蒼穹の旅人
ちはや
第1話 その1
一
いつの間にか濃霧となっていた。
さながら母乳のように、濃密な霧であった。
口を開ければ、甘さすら感じられそうである。
叩きつけるような雨なのに霧が生まれるという不思議に、だが慄く事もなく、女はひたすらに走っていた。
雨は止まず、霧は晴れず、雷すら轟いている。
異様な光景である。
女はただ、一心不乱に走り続ける。
まるで走り比べをするかのように、背後から土砂まみれの濁流が迫ってきていた。
轟きと共に迫る濁流は、牙をむく獣のように女めがけて走ってくる。
捕まれば、腕に抱く吾が子は、あっという間に獣の腑の住人となってしまう、と女は戦慄する。
そう、女は母でもあった。
させるものかと、女は必死で駆け続ける。
目からは涙が、鼻からは汁が、口からは涎が流れ出る。
はたして、女の顔面を濡らし汚しているのは、頬を叩く雨粒であるのか。
或いは、それら全ての所業であるのか。
女にも誰にも分からない。
加えて、女の股からは血が流れ出ていた。
月に一度、女に巡り訪れる血のせいではない。よく見れば、胎盤か臍帯と覚しきものが、ぶら下がっている。
女は、子を産んだ直後だったのである。
出産の後、身体を労る暇すら与えられずに女は逃走しているのだ。
濡れそぼった体は、温もりをすっかり奪い取られて青白くなっている。寒気をもよおしている筈であるのに、女の口内は炎のように滾り、喉は焼けて枯れ、ひりついていた。
口の中の血の臭気と味を嗅ぎつけているのであろうか。
濁流は脇目も振らず、母子を目指している。
「あっ」
不意に、女の足が止まった。
人影が見えたような気がしたのだ。
いや違う。
気のせいなどでなかった。
「あれは」
背格好からすると、まだ幼女のようであった。
だが、こちら側を認識している気配があった。その証拠に、道を指し示すように腕を上げていた。
こちらに来い、と言うかのように。
女は躊躇した。
信じて良いのであろうか。
おのれはどうなっても良い。
けれど、我が子だけは何としても助けねばならない。
迷うのは、女が母として我が子を愛している証であり、愛情の深さでもあった。
更に言えば、今、この村で生き延びているのは、おのれと我が子のみという絶望感からでもあった。
ほんの数刻前まで、女は産屋で産みの苦しみに耐えていた。
痛みの中、まるで夢うつつに放り出されているかのような錯覚に陥っていた。
女の村では、産屋に入る事が出来るのは妊婦のみである。
一人で母になる。
それが、全ての女に与えられる試練であった。
我が子に産湯を与えるための湯を沸かしている竈が、ぼんやり見えた。
その竈の縁に山と積み上がっているものがあった。
蛙である。
蛙は不気味な見た目と裏腹に、多産の象徴であり、春と秋、二つの季節を告げる月の運行を司るとされ、神聖な生き物として扱われていた。
その蛙が、鈴なりになっている。
無数の蛙の目玉が、女と女の腹を見ていた。
貴方たちは、子に何を託そうとしているのだ――
女の夢とうつつの端境は、そこで不気味に途絶えた。
「あっ」
叫び、目を見開く。
粘つく嫌な予感を口内に保ちながら、強烈な陣痛とともに女は我が子を産み落とした。
安堵の吐息を落とし、子の頬に手を当てた瞬間、蛙の鳴き声が部屋中に響き渡った。
まるで彼女を急かすようであった。
行け
行け
行くのだ
蛙の大合唱は、まるでそう訴えているかのようであった。
反射的に、女は血みどろの我が子を抱き上げていた。
激しく音を立てて滾っている湯を残して、家を飛び出す。
直後に、爆音が生じた。
振り返ると、女と我が子の為に設えられた産屋を濁流の牙が噛み砕いていた。
そうしてここまで、走り続けてきた。
全ては、生きるために。
「行こう」
女は決意した。
不思議な力も、一度きりであれば偶然の一言で片付けられよう。
しかし不思議は二度も重ねて起きた。
これは最早、大いなる神秘が意思をもって働きかけている、と女は受け取った。
幼女が立っていた場所を目指して、女は再び走り出した。
口からは、呻き声が漏れ出た。
それでも、女は駆ける。
幼女が指さした先を信じて駆け続ける。
「おお――」
雨が小降りとなり、知らぬ間に霧が晴れだしたか、と認めた途端、女の眼前に桑畑が飛び込んできたのだ。
「神よ」
声が踊る。
神の加護だ。
女は顔を歪めた。
胸に抱く、生まれたばかりの我が子を守らんとする必死の念が、天に通じたのだと信じた。
あの幼女は神霊に相違ない、天が使わして下さったに違いない、と女は心の中で感謝の言葉を捧げた。
母の喜びを敏感に察したのだろうか、嬰児が初めて、身を捩ってむずがった。
「おお、よし、よし」
小さな手を伸ばして、後れ毛を掴もうとする吾が子をあやしながら、女は桑畑の中でも、最も大きく、最も立派な一本の古木を目指した。
助かる光明が見えたからと言えど、気は抜けない。
何度も何度も、踵に波の牙をたてられながらも、女は遂に古木の前に立った。
いつから、この桑の木が存在してるのか。
村の最古老の媼ですら、知らない。
それほどの長き年月、星辰と共に村を見つめ続けていた桑の古木は、神木として崇められていた。
女は桑の木の根本を一周すると、這いつくばった。
村で生まれ育った女は知っていた。
この古木の足下には、大きなうろがある。そう丁度、嬰児がすっぽりと収まる籠と同じくらいのうろだ。
背中に強いしぶきを感じた。
「神よ、どうか、この子をお守り下さい」
もう、一刻の猶予もない。
女は、我が子をうろに押し込んだむと、木の枝に手をかけ、ぶちぶちと引きちぎった。そして、子の体を葉で包む。せめて、少しでも冷えぬようにという母の心遣いであった。
ふと、我が子が見上げているのに気が付いた。
瞬きすらしない一瞬であるが、しかし永遠に思えた。
我が子はこれが、今生の別れであると悟っているか、小さな手を、握り、開き、握りと繰り返し、そして開き、女に向かって伸ばしてくる。
その時、唐突に女は思い出していた。
まだ我が子に、初めての乳すらふくませてやっていない事を。
名すら与えてやっていない事を。
母として、我が子に何一つ与えてやれぬとは。
命を救ってやる事しか出来ぬとは。
「ああ」
我が子の手を握ろうとした女の体を、濁流の牙が遂に捕らえた。
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