閑話休題 四十一歳・秋

「やめへんの?」

 細く長く吐き出された煙の向こう側で、彼は困ったように眉尻を下げて所在なく立ち尽くしていた。今ではもう非喫煙者の仲間入りを果たした彼は、時たま僕に禁煙を薦めるような言葉を口にする。自分はもう手放したからと、手のひら返しもいいところだ。

「やめないよ。多分、死ぬまで」

 じりじりと葉っぱの焼けていく音と、燻されて苦くくすんだ香りは何年経ってもずっと僕のそばにいて、慣れ親しんだ相棒のようなものになっている。歳を取るごとに喫煙者への当たりは強くなっているが、それでもやめようと思うことはなかった。

 一口含んで、当て付けのように目の前の男へと真っ白い煙を吐き出してやった。咽ることはなかったものの嫌そうに眉根を寄せる仕草に、してやったり、と無理矢理に口角を持ち上げる。喫煙者でも、煽りを目的に煙を浴びせられるのはいい気分がしない。

 温厚そうな彼の眉尻が少し上がって、男前にも拍車が掛かる。肺に落ちていく煙が、さっきよりもずっと美味しく感じられた。

「まぁ、ええけど」

 彼の‐悠の拗ねた顔は可愛らしくて好きだ。大学生の頃からの付き合いではあるが、多人数を前にすると彼はどうしても好い顔をしようとする。

 化粧品メーカーに就職して、プロジェクトリーダーを任されるようになって、部下にも上司にも慕われて。過ぎていく日々と比例するように一層気を張るようになってしまって、例え家にいたとしても早々お目に掛かれるものではない。

 たまに見られるからこそ希少価値は上がると言うものだけれど、原因が僕にあると分かっているだけでも一々嬉しくなってしまう。

 逸る感情がそのまま表情に浮かび上がっていたのか、悠はわざとらしく溜息を吐き捨てた。面倒そうに呆れた顔もまた珍しいもので、僕はやっぱり、場違いにも嬉しくて笑ってしまう。

「意地悪いとこ、出てもうてるで」

「君相手に隠すつもり何てないよ」

 にっこりと、効果音を付けられるほどに笑ってやると、彼もまた諦めたように苦く笑った。くしゃりと垂れ下がった眉尻にほんの少しだけ残念な気持ちにはなったけれど、それでも彼の表情はどれを取って見ても格好良くて、可愛らしくて。僕を満足させるには充分であった。

「久し振りに吸ってみる?」

 彼が吸わなくなってからどれくらいになるのだろうか。試しに羽織っていたトレンチコートの右ポケットを叩いてみれば、悠は静かに首を竦めるだけだった。

 大学を卒業してすぐに禁煙を決めたらしい彼は、驚くほどにすっぱりと未練も残さずやめてしまった。一日に一箱は消費していたであろうヘビースモーカーの彼がここまで綺麗にやめられるなんて、きっと誰も思ってはいなかっただろう。それくらいにすっぱりと、潔く煙草を手放してしまった。

 それ以降は一口も吸っているところを見たことがなかった。やめた手前吸いにくいのだろうかと考えてみたこともあったけれど、隠れて嗜んでいる様子もない。

 思いきりのいい性格は、見ていていっそ清々しい。羨ましいと真似したくなる部分ではあったけれど、喫煙に関してのみを言ってしまえばどうでも良かった。

 だって、僕が興味の欠片もなかった煙草に憧れを抱いたのは彼のせいだったから。

 大学生のあの日、ふと視線を向けた先で白い煙を燻らせている姿を見て、格好良いと思ってしまった。喫煙者なんて今までにも散々見てきたのに、臭い以外の感想を抱いたのはあの日が初めてだ。

 呼ばれているのが聞こえて、声を掛けて、友だちになって。約束もしていないのに、気が付けばあの喫煙所へと誘い込まれていた。そこでもう一度煙草を吸う悠を見て、いいなと憧れを抱いてしまう。

