら話し出した。
「お客様、このような田舎の宿でございます。女将もこのなでしこも、私もみな同族なんですよ」
なでしこと呼ばれた女性従業員が続けた。
「そうなんです。女将のきさらぎは私のいとこにあたります。こちらはやまみこと申しまして、私の兄でございます」
「そうなんですか・・あ、すみません、なにか立ち入ったことを聞いてしまいましたね」
「いえいえ、とんでもございません。私ども家族はお客様にご奉仕することを誇りにしていますから、ですからこれまでも、お客さま方にとても良くしていただいていると承知しております」
やまみこと呼ばれた男性従業員は、とても丁寧に応えてくれた。
そのような話をしている間も、料理はてきぱきと並べられ、その傍らにはビールとウィスキーが準備された。どちらも数種類の銘柄が置かれていて、とても一度には飲めそうにない。
「お酒、すみませんでした。今日はどちらも少しずついただきますが、明日からは1種類にしますね」
恐縮する私の顔を見て、やまみこが首を振りながら口を開く。
「いえいえ、本日はお客様のお好みが分かりませんでしたから、このように準備させていただきました。ですが、ウィスキーにしても、スコッチやバーボンと揃えておりますし、ブランデーも各種ございます。ビールも、他のお酒も同様です。私もお酒が好きですから、お客様もご遠慮なく、お好みの銘柄をお申し付けください。お客様がよろしければ、私共も少しお付き合いできますから、おっしゃってくださいね」
-酒まで付き合ってくれるのか?やまみこくんが?なでしこさんも?
笑顔でそう言うやまみこを見ながら、私は驚いてなでしこに顔を向ける。
「はい、やまみこも私も結構飲める口なんですよ?おひとりでつまらないときには、どうぞご遠慮なさらず、お申し付けください」
なでしこはやまみこに負けないくらいの笑顔でそう言うと、やまみこに目配せをして立ち上がった。
「それでは、ごゆっくりとお楽しみください」
ふたりは頭を下げると、そろって部屋を出て行った。
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「そうか、同族経営ってことか、しかしなでしこさんは綺麗な子だ。やまみこ君もモデル並みだったな。あんな子たちが一杯付き合ってくれるなんてなぁ・・」
私は自分のだらしない腹に視線を落とし、両手でポンポンと叩いて、ふぅ、とため息をついた。
「ま、それはそれ、これはこれ、食べよう!」
料理は美味かった。
牛肉はローストビーフのように仕上がったタタキ、小ぶりだが肉厚のステーキ、焼き加減は私好みのウェルダンだ。薄切り肉の冷やしゃぶサラダ、野菜と一体化する柔らかな牛肉、よほど肉質がいいのだろう。
豚肉は角煮、バラ焼き、酢モツ、まるで居酒屋のような料理もここまで昇華するのかと感心するほど美しく盛り付けられ、そして旨い。鶏もそうだ。唐揚げにしろ焼き鳥にしろ煮込みにしろ、締めにと用意された肉そぼろ茶漬けまで、こんな家庭的、大衆的な料理がこれほどの味だとは。これまで食べたことのある料理ばかりだったが、その中で間違いなく1番。安い言い方だが、そう感じるものだった。
「さすが人気の宿ということか、こんなすごい料理が出るなら、もしかしたら苦手な魚料理も、食べなきゃもったいないんじゃないか?」
それぞれの料理に合う酒を少しずつ飲みながら、私はそう考えていた。
「よし、明日の夕食は魚をお願いしてみるか!」
ビールもウィスキーも少しずつ飲んだはずだが、締めの茶漬けを食べる頃にはもう、したたかに酔っていた。
「歯、歯を、磨かなきゃ」
私は、仕事柄身についた食後の絶対的習慣を途切れそうな記憶の中でこなし、これまで味わったことのない幸福感に包まれて、ふかふかの布団に潜り込んだ。
しかし、その布団がいつ敷かれたのか、食事の後片付けはいつされたのか、私に、その記憶はなかった。
つづく
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