最終話 風になる
「こんなことまで話したらセリオスに怒られちゃうわね」
ヴェラは口元に手を当てて、くすりと笑った。しわの寄った顔と指が触れ合うと、追想から現実に引き戻される。
「どうして怒られるんですか?」
ノイエが小首をかしげる。ノイエはルシアの次の次の補佐神官だ。
「だって、裸になった話なんて恥ずかしいじゃないの」
「怒りませんよ。むしろ喜ぶでしょうね」
アルトルが柔らかく笑う。アルトルはセリオスの次の補佐神官だ。
「そう?」
「そうですとも。この場にいたなら、得意げな顔をしておることでしょうな」
口を開いたのは老いた聖騎士だ。
回廊のベンチで話し込むうちに、当番でない聖騎士も集まっていた。ヴェラたちが座るベンチの前に敷物を広げて座り、持ち寄った食べ物や飲み物を味わい、小さな宴を開いているみたいだ。
セリオスは〈聖女の庭園〉で最期を迎えた。ヴェラがその死を見届けてから、もう十数年になる。
通例に従えば引退後はどこか別の場所で余生を送るのだが、例外として庭園に残る許可が下りた。このような先例はいくつかあるらしい。
それがかなったのは、セリオスが年老いても健やかでいたからだ。寝たきりにでもなっていたなら、療養院に行くしかなかっただろう。
しかし、立場が変わったことで大層もどかしい思いをしたようだ。
「セリオスがいたから、アルトルに窮屈な思いをさせたのよね。あたしの願いに付き合ってくれて、ありがとう」
「いいえ。お二人の睦まじい姿を見ると、わたくしも幸せな気分になれたのですよ」
「そう? アルトルも次の聖女といい仲になれるといいわね」
「わたくしのような年寄りが相手にされるとお思いですか?」
「あら、あたしから見れば、まだまだ若くていい男よ。落ち着きがあって、頼りがいがあって・・・・・・」
ヴェラがよいと思うところを並べると、アルトルは照れくさげに顔を両手で隠した。
「おやめください。そのようなことを言われると、夢でセリオスに叱責されそうです」
「そうね。ずいぶんと口うるさかったもの。あたしがどれだけ叱ったことか」
「叱られることすら喜んでいましたね」
「セリオスったら本当に困った人なんだから。でも、そこがかわいいのよね」
回廊に笑いが湧き上がった。誰もが温かな笑みを浮かべている。
「ねえ、あたしはちゃんと聖女をやれたと思う?」
ヴェラは一人一人に視線を巡らした。
「はい」「もちろんです」と皆が口々に返事をする。
ヴェラが少女だった時の〈神の嘆き〉以来、同じことは起きていない。
「これからもずっとずっと穏やかな日々が続いてほしいわ」
胸がいっぱいになって、ヴェラの目から涙がこぼれた。聖女として無事に務めてこられた安心感や、この先への不安感が入り交じる。
「ヴェラさま、大好きです」
ノイエが半泣きになりながらヴェラに抱きついた。
「あたしもノイエが大好きよ」と背中をそっとなでる。
庭園の顔触れが変わっても、どういう訳かヴェラは皆から慕われた。もしかすると、聖女だから好意的に扱われてきただけなのかもしれない。
理由がどうであれ、温情を込めて接してくれたことは確かであり、身に染みてありがたく思う。
「離れなさい。聖女にお仕えする者がそのようなことではいけませんよ」
アルトルがノイエをたしなめる。
ヴェラは幸せを噛みしめるように「ふう」と息を吐き、アルトルの背中にも手を添えた。
「アルトルみたいな冷静さも必要だけど、ノイエみたいな素直さも必要よ」
そして、聖騎士たちの強みもそれぞれに挙げていった。
「一緒に笑ったり、一緒に泣いたりして、聖女は孤独じゃないんだと教えてあげてほしいわ。みんなが助けてくれたから、あたしは聖女をやってこれたのよ。どんなに感謝したって足りないわ。ありがとう」
この感謝の言葉は、ここにいる者だけではなく、これまでにヴェラを支えてきた全ての人に向けられていた。
「それじゃあ、また明日ね」
ヴェラは見送る皆に声をかけ、聖域に帰った。
聖域はとても静かで、そよそよと風の音が聞こえる。
家に入ると、寝台でセレーラが眠っている。初めて見た時から変わらない姿で、すやすやと寝息を立てている。
いつもと同じように翌朝のポタージュを仕込んで、ヴェラも寝台に横になった。
なんだか息が苦しくて、とても体が重く感じる。夢中になって話したものだから、疲れてしまったのかもしれない。
眠ればどうにかなるだろうと思い、目を閉じてゆっくりと呼吸を続ける。
「ねえ、ヴェラ」
名を呼ばれて目を開けた。上体を起こしたセレーラが、輝く銀色のつぶらな瞳でヴェラを見ている。
セレーラに話しかけようとするが、うまく声が出せない。喉が鳴るだけで言葉の形にならない。
「今までありがとう」
セレーラがぽろぽろと涙を流している。久しく一緒に暮らしてきたというのに、泣くのを見るのは初めてだ。慰めたくても、体が動かない。
「おいしい食べ物を、ありがとう。一緒にいてくれて、ありがとう」
泣きじゃくりながら話すから、それ以上はうまく聞き取れなかった。
ひとしきり泣いたセレーラは、温かく細い腕でヴェラの体を包み込んだ。すると、ふわりと柔らかな風が吹く。
「ゴティソサマ」
それって何なの、と考える間もなくヴェラは風に溶けた。
(了)
ある聖女の物語 紗久間 馨 @sakuma_kaoru
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