綴り書き #30
「カッハッ……ゲホ。ゴポッ……ッう……うぅ」
「曇天さんて本当によく溺れるヒトね。海から恨みでも買っているのかしら?」
目を覚ましたのはヴェパルの膝の上。目の前には滑らかな肌と豊満な乳房が水圧でたゆんっと揺れていた。曇天が慌てて身体を起こして離れると、ベルやヴィオラよりも若干意志の強そうなアメジストが悪戯っぽく細められる。
「私の海底宮へようこそ。まさか貴方がここまで来れるなんて思ってなかったから驚いちゃった。頑張ってくれてありがと」
うふふと無邪気に笑う様は、あどけない少女のようにも映る。彼女の海底宮では息苦しくはなく、重たい水圧に押し潰される感覚すら消えていた。目の前では色とりどりの魚たちが泳ぎ、海底宮の下にはサンゴ礁が広がる。女王の椅子の後方には色とりどりの水中花。遠巻きに人魚の子どもたちがこちらの様子を窺っている。
「そうねぇ。貴方に合いそうな花蜜は……うん。これかしら」
ベラドンナによく似た水中花の花蜜を小さな小瓶に垂らして、ヴェパル自らが曇天へと差し出した。小瓶を見つめて警戒の色を浮かべる曇天。
「本当は悪魔の力を使うには対価が必要なんだけれど、巻き込んでしまったから。お詫びに一つあげるわ。受け取ってくれる?」
「ピィちゃんが、貴方は食えない女性だと言っていました」
「それ、本人に直接言っちゃうのね? ふふっ。そうね。強ち間違ってはいないかしら。だってここまで計画通り。なんですもの。貴方がここまで来れたコト以外は、ね。私の目は間違っていなかったわ。貴方たちは上手に踊ってくれた」
含みを持たせた綺麗過ぎる笑顔。この村に着いた時から自身で選んで来たつもりの事象、出来事は、全て彼女の掌の上だったということだろうか。
「どうしてヴィオラさんと入れ替わろうと思ったんですか? 本当は貴方も。アオトさんを愛してしまっていたのではないですか? アオトさんを手に入れるため、雷を操って……一旦はあの家族を壊した。そうすれば生まれ変わらせてあげたヴィオラさんが、また貴方を頼って来ると……そう思ったから」
小瓶を差し出した手を胸元へ引き寄せて、ヴェパルは哀しそうに微笑む。
「どうして人魚は王子を刺し殺せなかったと思う?」
「え? 王子を愛していて、王子の命を奪うのが嫌だったからでは?」
「少しだけ違うわね。深すぎる愛は憎しみと同義。殺せてしまうからこそ逃げ出したの。王子の愛する家族が悲しむから。彼が愛する人々の哀しい顔が、声が。王子の魂を永劫に苦しめると思ったからよ。大切な人にそんな苦しみなんて背負わせられない。そんな苦しい思いをさせる位なら自分が消える方が彼のためになる。彼の心は戻って来ないのだから……」
突然の問い掛けに戸惑いつつも答えを返すと、ヴェパルは小瓶と青い宝石を改めて曇天へと差し出した。
「でも、私は諦めきれなかったの。彼を長く留めてしまった。近くに居たくて、傍に居たくて。彼が完全に壊れてしまわないよう、嫉妬で壊してしまった彼の妻を演じて……始まりは本当にちょっとした好奇心だったのよ。私を女神だと信じ込んでしまった可愛らしい彼へのね。貴方が私を信じられないのは仕方がないわ。だから。この小瓶は貴方へ預ける。使う。使わないは貴方の自由よ。陸に戻ったら、この宝石を壊して。私が我儘で閉じ込めてしまった愛しいヒトを本当の家族のところへ返してあげて。中には鍵も入っているわ。歪んだ世界から脱出するための扉の鍵よ」
彼女の言葉に嘘をついている時に無意識に行う所作や表情は見受けられない。曇天は小瓶と、青い宝石を受け取った。
「迎えを呼んでいるの。最後に一つだけ。黒は白で、白が黒なの。忘れないでね?」
「曇天っ!」
言葉の意味を尋ねる前に、海底宮へ飛び込んで来たヨウムが、曇天を攫って羽ばたく。本来の大烏姿のピィちゃんの周りの海水は翼に触れるだけでたちまちに蒸発して霧散する。右の羽根の裏側に、ベラドンナを模したタトゥーが浮き上がっていることにはまだ曇天とヨウムは気が付いていない。
海底宮からの帰りは早かった。あっという間に辿り着いた陸上。大津波が、廃村と化した八百姫村に再び止めを刺そうと、廃村全てを飲み込まんとするような大口を開いていたのだ。
