第29話

 朝七時、自宅前まで迎えに来た浜崎のリムジンで潮原しおはら駅に向かう。


 秘書さんが助手席から穏やかな笑顔でお母さんに告げる。


潮原しおはら駅でバスに乗り換えますので、それまでごゆっくり」


 お母さんはリムジンに初めて乗ったらしく、ちょっと興奮気味だ。


「やだ、なにこのシート! ただの車じゃないの?!」


「お母さん! リムジンだから! そんなに興奮しないで!」


 昨日の夜も、お母さんはちょっと興奮気味で旅行の支度をしてたっけ。


 うちってこういう旅行、したことないしなー。


 座席の前についてる小型のモニターでは、映画も見れるらしい。


 お母さんはアクション映画を見始め、すっかりくつろぎはじめていた。


 私はスマホをタップして、早苗さなえたちにメッセージを入れる。



朝陽あさひ:「こっちはリムジン乗ったよー」


歩美あゆみ:「うちも乗ってるわよ」


早苗さなえ:「え、もう?! うわ、ごめん遅れるかも!」



 早苗さなえ、寝坊でもしたのかな……。


 私はシートに体を沈め、窓の外をぼんやりと眺めた。





****


 潮原しおはら駅では、マスターと歩美あゆみ、孝弘さんが待っていた。


 マスターは青いジーンズに白いTシャツの上から黒いジャケットを羽織ってる。


「あれ? マスターは着流しじゃないの?」


 マスターがクスリと笑って応える。


「それだと目立ち過ぎちゃうでしょ。

 ――でも、朝陽あさひさんが『着流しの方が良い』って言うなら着替えるけど」


 私はあわてて手を横に振った。


「いやいや! この時間から着替えてなんて言わないから!」


 歩美あゆみがスマホを見ながらつぶやく。


早苗さなえ、遅いわね」


「あー、『遅れるかも』って言ってたしね」


 秘書さんが私たちに告げる。


「スケジュールには余裕を取ってあります。

 心配しなくて大丈夫ですよ」


 孝弘さんがニッと笑って告げる。


「今日は夜までに現地に着ければいい。

 どうせ道路は混むんだ。のんびり行こうぜ」


 お母さんはマスターに近づいて頭を下げていた。


朝陽あさひがいつもお世話になってます」


「いえいえ、僕の方こそいつも朝陽あさひさんには助けられてますから」


「でもあの子、時々すごいドジを踏むでしょう?」


 マスターが楽しそうに微笑んだ。


「ええ、それはもう!

 ですが僕がちゃんとカバーしてますから、安心して下さい」


 私はあわてて声を上げる。


「ちょっと?! 最近は大きなドジなんてしてないよ?!」


 歩美あゆみがクスクスと笑う。


「パスタを茹でる時、塩と砂糖を間違えたのは誰だったかしら」


「――それは?!」


 あれは! 塩と砂糖が同じ色なのが悪い!


 私が真っ赤になりながら歩美あゆみを睨み付けていると、遠くからバスの音が聞こえてきた。


 振り返ると、観光バスっぽいものがこちらに向かってきて、目の前で止まった。


 秘書さんが私たちに告げる。


「では荷物をしまってから、乗車してください」


「はーい」



 運転手さんと秘書さんが、みんなの荷物をバスのトランクルームに詰め込んでいく。


 私たちは一足先にバスに乗りこんだ。





****


 バスの中は三列の座席が並んでいて、修学旅行のバスとはまるで違っていた。


「なにこれ?! 初めて見た!」


 真ん中に通路がないバスなんてあるんだ?!


 孝弘さんが楽しそうに告げる。


「うちの観光セグメントが取り扱ってる、プライベートバスだよ。

 クソ爺の専用車だ」


 座席の二列目から声が聞こえる。


「ハハハ! 君らも好きな所に座りなさい!」


 席を覗くと、浜崎のお爺さんがくつろいでいた。


 歩美あゆみが私に告げる。


「後ろの方にいきましょ」


 私はうなずいて、バスの後部へと進んでいった。


 全席がリムジンより大きなシートで、横にはカーテンまで付いてる。


 歩美あゆみが一番後ろの窓際に座ったので、私はその反対側の窓際に座る。


 マスターと孝弘さんは、私たちの前に座った。


 お母さんは浜崎のお爺さんや秘書さんたちと一緒に、バスの前方に座ったみたいだ。


「なんだか、ワクワクするね!」


 孝弘さんが明るい声で応える。


「そうか? 本番はこれからだぞ?

