第9話
果実水を飲み切った後、ロナのおぼつかないガイドが加わって帝都の観光は再開した。久しぶりというのは本当らしくて、ロナは何度か道を間違えた。最初はそのたびに委縮していたけれど、次第に打ち解けてきて冗談すら飛ばせうようになった。
どこか懐かしい感覚だった。
リタは、この世界でできた友達だけど、それとは少し違う。学校の友達と接するような、ただ、笑いあって隣を歩けるような。そんな友達になれた気がした。
時間は、あっという間に過ぎていった。気がつけば日が傾き始めている。
「…そろそろ帰ろうか」
私からそう切り出した。ロナは残念そうな表情を浮かべた。
顔には出さなかったけど、私も同じ気持ちだった。それだけ楽しかったのだ。こんなに楽しいと思ったのはいつぶりかすらわからないくらいに。
「よければ、家まで送っていくよ」
ロナの表情が固まる。それは、名残惜しさとは少し違う気がした。
ーやっぱり……。そんな懸念が頭を擡げる。
「…そうですね。そろそろ、帰らないと…」
ロナの顔に影が差して、ずっと私の中にあった予想が確信へと近づいた。身分が高そうな服装なのに、護衛はついておらず、金銭感覚もあやしくて、まるでー。
「ねぇ―」
私が口にしようとした疑問は、ふいに響いた大声にかき消された。
「いたぞ!お嬢様だ!!」
一瞬自分が呼ばれたのかと思ったが、すぐに違うことが気付いた。私の護衛はすぐそこにいる。
フルプレートの鎧を着た兵士がガシャガシャと音を立てて駆けてくる。
―きっと、ロナの護衛だ。
すぐにそう理解した。少女のあの雰囲気も、上等な装いも、貴族なら納得できる。
そう思って、ロナを見た。
一瞬、思考が止まった。
ロナの顔は真っ青になっていた。
逡巡した。その騎士に害意があるようには見えないし、むしろ、お嬢様を見つけて心底ホッとしているようだ。きっと、あの騎士は彼女の正当な護衛なのだろう。だとしたら、ロナのことはあの騎士に任せていいはずだ。
けれど、思わず助けたいと思ってしまうほどにロナの顔は悲痛に歪んでいた。
「ロナ、走って!」
呆然とするロナの手をつかんで、私は叫んだ。
「え?お嬢様?」
「あ!待て!」
後ろにガシャガシャ音を聞きながら、人ごみの中を縫うようにかける。
私の護衛達は、本日二度目の護衛対象の逃走に呆気に取られていた。
ロナが手を握り返して、ぬくもりが伝わってきた。
大柄な騎士と、身軽な私たちの距離はみるみる離れていく。
二人分の弾む息が、やけにはっきり聞こえた。
人混みの中を走り抜けながら、今更「こんなことをしてよかったのか」なんて思ってしまって、振り返った。
少女の顔に、怯えた表情はもう消えていた。代わりに、そこには興奮したような笑顔があって、その笑顔に、私の心配なんてどこか吹き飛んでしまった。
私たちを呼び止める声も、鎧の音も、雑踏にかき消されていく。
表通りを曲がって、住宅街に入った。護衛たちの呼び止める声さえ聞こえなくなっていた。
しばらく走ってから私たちが止まった場所は、噴水のある広場だった。息を整えながら、二人でベンチに座る。
私たちは、しばらく無言になった。子供たちが遊ぶ声だとか、おばさんたちの世間話だとか、誰かが泣く声だとか、そういうのをぼんやりと聞く。
先に口を開いたのは、私だった。喉がカラカラだった。
「飲み物、買ってくるね」
そう言って、露店を指さす。
手を離した途端、ロナが少し残念そうな顔になったことに、私が気付くことはなかった。
コップを受け取っても、ロナは俯いたままだった。
居心地が悪くて思わず、再浮上してきた疑問がそのまま口を突いて出てしまう。
「あの騎士の人から逃げちゃったけど、大丈夫だったかな…?」
途端に、堅かったロナの表情がさらに固まった。
少ししてから、ロナは口を開いた。
「…………きっと、後ですごく怒られる。…けど」
言葉が途切れる。私は何も言わずに続きを待った。
「…けど、逃げてよかったと思う」
