夜風のターン
何をふざけているの、と咄嗟に叫べたていたらどんなに良かったのだろう。けれど、私にはできなかった。弱者が強者に噛み付くという、その権利すら取り上げられてしまったから。
「お兄ちゃんさ〜。散々わたしのこと、奔放とか騒がしいとか、挙げ句の果てには愚妹だなんて言ってくれたけど、兄妹の中で一番の変人は、ダントツでお兄ちゃんなんだからね?」
青川の妹は肩をすくめて呆れるように言う。
それを受ける兄は、ぬいぐるみとトロフィーを膝の上に抱え、いじけたように、しかし逃げることなく座っていた。
その金のトロフィーが何を意味するかは分からない。分からないが、彼の冷徹な完璧超人の仮面が剥がされてしまったことだけは確かだった。
張りつめた空気に水を差す、ともすれば兄を貶める言動。
しかしそれは、親類への信頼と甘えに他ならず──“
なんて間抜けなんだ。
青川丞が? 違う、私が。
冷徹だった青川がめちゃくちゃに追い詰められているように見えて、今この場で浮き彫りにされたのは、私自身の愚かさに他ならなかった。
何も知らずにホイホイとこの場に来てしまった、私自身の。
「それとね、マユさんと喧嘩する気ないって口では言ってたけど、ハタから聞いてたら普通に感じ悪かったと思いまーす」
青川丞は答えない。鬱陶しそうにぬいぐるみの耳をいじる。妹はそれに構わず続けた。
「そんなんじゃ、患者さんにキラわれちゃいますよ、先生?」
「……うっざ」
青川丞が、らしかぬ語調で吐き捨てた。
「お前に心配されなくても、仕事ではちゃんとやってるし」
「だよねぇ。指導医の先生に色々言われながらも毎日頑張ってるんだもんねー、えらすぎー!」
「そういうのいいから」
めちゃめちゃに引っ掻き回された舞台で、知らない家庭の茶番劇を見せ付けられている。
つい先程まで、理不尽に対する鬱憤と、だまされたという被害者意識と、悪辣な内面を見透かされていたことへの羞恥、そして自らの負い目──それらがない交ぜになったものを、私はこの男にぶつけていた。
しかし今はもう、行き場のなくなった感情を、暗い胸の内に溜め込んでゆくことしかできない。
空気は緩んだ。
しかし私にとって、ここはどこよりも地獄だった。
「……見苦しいところをお見せしてしまった」
弱々しくなった声で、青川丞はぽつりと言う。
人間味のない無表情だったはずの顔に、ばつの悪そうな色が浮かんでいた。
「貴女にもご指摘いただいたように、10年も前のことを持ち出して、偉そうな口を叩いてしまっていた。……その、本当に申し訳ありませんでした」
私は何も返すことができない。
掛けられる言葉は丁寧で、感情まで込められているように感じる。
しかし気持ちが追い付かない。
心が、ただ荒んでゆく。
コトッ、と音を立て、ガラステーブルの上に金のトロフィーが置かれた。
青川が先程から抱えていたものだった。
ゲームキャラクターがあしらわれた、変わったデザインのもの。
「……これは、休学中に出場したピコモン世界大会の優勝トロフィーなんだ」と彼は説明する。
「休学」
私は単語を繰り返す。我ながら、ひどく抑揚のない声だと思った。
「お兄ちゃん、大学に行ってから、人間関係が上手く築けずにホームシックに罹っちゃって。その逃避として、ゲームにのめり込んだんですよ」
そう補足を始めたのは青川夜風だった。
「そしたら、学業にもゲームにも追われてオーバーワーク気味になって、結局は体調崩しちゃったんです。……たかがゲームで、と思うかもしれないですけど、当時のお兄ちゃんは、ある種の強迫観念に囚われてたっていうか。それで本当に世界一になっちゃったのには、さすがにびっくりですけど」
その間、青川丞は特に口を挟まなかった。妹による暴露話が終わると、それを甘んじて受け入れるように長い息をつく。
そしてテーブル上のトロフィーに目をやった。
「……自分なりに足掻いて、何かを成し遂げてみたかっただけだよ。それが復学後のモチベーションにも繋がったのだから、これはむしろ必要な投資だったと言えるけど」
その子供めいた理屈に、青川丞の複雑な自尊心が見える。
そのトロフィーは、自分を守る盾でありつつも、ゲーム逃避という暗黒時代の存在を証明する、いわく付きの品。
現在の社会的な肩書きに頼らずに、自己を端的に表現するもの。しすぎてしまうもの。
その開示をするということ。
この行為が、彼なりの不器用な歩み寄りのつもりであるとは、頭ではわかる。
──けど、私には受け取る準備がない。
「あの頃ピコモンを手に取ったのは、俺の思春期の交友関係にゲームが深く関係していたことに起因するんだ。住吉はピコモン仲間で……俺のビルドをすごいと言ってくれた、最初の仲間だった」
──気持ち悪い。
もういい加減にしてくれ!
そう思って、しかし私は何も言葉が出てこなかった。
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