 誰に対しても変わらない微笑みを向ける彼が、昇っていく煙の前では何よりも静かで、無表情で。初めて垣間見た彼の柔らかで、弱っちい部分に僕も触れたくなった。

 いつか消えてしまう生温かい煙なんかじゃなくて、君の全てを僕に預けてほしい。誰にも見せたことがない一面を、僕にだけは惜しげもなく曝け出してほしい。

 自分の中に芽生えた感情に戸惑いつつも、初めて吸った煙草は彼の大きな手から取り出された赤いケースの銘柄だった。

「吸いたくならないの?」

「ん? あぁ、まぁ、たまぁに?」

 最後の一口を堪能して、燃やし尽くしてしまおうと勢いを増す炎を錆びた銀色に押し付ける。じゅわりと命を惜しむ音がして、葉っぱは残らず灰になってしまった。あの若く懐かしい赤色は僕には合わなかったけれど、残像を追いかけるように銘柄を変えてまで僕は吸い続けている。

 結局、僕が彼の喫煙姿を眺められたのは一年と半年ほど。年月にしてしまえばどうってことのない数字だけれど、僕の中には色濃く残っている。

 ベンチにだらしなく座って、ぼんやりとどこか遠くを見つめながら煙草を咥える。昇っていく煙を追いかける瞳は空の色を映していて、それがなんとなく綺麗だな、と思った。他の誰でもない、悠だからこそいつまでも見ていたかった。

 僕よりも十センチほど高い位置にある垂れた瞳を見上げて問えば、彼は少しだけ考えるように唸った。困ったように笑う口元からは後悔というよりも諦めのような、想像していたものとは違った感情が顔を覗かせていた。僕は思わず首を傾げてしまって、ぱちりと瞼を震わせた。

 禁煙を決めたのは、就職先が化粧品メーカーだったから。今のように分煙が進められているわけでもない社会では、自分のデスクに灰皿を置いていつでも吸っているような状況にあった。上司も同期も自席で吸っている人はたくさんいただろうが、それでも悠は禁煙を決めて守り続けている。

 仕事のためと決めたのだから、仕方がないとでも言うのかと思っていた。だけれど悠の反応はそういうものとは違っていて、生憎と見当が付かない。首を傾げたままじっと見上げていると、悠はどこか気まずそうに頬を掻いた。

「吸ったらいいのに」

「んー、まぁ、そうやねぇ」

 歯切れの悪い言葉に、僕はもう一度ぱちりと瞼を震わせる。煙草を咥えてやって来た同年代のおじさんに灰皿の横を譲ってやり、僕たちはゆるりとペースを落として歩き出す。

 繁華街の片隅に置かれた灰皿は大通りに隣接された喫煙所よりも利用者が少なく、知っている人間も限られていた。穴場であるここを見つけてきたのは喫煙者時代の彼で、悪戯っ子のガキ大将よろしく手を引かれてやって来た。

 二人だけが知っている秘密基地のような感覚に足繁く通い、煙を吐き出す無表情の横顔を何度も盗み見した。僕だけが吸うようになってからも、隣り合う肩の温もりは変わらない。

 だけれど、景色は随分と変わってしまったように思う。見つけてきたのは二十年も前だったから移り変わりは当たり前で、それを淋しいと感じる余韻もない。ただ、あのときに憧れた背中は今でも僕のそばにある。

「吸ったらいいのに」

 同じ言葉を繰り返せば、ゆるりと歩く彼はまた、困ったように笑った。目尻の皺が増えて随分と大人びた彼も、僕に言わせてしまうとどこも、何ひとつ変わっていなかった。

 鼻の奥に残っていたのは、僕が吸っている銘柄の香りではない。記憶の片隅に押しやられていた、彼が好んで含んでいた煙の香りは、きっと今すれ違った若者から漂ってきたものだろう。

 懐かしさに思わず振り返ると、悠も同じように香りを追っていた。茶色く染まった髪の毛を刈り上げた後ろ姿は、僕たちが出てきた路地へと消えていく。彼もあのひっそりと佇む錆びた銀色の元に行くのだろうか。

「俺はやっぱり、ええかな」

「……え?」

「煙草、吸わんでええかなって」

 一人で消えていった若者に、自分たちが並んで歩く姿を重ねていた。上手く聞き取れなかった言葉に彼を見上げると、なんだか知らないが恥ずかしそうに細められた瞳とぶつかった。

