第1話 その2
ようやく、水が引いた。
「此度の大雨は、相当な規模のようだな」
魚籠を片手に歩きながら、男は呟いた。
数日降り続いた雨のせいで、渭水が大氾濫を起こすのは毎度のことであるが、今回は水が引くまでかなり長引いた。
人々は恐怖し、神に祈りと犠牲を捧げた。
だがしかし、大いなる恐怖の後には慈しみと恵みが訪れるものだ。
洪水の後には、泥水と共に川魚や海老や蟹などが労せずして捕れるのだ。男の目的は、これら川の幸であり、しかも、狙うは大物の鯉である。
男の仕事に、どうしても必要なものだった。
男の仕事は、
妻を伴って、まるで沼のような水溜まりを見つけては、首を突っ込まんばかりにして、鯉を探し求めているのであるが、未だに目当ての大物を探り当てるに至っていない。
「よき獲物が捕れるとよいのだが」
勿論、人間だけでなく鳥も獣たちも、そのあたりは経験則として熟知しているため、獲物の争奪戦となるのは必定である。
ぎゃあぎゃあと喧しい烏どもを睨みながら追い払い、男は鯉を求めて泥の最中を徘徊してまわる。
視界の先は、泥に埋まった田と畑が広がっている。
雨上がりの直後は、殆ど泥の更地のようになって、川べりと見分けがつかなくなっていたが、もともと生命力が旺盛な稲は、泥を被りつつも緑の葉を鋭く天に向かって突き立て直している。
だが、それでも今年の収穫は大打撃を受けるだろう。
「穂が出る前なのが、不幸中の幸いか」
真っ直ぐ伸びていく稲を真似るように、空を見上げつつ男は呟いた。すると、数歩下がって後をついてきていた妻が、悲鳴をあげた。
「
しかめっ面をしながら振り返り、妻の名を呼び、窘める。
「いい加減にせよ、少しは落ちつけ」
大体、妻は常に騒がしい。何でも大仰にとらえて、身振り手振りを加えて喚き立てるのだ。
――どうせ、此度もそれであろう。
たかを括っていた男だったが、予想が結婚以来、初めて外れた。
「あれ、あれを」
「うっ?」
幼い娘が端然と立っているではないか。
神々しさに、二人は言葉まで奪われた。
体を凝り固まらせている二人の耳に、奏でるかのような蛙の鳴き声が轟いている。
その只中で、幼女は静かに腕を上げた。
指指す先に、巨大な桑の木が横倒しになっていた。
――どうやって、こんな巨大な木が流れてきたのだ。
思う間に、幼女の姿も蛙の大合唱も忽然と消えた。
同時に、男と妻は桑の木を目指して駆けだしていた。
二人の耳は、哀愁を帯びた赤ん坊の泣き声を聞きとっていたからだ。
「まさか」
思いつつ、桑の巨木を弄るように調べる。
太い幹に、桑ににせぬ樹高。
想像よりも、相当に古い木のようである。
しかしながら、赤黒く熟した実を蓄えるだけの力を保っていた。
――大雨と濁流を流されてきておきながら、実を零さずにいるとは。
それだけで、この木から壮大な神秘を感じられるではないか。
「恐らくは、何処ぞで神木として祀られていたに相違ない」
男の呟きは、またしても、妻の悲鳴にかき消された。
「あんた!」
「喧しいぞ、いい加減にせよ、申したばかりで――」
再び、しかめっ面をした男だったが、振り返った途端、顎が外れる寸前まで口を開けた阿呆面になった。
何と、途方に暮れた表情の妻が、赤ん坊を抱いて立っていたからだ。
「あんた」
「どこにいた」
男は気を引きしめる。
問われた妻は、そこ、と顎をしゃくった。
あまりにも古い木であったからだろう、桑の木の根本付近に、大きなうろがあった。
「……」
男は無言でしゃがむと、うろと妻の腕に抱かれている赤ん坊とを、交互に見やった。
――このうろに入ったまま、あの長雨の最中、川を流されてきたというのか、この赤ん坊は。
神木であろう木に入れられて、濁流を長々と流されてきた、赤ん坊。
と、なれば、考えられることは、一つしかない。
生贄
だったのだろうか。
――いや、それ以外に考えられぬ。
男は立ち上がった。
見た所、赤ん坊は生まれたばかりのようだ。
