第35話 聖女の娘(後)

「ルシアは平民から神官になったのね。すごいわ」

 菓子の材料を混ぜた生地をこねながら、ヴェラは言った。バターと蜂蜜の匂いが厨房に漂い、味を想像するだけで唾液があふれ出る。

「わたしは機会に恵まれたのです。神官になればずっと母の近くにいられると考えて、熱心に学びました。わたしが母に文字を教えるなんてこともありましたね」

 懐かしそうにルシアは笑った。

「でも、どうしてエスタリアに来たの? ここにいていいの?」

「いいのですよ。もうオスタリアに帰ることはありませんし、それは母もわかっていますから」

 ルシアは目を伏せて話を続けた。




 オスター家の傍系子女の中に、本来ならばいるはずのない平民がいる。異質な存在は歓迎されず、ルシアは孤立していた。邪険に扱われることはなかったが、親しくしてくれる者もなかった。

 そんな中、ルシアに好意的な態度を見せる人がいた。ロベルトというルシアより少し年上の男子だ。神官を目指しているわけではなく、神殿にはたまに来るようだった。

 気さくに話しかけるロベルトにルシアは少しずつ心を開いていった。その懇意な間柄を妬む女子がルシアに悪言を吐いた。その時、ロベルトがオスター家の直系だと知った。

 公爵家直系と平民が親しくするなど分不相応なことだ。しかし、ロベルトから近づいてくるのだから相手にしない方が無礼というものだ。それに、ルシアにとってロベルトは数少ない味方で、心の拠り所だった。

 最初は好奇心や哀れみでルシアに近づいたのかもしれないが、時がすぎてもロベルトの厚意は変わらなかった。いつの間にかルシアはロベルトに恋情を抱いていた。


 十八歳になったルシアは下級神官として神殿で働いていた。ロベルトは魅力的な大人になり、会うたびにルシアの胸をときめかせた。ロベルトから「妻になってほしい」と言われた時には歓喜した。

 直系男子の妻は一般的な妻とは異なる立場にある。自分以外にも妻がいるし、できるだけ多くの子を生まなければならない。既にロベルトにも複数の妻と子がいた。それでもルシアはロベルトの妻になることを望んだ。「妻」という響きを心地よく感じてしまうほどに思い焦がれていたのだ。

 聖女であるリュセも公爵家の事情はもちろん知っていて、ルシアが妻になることに首肯しかねていた。しかし、最後にはルシアの思いを尊重した。ルシアの行く末を憂慮するリュセは面会の継続を約束させた。


 ロベルトの妻たちが暮らす屋敷の一室がルシアに与えられた。日々、どこかから男女の交わる音が聞こえてくる。直系のそれは儀式的行為だと頭ではわかっているはずなのに、ロベルトと他の妻が体を重ねる音を聞くと胸が苦しくなった。

 待てど暮らせどロベルトがルシアを抱く気配はない。部屋を訪れては会話をするだけで、妻の役目を与えてはもらえなかった。

「妻として務めを果たせないのなら、神殿に戻らせてください」

 ルシアがそう切り出すと、ようやくロベルトと肌を合わせることになった。幾度かの後、ルシアは小さな命を宿した。


 ルシアは生まれたばかりの子をわずかに抱いただけで、すぐに引き離された。周囲が慌ただしく動いていたが、何が起きているのか尋ねようにも体に力が入らなかった。

 生まれた子は短命で、ルシアの知らないうちに埋葬まで終わっていた。直系の妻の現実をまざまざと思い知らされた。

 リュセと面会したルシアは恨みつらみを言い立てた。すると、リュセはオスタリア地域から離れてはどうかと提案した。


 ルシアには思いをはせる場所があった。東部エスタリア地域だ。その地を治めるエスター家にルシアの大切な友人がいる。

 妻になったばかりの頃、ロベルトとともにエスター家の屋敷を訪ねたことがある。ミリアというエスター家の直系女子がルシアを招待したのだ。

「聖女の娘に会ってみたかったの」とミリアは花が咲くように笑った。

 ロベルトと同様に気さくな人柄で、貴族らしくない貴族だ。ルシアと同じ年頃のミリアは夫を迎えなければならず、もう長旅はできないだろうと嘆息した。

 ミリアは秋祭の来賓としてオスタリア地域を訪れていた。滞在期間はそう長くない。しかし、気の合う二人は旧友かというほど親しい仲になった。ミリアがエスタリア地域に帰った後もロベルトを介して交流は続いた。

