少し上擦った声で先輩は言う。

「兎も角だ、大葉くん。カレーと向き合えていないきみにはこれが合うことだろう」

　言うが早いか先輩はカレーのお皿の上に拳を出し、上下に細かく揺らし始める。なにと思って見てみると、ご飯の上に黒い粒々が振りまかれていた。

　クン、と嗅いでみる。あれ、この香り。

「まあまあ。いいからいいから、ほら」

　食べてごらんと手で促される。

　粒のかかったご飯をスプーンで掬い、少しカレーもつけてから口へと運ぶ。すぐにビリッとした刺激がやってきた。うん、やっぱり思った通り、よく知っている味だ。

「これって、胡椒ですか？」

「ほう、よく分かったね。正解だ。ん、どうした大葉くん。意外そうじゃないか」

　新鮮だった。

　何も私だって胡椒を知らないというわけではない。それなりに口にしてきている。でもご飯の上に直接胡椒を振りかける真似はしたことがない。初めての体験だった。

　ダイレクトに胡椒が舌と鼻を刺激してくる。カレーに混ぜるのとはまた別物のようだ。気付けばもうひと口と頬張っていた。

「酔った体には丁度良かっただろう」

　ふふふと得意そうに腕を組む。

「消化機能向上。食欲増進に血行促進と。あとはそうだな。刺激的な辛みで、酔っていた目も覚めてきたのではないか？」

　胡椒にそんなにたくさんの効能があるとは知らなかった。ただの味付け、香り付けではなかったのか。不思議と食が進んだ。辛いのが苦手な私だけど、酔った舌には程よい辛みだった。喉の奥まで辛さはやってこない。

　黒い粒を掬う。

　今まで意識した事なんてなかった。胡椒のビンを見ると家にあった物だから、珍しい物でもなんでもない。百円かそこらで買える、何処の家庭にもある普通の香辛料。

「胡椒って凄かったんですね」

「侮るなかれ。胡椒はな、それだけじゃあない。その香りと辛みは、怒りや不安を和らげる効果を持つ。幸せホルモンが増え、落ち込んだ気分を上げると言われている」

　目が丸くなる。そんなになんだと思わず唸った。そして思った。それで先輩はと。励まそうとしてくれているのだろうか。

「胡椒一つ取ってもそうなんだから。スパイスの集合体であるカレーを食べない道理はないだろう。完全食に近しい。実際に完全栄養食として売り出される程なのだよ」

　悠々とカレーの偉大さを語る。どうやら私の思い過ごしだったようだ。ただカレーの話をしたかっただけなのだろう。その証拠に先輩は、胡椒のビンを手に取って指で弄りながら訊いてくる。

「知ってるかい大葉くん。胡椒はその昔、金や銀と同価値とされていた逸話を」

「なんとなくは。習った気がします」

　スプーンを動かし、カレーを食べる。胡椒のおかげで食欲が湧いたのか。それとも蘊蓄話から逃がれようとしたのか。ひとの気持ちを露知らず、蘊蓄が襲ってくる。

「そして胡椒は広く普及されるようになった。もはや軽視されている気もするがな。実際に、給金や税金の代わりとして使われていた事だってあったそうだよ」

　ふふふと笑っている。

「今じゃ、とても考えられない話だよな。俺の知り合いにボーナスをスイカで貰ったという人がいるにはいるが。まあ、それも稀な話だろう」

　肩を揺らしながら合わない視線を向けてくるので、愛想笑った。カレーがすすむ。減っていくカレーを見守り続けるその視線は、我が子を見守るかの如く思えた。

　愛おしそうにコトリと胡椒を置く。

「まったく、胡椒の商人には感謝しかないよ」

「胡椒の商人ですか」

　またおかしな事を言い出したと思い、スプーンが止まる。うっかりと止めてしまった。カレーオタクはその隙を見逃さない。

「そう、彼ら商人はね。胡椒を、『天国の種子』と称してその価値を維持しようと努めていたのだ。が、十二世紀までは通貨の価値があったはずの胡椒も、十三世紀頃にはその価値が崩落。ショウガよりも安くなってしまったらしい」

　油断したら始まっていた。思わずくらっとした所でニコリとほほ笑まれる。

「それが今や百円足らず。胡椒の商人たちのことを考えるとな、俺も頭があがらない。彼らは今、どんな気持ちなんだろうな」