 早苗さなえがくるまでゆっくりしとけ」


 孝弘さん、早苗さなえももう呼び捨てなのか。


 歩美あゆみが孝弘さんに告げる。


「私のことはきちんと『荒川あらかわ』って呼んでくださいね」


「えー? 別に歩美あゆみでいいだろ?

 改まって名字で呼び合う仲じゃねーじゃん」


「けじめはしっかりつけてほしいんだけど。

 それくらいもできないのかしら」


「じゃあ今度から、歩美あゆみだけ苗字呼びってことでいいのか?」


「だから! 名前で呼ぶな!」


 マスターが楽しそうな笑い声をあげていると、バスの入り口から早苗さなえが飛び込んできた。


「ごめーん! 寝坊したー!」


 孝弘さんが手を挙げて応える。


「おー、早苗さなえ! こっちだ!」


「お、孝弘じゃーん! 勉強進んでる?」


「うるせー!」


 早苗さなえは私の隣、三列目の真ん中に座った。


 早苗さなえが座ると、間もなくバスが動き出した。


 スマホを見ると、午前八時を結構過ぎてる。


「ねぇ、渋滞に巻き込まれないの?」


「だとしても四時間か五時間で到着するよ。

 昼飯は車内で食うし、問題ないって」


 孝弘さんはのんきに私に手を振っていた。





****


 座席を確認していくと、折り畳み式のテーブルやドリンクホルダー。


 さらにはやっぱりついてる小型のモニター。


 スマホをチェックすると、Wi-Fiまであるみたいだ。


 スマホの充電ケーブルを取り出してコンセントにつなぎ、テーブルの上に置いた。


「なにこれ、なんでもそろってるの?」


「枕とブランケットもあるから、退屈なら寝ておけよ」


 孝弘さんはレッグレストに足をかけ、はだしになってすっかりくつろいでいた。


 バスは間もなく高速道路に乗り、真っ直ぐ辰霧たつぎりに向かっていく。


「ねぇ、トイレ休憩はいつあるの?」


「んー? 運転手の後ろがトイレだ。使いたければ好きに使えばいい」


 良く見ると、確かに個室トイレっぽくなってる。


 至れり尽くせり過ぎる……。


 孝弘さんが立ち上がって私たちに告げる。


「そういう訳だから、飲み物も気にせず飲んでおけよ。

 ペットボトルもあるが、飲みたきゃ酒もあるぞ」


 歩美あゆみが眉を逆立てて声を上げる。


「未成年にお酒を勧めるな!」


「なんだよ、お堅いな。

 見つかってもクソ爺が逮捕されるだけだぞ?」


「なおさらダメでしょ!」


 マスターが楽しそうに笑って告げる。


「孝弘、僕の前でそんなことをしたらどうなるか、わかってるよね。

 酒気で具合が悪くなることもあるから、今回お酒は禁止だ」


 孝弘さんが唇を尖らせた。


「ちぇっ、小金井こがねいさんがそう言うなら諦めるか」


 孝弘さんは前方にあるクーラーボックスから、私たちの分の飲み物を持ってきてくれた。


「ほれ、ミネラルウォーターだ。

 適度に水分とっておけよ」


 一人一人に手渡してくれるそれを受け取り、ドリンクホルダーに置いた。


 私は孝弘さんと入れ替わりに立ち上がる。


「ちょっとトイレ!」


 シートをつたって前方に行き、トイレのドアを開けた。





****


 トイレを出ると、お母さんと目があった。


「どう? お母さん。心配いらなかったでしょ?」


 お母さんは苦笑いをして応える。


「まさか、こんな規模だなんて思わないわよ。

 小金井こがねいさんもきちんと見張ってくれてるみたいだし。

 これなら安心して任せられるわね」


 私はニンマリと笑って自分の席へ戻っていった。



 席に戻ると、早苗さなえが私に声をかけてくる。


「ねぇ朝陽あさひ! お小遣いどれくらいもってきた?!」


「んー、バイト代がまだだし、お母さん任せかな」


 孝弘さんが陽気な声で告げる。


「出費は全部、浜崎家が持つ。

 せいぜいお土産を買う時ぐらいにしか使わなくていいぞ」


「ええ?! 悪いよ、それじゃ!」


「クソ親父を改心させたお礼だよ。

 クソ爺からの、ちょっとした気持ちだ。

 お前らの出費は俺が管理するから、気にすんな」


 私は富裕層の金銭感覚にくらくらしながら、自分のシートに腰かけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る