 ルシアが身ごもった後、ミリアも子を宿したと伝え聞いていた。


 リュセの働きかけで直系の妻から解かれたルシアは、エスタリア地域の公都へと急いだ。

 公都で下働きをしていればミリアと子の話も聞こえてくるだろう。母子ともに無事だとわかればよかった。それなのに、ロベルトが手を回していたらしく、ルシアはミリアの客人として迎えられた。

 愁傷を抱えるルシアにミリアは寄り添い、ルシアも出産間近のミリアに付き添った。

 ミリアはルシアを乳母に指名した。直系の子は五歳まで乳母に育てられ、その後は家門の中軸を担うための教育を受ける。よく知らない傍系ではなくルシアに子を育ててほしいとミリアは望んだ。


「えっと、直系の人ってことは、ミリアさんも子どもも儀式にいたのよね?」

「・・・・・・いいえ。ミリアさまは出産した後に亡くなりました」

 震える声でルシアは答えた。

「子どもは元気に育ちましたよ。儀式を見て胸を熱くしたようです」

 ルシアの悲しげな笑みに、ヴェラは胸が締め付けられた。


 ルシアは離れがたくなるほどミリアの子を慈しんだ。亡くなったミリアの分も、失った自身の子の分も、愛情を注いだ。

 乳母の役目を終えると、ルシアに神殿から声がかかった。セレーラの聖女の補佐神官に就かないか、と。

 ルシアが候補に上がったのは〈聖女の庭園〉の内情を知っていたためだ。全ては知らずとも、ルシアほど多く訪問した外部の人間はいないだろう。さらに神殿での経験と知識を持ち、申し分のない人材だった。

 行き所がなかったルシアは快諾し、今に至る。




 竈で焼ける菓子が甘く香ばしい匂いを放つ。とても幸せな香りに包まれているのに、ヴェラの心には重い雲が立ち込める。

「ごめんなさい」とヴェラはつぶやくように言った。

「どうしたのですか?」

 ルシアは柔らかい声で尋ねる。ヴェラの目に涙がにじんだ。

「つらい話をさせて、ごめんなさい」

 苦しい目にあってきたのはヴェラだけではない。ルシアも他の聖女も、きっとセリオスや聖騎士たちにも穏やかでない時があったはずだ。皆の過去のことなど考えもせず「自分ばかりが」と思ったことを恥じた。

 ルシアの腕がヴェラを優しく包み込む。

「謝らないでください。わたしが話したくて話したのです。悲しいこともありましたが、それらがなければヴェラさまに会うことはできませんでした。今、わたしはとても幸せなのですよ」

 子どもを寝かしつけるようにルシアはヴェラの背中をとんとんと叩く。

「ヴェラさまにも幸せでいてほしいのです。ヴェラさまの悲しみも怒りも、気が済むまでぶつけてください。全て受け止めますから。そして、たくさん笑ってくださいね」

 すぐ近くで聞こえるルシアの柔らかな声が、ヴェラの心に染みていく。


 ヴェラは鼻をすすって、顔を上げた。

「ルシアにもたくさん笑ってほしいわ。セリオスと聖騎士のみんなと、セレーラもね」

「ありがとうございます。そのお気持ちをとても嬉しく思いますよ」

「じゃあ、まずは焼き菓子をみんなに食べてもらわなくちゃ。こんなにいい匂いがするんだもの、おいしいに決まってるわ」

「そうですね。みんな笑顔になりますよ」

 ヴェラとルシアの楽しそうな声が厨房に響く。それはいつかのパン焼き小屋の光景のようだった。

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