「普通にやめてまえたし」

「それを僕に言うんだね、君は」

 やめるつもりはさらさらないが、四十を超えても未だに手放せない自分に向かって、それはもう朗らかに言い放った男を睨んでやる。君は世界に蔓延るニコチン中毒者に謝った方がいいと思うのだけれど。

 僅かに赤く染まった頬を隠すように、柔く手を取られて歩き出す。掬われた右手は彼の左手と交わり合って、足を進めるたびに前へ、後ろへと揺られていった。

 土曜日の大通りは人の往来こそ激しいものの、他人に向けられる視線はそう多くない。人が多いからこそみんな自分たちに必死で、周りを面白がる余裕など持っていないのだ。こうしておじさん同士が手を取り合っていても、見咎めるようなものは誰もいない。

「やって、君がおるからね」

「ん? 僕?」

 するすると流れが読めているかのように迷いなく歩いていく彼に、僕は手を引かれるままその半歩後ろをついていく。悠のこの能力は尊敬に値すると常々思っているけれど、それを彼に伝えたところで不思議そうに見返されるだけだと分かっているので告げたことは一度もない。

 君、と言われてもその先は読めなかった。繋がっているようで、彼の中だけで連鎖されている言葉の意味は、何十年の付き合いになろうと僕には掴めなかった。

 どういうこと、と尋ねてみると、そのままの意味だよ、と含みを持って返された。

「君が吸っとるからね」

 にんまりと、頬を色付かせたまま悪戯っ子のような笑みを向けられて、同時に重なり合った指先を軽い心地で擦られた。擦り合わさった指先はかさついていて、そこから漏れ伝わってくる温度に今度は僕が頬を染める番だった。

「吸いたなっても、君の指先があれば満足や」

 してやったり。仕返しのように笑う彼に、僕は自由の利く左手で顔を覆った。

 燻された香りは煙を浴びた衣服や髪の毛以上に、挟み込んでその熱をそばで浴びていた指先へと色濃く残す。日常的に吸っている僕の指先はきっと、苦くもどことなく居心地の良い香りで満たされているのだろう。

 自分の指先なんて早々匂うものではないけれど、そう言えば彼はよく人の手指で遊んでいた。ソファで隣り合っているときも、こうして外を歩いているときも、悠はいつだって僕の指先を掬っている。

 香りが彼の指先にまで移っているのだとは流石に思わないけれど、それでも吸わなくなった彼が何かを感じるには条件が揃い過ぎている。繋がった手を離そうとして、だけれど僕よりも強い力に阻まれて叶わない。

「ユウは、恥ずかしいね」

 口惜しくなって、出逢った当初に読み間違えた名前で呼んでやる。悠という漢字はそのときの僕にとってはユウという二文字にしか結びつかず、周りに訂正されてひどく恥ずかしい思いをした。

 間違われてしまった本人は面白そうに笑うだけではあったが、恋仲になってからは時たま呼んでやっていた。

「愛されとるからね」

 変えた呼び方を、どうやら彼本人はいたく気に入っているらしかった。擦られた指先はぬるく、頬は相変わらず熱を灯したままだった。

 吸ったらいいのに。三度目の言葉は舌先に転がるだけで、音にはなってくれなかった。それでも彼には伝わってしまったのか、人の溢れた喫煙所に足が向けられた。急な方向転換でも器用に避けられた人波に、今度こそ彼の磨かれた才能を告げてやろうと決める。

 僕はきっと、死ぬまで喫煙者でいるのだろう。そうして僕の指先を掬う彼は、このままずっと、吸わないでいるのだろう。僕の指先に残る香りを追いかけて、ただその僅かな残り香に満足する。

 垂れた目尻に力が入って、きゅっと目を細めて見てくるのが容易に想像出来た。この件に関しては一生敵わないのだろうな、とそっと溜息を吐き出して、掬われた指先に力を込める。

 重なり合った手のひらから、残り香が移りませんように。そんな風に思ったのは、悠には一生の秘密だ。

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