続・飛んで火に入る過去の虫
リビングに通された私は、住吉くんのほうに一歩進み出て、百貨店で用意しておいた菓子折りを手渡した。
とても他人行儀で形式的な、しかし、やらなければこちらの気が休まらない儀式。
その紙袋は「どうもすみませんです」とペコペコされながらキッチンに下げられ、代わりに温かいお茶が出される。
三名全員がダイニングテーブルに着席したところで、未冬の夫である彼は、おずおずと白い封筒を差し出してきた。
「……お話の前に、こちらをお返ししておきますね」
その封筒は、そこそこの厚みが見てとれた。確認しなくても、内容の察しはつく。これこそ、私が過日にイタリアンバルでねじ込んでしまった例の十万円なのだろう。
私はそれを少しだけ手元に引き寄せてから、対面の夫婦に頭を下げた。
「先日は、本当に申し訳ございませんでした」
このお金は、私が受け取らなくてはならないものなんだと思う。
正直な心情としては『返さなくていいよ』とムキになって言いたいところだけど、きっとこの彼はそれを許さないし、仮に許されたとて、「金銭」という生々しい問題は、しこりのように未来に残り続けてしまう。
ここはあまりにも静かで、落ち着かなかった。外から、しとしとと雨の音が聞こえる。
夫の隣に座る未冬は、『おとなしくしていて』と言い付けられた幼子のように、そわそわと過ごしている。
私は息をついて未冬から視線を外し、夫のほうを向いた。
「私と未冬さんの過去の関係について、未冬さんからお聞きになったそうですが」
彼は、緊張と戸惑いを携えた顔で、「ええ」と頷く。
「そのことなんですが……ええと、飯田さんが未冬さんと、つ、付き合っていたっていうのは、本当なんでしょうか」
言ってから、住吉周真は慌てて眼鏡のつるをいじった。これは失言だったかも、と気を揉んでいる──おおかた、そんなところだろう。
やはりデリケートな話題なのだ。彼自身、どう取り扱ってよいものか測りかねている。
きっと未冬から話を聞いたときも、こんなふうに困った顔でオドオドしていたのだろうと容易に思わされた。
「信用していただくのも難しいでしょうが、私は今日を最後に身を引いて、あなたがたには今後一切ご迷惑をお掛けしないつもりでいます」私は、まっすぐ住吉くんのほうだけを見て言った。「今日うかがったのは、それをお伝えすることも目的の一つでした」
それを聞いた彼は、緊張しがちに何度かまばたきを繰り返し、慎重な様子で口を開く。
「僕が言うことじゃないのかもしれませんが……」話しながら目が泳ぎ、そして最終的にこちらで視線が止まった。「寂しくないですか? そんなの……」
「住吉さん、あなたの立場であれば、私の顔を見るのもお嫌でしょうに」
するとやはり、彼はびくっと口を引き結んで挙動不審に目を泳がせる。
「僕はその……」
「その?」
「や、やっぱり、駄目ですよね。飯田さんに、未冬さんと今後も仲良くしてもらえたらな、って……思ってしまうのは」
お人好し、で片付けてよいものだろうか。きれいごと……警戒心のかけらもない。
呆れてしまうと同時に、こういう人だからこそ未冬の夫たり得るのかな、と妙に納得してしまう自分もいた。
「……私が女であるせいで、ややこしく思われているんでしょうね。無理もないですが」
図星だったのだろうか。住吉周真は気まずそうに目線を下げた。
「でも、私なんかに情けをかけるべきじゃない。私は未冬の元恋人である前に幼馴染だったはずなのに、あなたたちの披露宴のときに祝電すら送らなかった。最近だって、あなたに現金を叩きつけて、八つ当たりしたばかりじゃないですか。害しかないでしょ? 『金輪際、俺の家族に近付くな』、くらい言ってくれないと」
彼がそんな性格でないことは承知の上だが、それが本心だった。
しかし、彼はこちらを窺うような、浮かない顔をしたままだ。
「でも……むしろ未冬さんのほうが、飯田さんと仲良くしたがっているように思われまして……」
「はあ」
相槌を打ってから、どう続けるべきか迷ってしまった。
夫にまでそんなこと言わせて──未冬を軽く睨みつける。未冬はというと、先程と変わらず口をつぐんで、ちょこんと小さく座り続けるのみだ。何か弁明するつもりもないらしい。私はハアと小さく息を吐いた。
「私のような人間まで、大切な友人として扱ってくれるほど、奥様はお優しい性格のようで」
住吉くんに向き直り、あえて『友人』を強調して告げる。
「けれど、ごめんなさい。私は、あなたがたの優しさを受け止められるほどの器がありません。私だけが、みみっちくて子供じみてる。そのことに耐えていける自信がないです」
「飯田さん……」
住吉くんはぽつりと呟いた。何かを言いかけたようにも思ったが、やがて表情を引き締めてゆっくりと頷く。
「……わかりました。ですが、最後に未冬さんとふたりでお話してあげてください。私は一旦、席を外しますので」
「ふたりで?」
ここでようやく、未冬がこれまで何も口を挟まず大人しく座っていた理由に思い当たった。夫婦のシナリオでは、元からこのような流れにする予定だったのだろう。
「ごめんね。すーくん、ありがとうね」
静かに席を立つ夫に、未冬が掠れた声をかける。夫は小さく首を振ってから、私に向かって会釈をした。
「じゃあ……よろしくお願いします」
これは別れの儀式の再履修──そんな気がしていた。未冬と向かい合いながら、もう一度別れを宣言するという、遅ればせながらの卒業試験。
私の胸には今、『最後』という単語が重たく沈み込んでいる。
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