とうとう知ってしまった男
航を抱き上げて寝室でゆらゆらしていたら、安心したのかやがて泣き止んでくれた。よかった。ペカチュウさんとの触れ合いを中断させられたあげく、いきなりベッドに放置され、「寝てくれ」とお祈りされたんじゃ、さすがにうちの航さんでもお怒りになられますよな。
悪かった、ごめんよと背中を撫で、しばらく赤ちゃん特有のミルクの香りと小さな体温に触れる。
そうしてやっと眠った我が子を、息を止めて慎重にベッドへ置く。今度は大丈夫……ぽい。
音を立てないよう部屋を出て、軽く肩を回した。
ふと顔を上げてダイニングテーブルを見やれば、そこには二膳分の食事。その傍らに、心配そうな面持ちの妻が佇んでいる。
「……お待たせさま。こーくん、なんとか寝てくれたみたい」
未冬さんに笑いかけながら椅子を引く。
こちらはなるべく笑顔を心がけつつ、「わ、美味しそう」と着席した。
しばらく妻の表情をうかがっていると、未冬さんがためらいがちに僕の正面に座ったことを確認したので、「いただきます」と手を合わせる。しかし、いざ味噌汁に口を付けようとしたところで、「あっ」という声に制止されてしまった。
「湯気、立ってないよね。冷めちゃったみたい。ごめんなさい、もう一回あっためてくる」
「いや、そんなことないんじゃない?」
気にせず味噌汁をすする。口の中に流れ込んできた長ねぎをシャクシャクと咀嚼した。ぬめりのある食感。噛むたびに広がる甘みを味わう。
「うん、まだあったかいし、おいしいよ」
けれども、未冬さんは気もそぞろに視線をさまよわせたままだ。
どうしたもんか。
「僕に……」とりあえず口に出してから、その次に繋げる言葉を思案する。僕は口の中のねぎをごくんと飲み込み、お椀を持った手をテーブルの上に下ろした。
「僕になにかできることがあるなら、言ってくれないかな」
未冬さんの瞳がこちらを向いて止まった。まばたきを繰り返す目にじっと見つめられて、ちょっと照れくさい。
「まあ僕……頼りないし、どんくさいし、できることも限られてはいるのですが」
すると未冬さんははっきり首を横に振った。
「あたし、すーくんが頼りない人だなんて思ってないよ。こーくんのパパがすーくんで本当に良かったなって、いつも思ってる」
「それじゃあ……」
「だめなのは、あたしのほう」
再び、その表情が翳る。
「茉侑子とね、連絡取れたの」
未冬さんは言う。やっぱりか。と僕は思った。やっぱり飯田さん関連だったか。
「謝りに行かせてほしいっていうお願いは、断られちゃった。もう会って話す気はないって……」
「そっか。彼女、そうまでして僕を遠ざけたいのか」
ホントに嫌われてるなぁと、やるせない気持ちになってしまう。
いや、僕のことはいい。でも、未冬さんが心を痛めることに対して、飯田さんはどう考えているんだろうかと疑問に思う。
確かに、当日の僕ら夫婦に非がなかったとは思わない。それでも、未冬さんが飯田さんを大切に思う気持ちは本物だったはずだ。
思い浮かぶのは、嬉しそうに誕生日プレゼントを用意していた妻の姿。
ていねいにつづった手紙だって、レターセットを選ぶところから真剣そのもので。僕には『女子どうしの文化だから』とか言って、手書きの長い手紙なんてくれたことないのに。
それらを受け取っておいて、謝罪の申し出すら拒否するだなんて。
どんなに僕の顔を見たくないからって、その感情を親友の心より優先するものか? って、正直、飯田さんには失望したっていうか……
「違うの。あたしなの」
「違う……?」
「あたしに、もう二度と会わないって」
「えっ、どうしてそんな?」
「そもそも、あたしがもう、茉侑子にすーくんを会わせるのがいやなの」
その声に苛立ちが混ざる。
僕はというと、話の方向性を見失ってしまった。
「……あれ? でも、もともと未冬さんが、僕に飯田さんのところに行ってほしいって……」
「それは、そうだったけど。……でも茉侑子、あたしのことを怒ってくれたら良かったのに、何も知らないすーくんにひどいことするんだもん。もうすーくんを傷つけてほしくないよ。だから、茉侑子に謝るのは、最初からあたし一人で行くつもりで……」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
僕が未冬さんに提案したのは、夫婦揃っての謝罪だったはずだ。
飯田さんも一時的にカッとなっただけのようだったし、全面的にこちらの非を認めて、ねじ込まれてしまった十万円は丁重にお返しして、今後も我が家と正常なお付き合いを続けていただけるようお願いする。それで円満に解決できるものと思っていた。
しかしそれは、僕が勝手に描いていただけの雑なシナリオだったってことなのか。
何も知らない僕の…………
「……飯田さんに一人で会いに行きたいってこと、なんで先にこっちに相談してくれなかったの」
「これ以上すーくんを巻き込まずに済むなら、そのほうがいいかなって……」
「は……? いや、巻き込んでよ。俺一人で馬鹿みたいじゃんよ……。言ったでしょ、なんでも一人で決めないで相談してって、あの場で……」
しかし、そうされない理由が自分にあることに思い当たってしまい、途中で言葉が止まった。代わりに突如として頭に浮かび、そのまま吐き出されてきた、とある疑問。
「……もしかして……僕に何か隠してることとか……あるの?」
それを口に出したとたん、妻の表情がピシッと固まった。それを見た自分の顔までもがこわばるのを感じる。
「しゅうまくん……本当にごめんね。ごめんなさい」
その瞳から、ほろほろと涙が頬を伝う。
しゅうまくん、というのが自分のことだと気がつくまでに、少し間があいてしまった。
「なに、が……?」
「付き合ってたって言っても、女の人どうしだし……別れても、時間が経てば仲良しに戻れると思ってたの。でも、そうは思ってなかったんだね、茉侑子は……」
いったい妻は何を言い始めたんだ。
なにがなんだかさっぱりで、妻の泣き顔を凝視していることしかできない自分。
そして彼女の口から語られたのは、ななめ上からの答え合わせだった。
「実はあたし、すーくんと結婚する前、恋人として茉侑子とお付き合いしていたの」
そのとき僕は──まるでいきなり宇宙に投げ出されたかのような感覚がした。
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