ロナは、もう、真下の地面を見ていた。夕暮れがロナの顔に影を落として、表情が読めなくなる。
「私、貴族なんだ」
「うん」
そうだろうとは思っていたから、驚きはない。
「それで、私、家から逃げ出してきたの」
―やっぱり、そうか。
ロナの手に持ったコップに、ぎゅっと力が加わったのが分かった。
「…毎日、勉強に、礼儀作法に、社交界に…。皆、私に期待していて、うまくできなければ、私に、価値なんてなくて。頑張っても頑張っても、ずっと足りなくて。誰も私を認めてくれなくて」
ロナは顔を上げた。彼女の瞳と同じ色に染まった空をまっすぐに見つめる。
「…それで、家から逃げ出した。でも、逃げた後のことなんて考えてなかったから、気づいたら男の人たちに捕まって、私、本当に怖くて。逃げ出したことを後悔した。…その
ロナが私の方を見て、少し驚いた顔で固まってしまった。
どうしてか、私には分かった。
私の頬を涙が伝っていた。
「え、えっと、イヴさん、大丈夫?!」
「大丈夫。…気にしないで、目にゴミが入っただけだから」
服の裾で涙を拭うと、もうそれ以上涙は溢れてこなかった。
涙が溢れた理由も考えないようにした。理由がわかってしまったら、何かが決壊してしまう気がした。
「えっと、実は私も貴族なんだ」
なんとか話題を変えたくて、私はそう言った。
「やっぱり、護衛を連れてる普通の女の子なんていないよね」
ロナはそう言って笑った。
それから、他愛のない会話をした。本格的に暗くなり始めてきたころ、少し遠い場所から数人分の「お嬢様―」と呼ぶ声が聞こえた。1本2本向こうの通りからだろうか。
「私、そろそろ家に帰るね」
ロナが立ち上がる。
「いいの?」
「ええ」
ロナの声には悲壮な響きはなかった。
「じゃあ、また会おう」
「うん、またね!次会うときは絶対に今日のお礼をするから」
「気にしなくていいって言いたいけど…うん、期待しておく。ばいばい」
「ばいばい!」
ロナの背中が見えなくなるまで見送ってから、私もはぐれた護衛を探しながら帰路に着いた。
深夜になってから、シュナイツは帰ってきた。一見していつもと変わらないが、貼り付けたような笑顔がとても怖い。
―だから早く寝たかったのに。
護衛から事情を聞いたバウルが、寝ることを許してくれなかったのだ。
「イヴ」
目が笑ってない。
―今からでもはいれる保険はないものか。
私は視線をさまよわせる。だが、突破口などあるはずもなく。
「今日、出かけたときに揉め事があったそうじゃないか」
「えっと、なんのことだか…」
「それも自分から首を突っ込んだらしいじゃないか」
私は今日の出来事を思い返してみたけれど、シュナイツの言っていることは正しいと分かっただけだった。
「そして自分の護衛も置き去りにして逃げた、と。イヴ、言いたいことがあるのなら言ってごらん?」
私は観念して、今日の出来事を話すことにした。
その後、剣の修練の時間を倍にすることと、一か月の外出禁止を言い渡された。
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私は、いつもと変わらないベッドの天蓋を見ながら今日出会った少女のことを思い出した。
「イヴさん…」
誰よりも強くて、優しくて…気のせいかもしれないけれど……、どこか、危うげな彼女。
目をつぶる。「走って!」そう言ったイヴさんの声がまだ鮮明に脳裏に響いた。
あの瞬間に、私の心臓が高鳴った。
結局、今日の私の逃避行は失敗に終わった。でも、この感情を思い出せばなんだってできる、そんな気がした。どんなに厳しいレッスンも、誰も、私を認めてくれなくても、彼女のためなら。
次は私がお礼をする番だ。そう、心に誓いを立てる。
そのために強くなろう。
また、彼女に出会う時までに。
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