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 「それで、いいと思っていたんです。これ以上、誰かを失うつらさには耐えられないと思っていたので。だから、もうずっと、ひとりでいいと思っていました。」

 でも、と、慎一郎さんがため息みたいに囁いた。

 「でも、この前の朝、目が覚めたらあなたがいなかったとき、あなたを失うかもしれないと思ったら、怖くなりました。」

 俺はまた、ただ頷いた。それ以上どんなリアクションをとればいいのかが分からなくて。俺がとった浅はかな行動が、慎一郎さんをこんなにも追いつめているなんて、思ってもいなかった。ごめんなさい、と、抱きしめた肩に向かって言葉を落とすと、慎一郎さんは何度も首を左右に振った。

 「俺が、悪かったから。……翔真さんから、聞きました。俺が既婚者だと思って、随分苦しかったでしょう。そんなトラウマがあると分かっていたら、俺は……、」

 その先の言葉を慎一郎さんは紡がなかったし、俺も求めなかった。もし、俺の両親に関するトラウマじみた記憶を知っていたとしても、慎一郎さんが指輪を外していたかは分からないと思った。それは多分、慎一郎さんも同じだろう。だって、今も、慎一郎さんの左手には、銀色の指輪が鈍く光っている。外せなかった、指輪。忘れられなかった、過去。俺にはそれを、責められない。

 「もし……、」

 考え考え、なんとか言葉を引っ張り出す。自分でも分かるくらい、思いつめているくせに頼りない声。

 「もし、それでもいいって言ったら、俺といてくれますか。」

 結局、俺が慎一郎さんに望むことは、それだけだった。俺といてほしい。忘れられない記憶があったとしても。

 慎一郎さんは、しばらく無言で目を伏せいていた。このひとは多分、俺に申し訳ないとか、そんなことを考えているんだろうな、と、視線の揺れで伝わってきた。

 なにか言わなくては、と思う。慎一郎さんの罪悪感を振り払うような言葉を。そうしなくては、俺はこの人を失ってしまう。

 「指輪を外してほしいとは、思いません。奥様との記憶があったから、慎一郎さんは夜中にこの店を開けているんでしょう? だとしたら、その記憶がなかったら、俺はあなたと知り合うことすらできなかったから。……だから、」

 だから、と、繰り返してその先の言葉が出てこない。

 「だから……、」

 馬鹿みたいにその言葉を繰り返す俺に、慎一郎さんがふと視線を向けた。躊躇いに覆われた目をしていた。その躊躇いを取り去りたいのだ。それなのに、上手い言葉が見つからない。

 「……悪いこと、してる気分になるね。」

 いつかの夜と、同じ言葉だった。俺は、一気にあの夜の記憶を甦らせて、めまいに近いような感覚すら味わった。そんな俺を見て、慎一郎さんは微かに笑った。いつもの慎一郎さんの顔だった。俺の腕をそっと離して立ち上がり、慎一郎さんは真っ直ぐな目で俺を見返した。

 「珈琲を淹れ直すよ。それを飲んだら、今日も上に上がってくれる?」

 俺は、どうしようもないほど胸がいっぱいになって、ただ頷くことしかできなかった。

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美里 @minori070830

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