第3話 夜叉王

 橘彩花たちばな あやかは石碑を見つめながら、幼い頃に聞いた話を思い返していた。


 「これは、平安時代に最凶の厄災を封じ込めた石碑だ。京の町を恐怖に陥れた、恐ろしい鬼を、橘家の先祖が封じたものだ」


 大人たちはそう語っていたが、彩花はその言葉を信じることができなかった。


 「こんなものに鬼を封じ込めたなんて……嘘に決まってる」


 実際、次兄の勇真ゆうまは子供の頃、何度もこの石碑によじ登って遊んでいた。


 (どうせ、大人たちがお酒を飲みたくて、考えた作り話なんだから)


 彩花はそんな思いを抱えながら、冷めた気持ちで参加していた。


 ある日、彩花はほんの遊び心で「陰陽術」を試してみた。庭に置かれた石碑の前で、ほんの気まぐれだった。


 (そんな鬼が本当にいるなら、会ってみたい)


 持っていた霊符を手に取り、唱えたのは「封じる」ための術ではなく、その逆――封印を緩めるための「封徐け」の術だった。


 (どうせ、こんな古い石に力なんて残ってないわよ。これで本当に何かが起きるなら、その方が奇跡だわ)


 そう思いながら、軽い気持ちで術を使った。


 ———しかし、何の変化も起きなかった。


 酒宴の席で、分家の娘である莉乃が紗月に辛辣な言葉を投げかけている。


 (……あの二人、前は仲良かったのに……)


 ———その時だった。


 ——「ゴゴゴ……」——


 彩花は思わずジュースのグラスを置き、音の方に目を向けた。


 「……何?」


 「今の音……なんだ?」


 (まさか……石碑?)


 その音は次第に大きくなり、どこか禍々しい気配を伴っていた。


 (まさか……この前の……?)


 彩花の脳裏にふと、数日前の記憶がよぎる。軽い気持ちで試した「封徐け」の術———それが、何かを引き起こしたのかもしれない。


 音はますます激しさを増し、庭の方向からは異様な光が漏れ始めていた。


 「庭に出るぞ!」


 (私がやったことが原因なの……? そんな……でも……!)


 彩花はただ光の中に佇む石碑を見つめるしかなかった。


 「ゴゴゴ……パキッ……!」


 石碑が完全に崩れ去り、砕けた破片が周囲に飛び散ると同時に、渦巻いていた黒い霧が一気に石碑があった場所へと集まり始めた。


 ———霧が収束し、やがて人の輪郭を形作る。


 そして、霧が完全に消え去った瞬間———そこに立っていたのは、一人の男性だった。


 整った顔立ちに、風になびく長い黒髪。その黒髪は闇そのものを彷彿とさせる。


 雅やかな着物をまとい、どこか気品すら漂わせたその姿は、一見すればただの上品な若者のようにも見える。


 しかし、その存在が放つ異様な気配は、彼がただの人間ではないことを強く物語っていた。


 (嘘……私が術を使ったから……なの……?)


 胸が締めつけられるような苦しさが襲い、彩花は無意識に手を胸元に当てた。


 (この人は……いったい……誰なの……? でも……なんでか、知ってる気がする……)


 橘家一同はその場に立ち尽くしたまま、誰一人として動けない。符を握る手が完全に固まり、調略の術を唱えようとする者すらいない。


 紗月は身体中が震え、全身に鳥肌が立つ。


 (なんやの……あの人……怖すぎて目え向けれへん……!)


 長髪の若い男性は、ゆっくりと辺りを見渡すと、興味なさそうに口を開いた。


 「……どのくらい時間が経ったかわからぬが、陰陽師はまだ滅びていないようだな……案外しぶとい……」


 その声は静かで落ち着いていたが、言葉に込められた冷たい侮蔑が、聞いている者の胸に突き刺さる。


 「まぁ、よい。当分は生かしといてやるか……あの、ふざけた輩は……流石に生きては、いまい……」


 男の顔に一瞬、苦々しい感情が浮かんだように見えた。すると彼はゆっくりと両手を組み、印を結ぶ。


 その動作は明らかに陰陽師の術式であった。


 「木火土金水、五つの道を繋ぎて示せ。飛翔の力我に宿れ」


 次の瞬間、男性の身体がふわりと浮き上がる。そして、風に乗るように飛び去っていった。


 男性が去った後、その場にいた全員が冷や汗を流しながら、やっと動き始める。

 分家の若い者の中には、腰が抜けて立ち上がれない者もおり、みな顔面蒼白で震えていた。


 「……あれはいったい……なんなのだ……」


 宗近が気力を振り絞って声を出すが、普段の威厳とはかけ離れていた。


 「鬼……いや……しかし陰陽術を使っていた……あれが…伝承にある夜叉王やしゃおうなのか……」


 紗月もその場で腰が抜け、屋敷の柱にしがみついていた。


 (陰陽師って、あんな化け物と戦わなあかんの……?)