長雨に晒され、且つ泥水に縦横無尽に揺さぶられていながら生き抜いてきた赤ん坊は、まるで泥のように色が黒く、貧相な体つきをしていた。
「どうする気だ」
男の問いに、妻は間髪入れずに答えた。
「うちの子にするのよ」
妻は既に、慈愛に満ちた母親の目をしていた。
どうももう、あれやこれやと赤ん坊との生活に夢を膨らませているらしい。
いそいそと上衣を脱ぐと赤ん坊をくるんでやり、ちちちちち、と舌で音を出してあやしだす始末である。
――阿呆め。
くらくらと目眩がしてきた。
男と妻との間には、幾人か子があったが、成人した子はいない。
すなわち、成した子の数がそのまま、失った子の数なのである。
つまり夫婦は今まで、二人きりの生活が長く続いている状態であり、老いるままにともに死ねば、夫婦の全ては終わってしまう。そんな生活状況だった。
――いくら寂しく侘しいと言えど、仮にも生贄であった子を育てようとは。
生贄は、神への供物であるのと同時に、捧げられた時点で神域の住人でもある。
つまり、この赤ん坊はもう人の子ではない。
桑の木から生まれた人外、化生であるのだ。
化生のものが、人の世で生きられるなど、到底思えない。
――育つものか。
妻の腕の中の赤ん坊は力なく泣き、そして虚空に小さな手を伸ばした。
母と、そして乳を求めているのだろうか。
――乳、か。
そういえば、長雨が上がってから数日経つ。
そもそも、雨は数日降り続いていた。
赤ん坊は乳を飲まずに、どうやって生き延びてきたのであろうか。
――やはり、化生だな。
男は身構えた。同時に、哀れに思った。
そんな男の思惑をよそに、妻は慣れた手つきで赤ん坊をあやし続けている。
「おお、よし、よし。あら、ご機嫌さんね、なんて良い子なのかしらねえ」
その時、実に上手い具合に、赤ん坊は、かすかな笑い声をたてた。
「あら、笑った。ほら、ねえ、見て、笑ったのよ、私を見て笑ったわ」
妻は、歯を見せて笑っている。呑気さが売りなだけはある。
「うちの初めての息子にしましょうよ、ね?」
本当に、どこまでも妻は明るい。
普段はこの底抜け状態の明るさが魅力の妻なのであるが、今日は痛々しい。空元気としか映らない。
――育つまい。
また、男は思った。
妻も、心のどこかで、そう悟っているはずだ。
この世で生き抜くのが、生き延びるのが、いかに過酷であるか。
且つ、魂を挫けさせる事の連続であるか。
嫌というほど知っている。
男と妻は育てあげた子と同じ数だけ子を失っているのは先にものべた。その度に狂乱する妻と共に泣き伏した日々を忘れるなど、出来ようはずもないのだ。
それは何も、男たち夫婦に限った話しではない。
多くの者は夫婦のように、ようよう子を得たとしても、成人どころか言葉を発するようになる前に亡くす経験を得ている。それも、育つ数より失う機会の方が格段に多い。
それが、この世で親になるという事だ。
そんな男の胸の内を知ってか知らずか、妻は頑なに赤ん坊を離そうとしなかった。
逆に強く抱きしめ、頬ずりまでし始める始末である。
「育てるわ、この子を」
男は溜め息をついた。
こうなると、妻は梃子でも動かなくなる。
呑気なくせに、変な所で強情なのである。
結局、折れるのはいつも男であり、此度もまた、繰り返しの一つとして話しの種になるのだと諦めるしかなかった。
「連れて行っても良い。が、泣くでないぞ」
それは、突然に、しかし、遅かれ早かれ確実に訪れるであろう、赤ん坊との永遠の別れを覚悟しておけよ、と暗に示す言葉であった。
男の言葉を受け、勝利を確信した妻は満面の笑みとなった。赤ん坊の頬といわず額といわず、口付けしていく。
「良い子ね。きっと、もっともっと、良い子になるわ」
その時になって、やっと赤ん坊は、腹が減ったぞどうにかしろ、と言わんばかりに大きな泣き声を上げたのだった。
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