陸上に辿り着くと同時に、ピィちゃんは元のヨウムの姿へ戻り、魔力を使い切ってしまったのか、そのまま地面へと落下する。今にも襲い掛からんとする津波の真下。絶体絶命というやつだ。曇天は小瓶の蓋を捩じり、中身を一気に飲み干した。
「今度は僕が貴方を信じます。《ピィちゃん。起きてください。もうあれはただの海水です。貴方の炎で全て蒸発させてください。貴方にならば出来る》」
全幅の信頼を乗せた曇天の言霊の能力。ぐったりした右側の翼の内側。ベラドンナを模したタトゥーが光輝いて、大烏の姿へ戻ったヨウムが、炎で全ての海水ごと蒸発させる。残ったのは鼻につく酸っぱい臭いと、大量の白い粉。高温で蒸発させ、更に熱を加えたことで出来た硫酸カルシウムだ。カタカタと青い宝石が揺れ、粉へ引き寄せられそうになるのを、ベルが引き留めた。
「《水球は僕にも作れます》」
曇天の言葉に反応するように、小屋横の井戸水が水球となりこちらへと向かってくる。曇天はその水球をそのまま。白い粉へとぶつけた。水球が弾け、中の水が粉へと掛かると、みるみる粉が固まっていき、とうとう完全に固まってしまった。
「高温で熱した硫酸カルシウムに水を加えると石膏になるんです。とても割れやすい性質を持っているので……ピィちゃん。あの塊へ思いっきり炎弾をぶつけてみてください」
大烏状態のピィちゃんが炎弾を放つと、固まった白い粉は粉々に砕け散った。
「このように、衝撃で木っ端微塵になってしまうんです。とても危険なので、皆さんは絶対に真似をしないでくださいね」
口元へ指先を立てて、曇天は極小さく微笑んだ。粉々に砕け散った海坊主から月光が反射している。曇天とピィちゃんが近付くと鏡の欠片がところどころに交じっている。拾い上げると、鏡の裏側は黒い地図になっており、ベルに借りた地図と酷似している。
曇天は先程落としてしまった地図を探し、鏡の裏側の地図を、パズルのピースのように組み合わせていく。出来上がった鏡裏の地図は、ピースが一つ足りないようだが、概ね手元の地図と一致しているようだ。
ピースを一つ残し、組み合わされた鏡が前触れもなく浮遊する。曇天とピィちゃんは一歩後退り宙へ浮かぶ鏡を眺める。マジックミラーにでもなっているのか、月光に透かすと裏側の地図が表の鏡面へと映っている。月光を反射した鏡の表面は白く見えている。
ベルの腕の中で寝息を立てていたはずの赤子が鏡を見つめて微笑むと、鏡へと手を伸ばす。
「パパ?」
ベニトが鏡に触れた瞬間、ベルの手元の宝石が光り、青人が鏡に映るも、振り向いた先には誰もいない。もう一度ベニトが鏡に触れると微笑む青人が再度映り、曇天の懐に光が瞬く。振り向くと消えるを繰り返す。握り込まれていたベニトの右の掌が、鏡に触れようと開かれる瞬間に、曇天は小さな陰陽玉を見付けた。
「ベルさん。すみません。ちょっとベニトさんの掌を見せてくれませんか?」
握り込まれていた小さな掌に、更に小さな陰陽玉が一つ。その陰陽玉は正位置だ。
「黒は白で、白が黒……なるほど。そういうことですか。地図の中心の陰陽玉は反転していたんですね。ならば鏡越しに映して……」
曇天が地図を鏡越しに映すと、鏡の中の地図が反応し、反転された陰陽玉が正しく映る。それぞれの属性を表す色は左へ四つずつ戻り、土を表す黄色を中心として水を表す黒が頂点。木を表す青は右。金を表す白は左。そして、火を表す赤が下側へと戻る。これにより、それぞれの属性に表示されている東西南北の方角も地図と一致した。
鏡に映る陰陽玉がカチリと音を立てて、取っ手の欠けた扉が目の前に現れた。取っ手が欠けてしまっているため、鍵穴も存在せず、欠けた部分を覗き込むと真っ暗闇だ。どこへ通じているのかは分からない。
「行先は分かりませんが、恐らく出口……」
「けど、欠けちまってるから扉としては使えそうにねぇな。鍵穴もねぇみてぇだし」
「鍵は青い宝石の中にあるとヴェパルさんが仰っていました」
曇天の言葉を聞いたベルが、持っていた青い宝石を曇天とヨウムへと差し出した。月光に透かすと鍵の影が見える。青人の形見、もしくは青人の形代。魂の残滓が残ると聞いた宝石。少し気が進まないが、やはり壊すしかなさそうだ。曇天はベルとその母親のヴィオラへと視線を送る。
――――30――――
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