 紗月は自分の震える手を見つめた。陰陽師に憧れがあった自分が、ただの愚か者に思えて仕方なかった。


 (うちには……到底無理や……)


 瓦礫と化した石碑の前に立ち尽くしていた宗近は、恐る恐る足を進めた。分家の当主たちもそれに続き、慎重に崩れた石碑を調べ始める。


 「……これが、あの夜叉王を封じていた石碑だというのか……」


 橘東家の当主、橘東桂一きつとう けいいちは、地面に膝をついて崩れた石碑の破片を手に取った。表面には苔が張り付き、ひび割れが何重にも走っている。


 「宗近様、これは……随分前からひびが入っていたようです」


 桂一が破片を手に取りながら冷静に言った。


 「どうやら、何かのキッカケがあったのかもしれませんが……遅かれ早かれ、この封印は解けていたでしょうな」


 「……封印が、時間の経過で壊れるものなのか?」


 桂一は静かに頷き、破片を丁寧に地面に戻した。


 「以前から申し上げていたことを覚えておられますか? 『月影の集い』が形骸化していると」


 宗近は視線をそらしたが、何も言い返さなかった。


 「本来、この儀式は橘本家と、東西南北の分家が揃い、力を合わせて行うものでした。しかし、ここ数十年、本来の形式が失われ、形だけのものになっていました」


 桂一は静かに石碑を見つめ、その場に集まった者たちの顔を順に見渡した。


 「宗近様、以前、私が申し上げたように、橘北きつほく家を再興し、紗月に陰陽術を教えるべきだったのではありませんか?」


 「……その話はもう何度もしただろう。北家の再興は、今の橘家にとって……」


 「———宗近様」


 桂一が強い口調で遮った。


 「思うところもあるでしょうが、橘北家が長きにわたり橘家を支えてきたのは事実」


 「………。」


 「北家の再興を認めることで、我々の力をもう一度結集させることができたはずです。だが、頑なに拒まれた結果がこれです」


 (う、うちが……陰陽術を……?)


 信じられない思いで、紗月は桂一の言葉を反芻していた。


 「いずれにせよ……」


 桂一は立ち上がり、宗近に向き直る。


 「あの者が夜叉王であれば、橘家だけでどうにかできる相手ではありません。陰陽師協会に助力を求めるべきです」


 「そうだな……だが、その前に……彩花と話さなければならない」


 「彩花様……?」


 桂一が訝しげに問いかける。


 庭の中央、崩れ落ちた石碑を見つめながら、橘家の一同は沈黙していた。


 「彩花……父に言うことはないか?」


 その一言で、全員の視線が彩花に向かう。彩花の顔色がさらに青ざめ、震える手で霊符を握りしめる。


 「まさか、彩花……お前が何かしたのか?」


 長男の雅彦が威圧的に声をだす。


 彩花は言葉を探そうと口を開きかけたが、何も出てこない。ただ顔を伏せ、唇を噛むばかりだ。


 その時――


 「うちです!」


 全員の視線が、一列後ろに立っていた紗月に向く。


 「うちが……石碑の近くに行ってもうて……なんか、余計なことをしたかもしれません!」


 雅彦は眉をひそめ、紗月を鋭い目で見た。


 「紗月、お前が何をしたというのだ?」


 「そ、それが……わかりません! でも、石碑を触ってもうたんです……。それが原因かもしれません!」


 紗月は必死に言葉を紡ぎ出した。心臓が爆発しそうなほど鼓動が早い。それでも彩花を守りたいという気持ちだけで、彼女は嘘を重ねる。


 「……馬鹿な、お前ごときに封印をどうこうできるわけが――」


 分家の当主たちが呆れたように声を上げる。


 「……父様、あの――」


 だが、彩花の言葉を遮るように、紗月がさらに声を張り上げた。


 「ご、ごめんなさい! ほんまにうちが悪いんです! ……すみません!」


 紗月は深く頭を下げた。背中に皆の視線が突き刺さるのを感じながら、彼女は必死に震えを抑えようとする。


 「紗月……」


 しかし、次の瞬間、庭の外から異様な気配が漂い始めた。遠くから響くかすかな低音。


 ———「ゴゴゴ……」


 「なんだ……?」


 宗近が顔を上げると、周囲の者たちも緊張した表情で気配を探る。庭の外、闇の中からうっすらと動く影が見えた。


 「妖だ! 封印の残り香に誘われた!」


 橘東家の当主、桂一が叫ぶと、他の者たちもすぐに霊符を構えた。


 「今はそれどころではない! 妖を追い払うぞ!」


 宗近が声を張り上げ、場の空気が一変する。


 (彩花様……今はこれでええ。これ以上、誰にも責められへんように……)

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