5-3 蜘蛛の糸百本で首を吊る

「やあ、天使ラファエルの器。レイモンド・フォーセット」


 ……誰だろうかと、レイモンドは消えゆく意識の中でそう思った。

 レイモンドはアルベルトに命じられた安藤によって、心臓を撃ち抜かれて。それでも死ぬまでには時間があるから、うつらうつらしつつ、遠のいていく痛みの感覚をやばいなあと思いながら最後まで書斎にいたのだった。

 目を開ける。

 もう焦点は合わないけど、それでも誰かいることはかろうじて、なんとかわかる。

 ……誰だろう? あんな、ミルクティーのような色をした少女は、この教会にいただろうか?

 考えられない。

 夢の底にいるみたいに、違和感をそのまま受け止めてしまって、考えるまでに至らない。


「随分な有様だな」


「……はあ」


 気の抜けた返事。それでも声を出せただけマシである。

 目の前にいる誰かはため息を吐いた。


「……私を見ても、何も思わないか」


 見るも何もない。もう見れないのだ。ただ誰かがいるという感覚だけがある。


「そりゃあ、この舞台を作ったのは私ではあるのだけど、君もいくらか手を加えていたはずだ。自業自得。勧善懲悪。自縄自縛。善はその善ゆえに栄え、悪はその悪ゆえに滅びるのだよ、レイモンド・フォーセット。天使の器。修道院長」


「……」


 違うだろうとは思ったが、口には出せなかった。その代わりげほりと血が吐き出された。修道服が汚れて、もう修復できない上に着ることもないのに不愉快になった。

 で、なんだっけ? 善は栄えて悪は滅びる? ンなわけあるか。正しくは『善人がその善ゆえに滅びることもあり、悪人がその悪ゆえに長らえることもある』だ。聖書ぐらいちゃんと読んどけと言いたくなる。言えないけど。


「私も君も、私たちも君たちも、どちらも悪さ。だから、滅びる」


 随分な大言壮語だ。

 レイモンドは口角を上げた。上げられたかはわからないけど、とにかくレイモンドは目の前の誰かさんを嘲笑った。

 このクソ舞台監督は、目がついていないのか?


「ああ、悪人ばっかだ。性悪説の信憑性が高まるな。誰だってこいつぶっ殺したいぐらいは思うし、こいつ気に食わねえと愚痴るし、怒るし憎むし妬むし嫉むし欲しがるし面倒臭がるしどうせなら快楽に溺れたいと望む。……人間なんて、滅んでしまった方がいい」


 ひどい話だ。

 世間知らずの小娘か? 悪も善もない。完璧な聖人などいない代わりに、救いようのない悪人もいない。と、レイモンドは信じている。

 いや、自分は救いようのない悪人かもだけど、そこは置いといてさ。


「指を咥えて見ていろ、レイモンド・フォーセット」


 誰かは言う。レイモンドは言葉の意味がわからなくなってきていたから、ただその声を音として処理していく。


「この私が──皇五十鈴が、神崎雨音を殺して、憤怒の悪魔使い、天音を幸せにしてやる」



 ……



 腹が減っている。

 それが、秋月佳奈の永久の課題である。問題である。早急に解決すべきだ。いち早く取り掛かるべきだ。一秒でも早く解消に向けて動き出すべきだ。

 それなのに、食い物が逃げていく。

 目玉が腐ったのは這いずって。見物人は足早に。操られているかのように、逃げていってしまう。

 いや、操られているかのように、ではないな。


「操っているのか、『蜘蛛糸の魔女』」


 秋月佳奈はその白濁とした瞳で、目の前に佇む『蜘蛛糸の魔女』に問う。いつの間にか薄れなくなった金髪をかき、スカジャンの裾を直した。イラつきは止まらなかったので徒労となった。

 ぐるぐると喉が鳴る。腹が減っているのに、目の前で餌を取り上げられた気分であった。まさに据え膳。

 こんなに腹が立つことはない。

 牙を剥き出しにしながら、秋月は『蜘蛛糸の魔女』に言葉を投げつけた。


「なんのつもりだ、『蜘蛛糸の魔女』。願われてもいないのに人助けか」


「……? いえ、あなたの願いを叶えに──」


『蜘蛛糸の魔女』が口を開いた瞬間、倒れている男に『牙』を向けた。宙に浮いた巨大な口が、男を丸呑みにせんと迫る。

 切り裂かれた。

 秋月は鋭い痛みを感じて、口を押さえる。口腔内の出血を確認し、ベロリと舐め取り己の血の味を楽しんでから、笑っている『蜘蛛糸の魔女』を睨んだ。


「ぼくの口を切り裂くなんていい度胸じゃないか」


「切り裂くなとは願われていないので」


「じゃあ命令だ、切り裂くな」


「それが願いですか?」


「願いに決まっているだろう。とにかく、ぼくに攻撃するな。人間を逃すな。それはぼくの──」


「違いますよね」


 遮られた。

 人々は変わらず逃げていく。いつの間にか喧騒が消えている。あの目玉の腐った男さえも、誰かに抱えられながら逃げ出した。誰も、いない。ただ電光掲示板がチカチカと輝いて、激安量販店から軽快で単調な音楽が流れているだけ。

 いない。

 誰も、いない。

 秋月は舌打ちをした。魔女の仕業だ。そうに違いねえ。しかし、なぜ願ったのに叶えられていないのだろうか。


「……話が違う」


「違くないですよ? ワタシはあなたの願ったことを叶えるのです」


「願ったじゃあないか! 人間を逃すな。ぼくを攻撃するな。せっかくの晩飯が台無しだ。どうしてくれる」


「……? ですから、あなたは願っていませんよ?」


『蜘蛛糸の魔女』は心底不思議そうに言う。顎に指を添えて、目を瞬かせ、どこまでも意味がわからないと言いたげに。



「あなたは、最初の願いを思い出したいと、そう願ったでしょう?」



 ……は?

 願ってなんてない。

 秋月佳奈は、そりゃあ確かに思い出せなくて癇癪を起こしていたけど、それでも『蜘蛛糸の魔女』になんて死んでも願わない。ただの独白で独り言。どう足掻いたってそれが真実。

 何を、言っている。


「あなたは願いました。だから叶えます。もちろん陽葵さんの願いも叶えますから、そこはご安心くださいね」


「……願った覚えはない」


「しかし、あなたは過去の記憶を渇望している」


『蜘蛛糸の魔女』は笑って。


「過去に何があったのかを知りたがっている。過去の自分を見たいと切望している。過去の、ベルゼブブとの出会いを思い出したいと羨望している。それが事実。ですから、叶えます。ワタシは『蜘蛛糸の魔女』ですもの」


「願って、なんか」


「あなたは何度も何度も願いました。祈りました。ですから、叶えます。求めるものには与えなければなりませんから」


「ぼ、ぼくは」


 なんで。

 なんで、秋月は怯えている?

 こんな魔女、丸呑みにできるのに。切り裂くことを禁じられたこいつはもう秋月を攻撃できない。だから、悠々自適に晩飯にしてやればいいのだ。喰えばいい。喰らえばいい。飲み込んで飲み干して食って食らって食い殺して。

 そうすれば、解決するのに。

 なんで、喰わない?

『蜘蛛糸の魔女』は笑っている。狭間で揺れ続ける不完全な怪物を嘲笑っている。

 秋月は『牙』を向けた。


「過去を思い出したい。いいですね。ええ、とてもいい願い。是非ともワタシに。この『蜘蛛糸の魔女』に、おまかせください」


「誰が、お前なんかに……!」


「あなたがワタシに、でございましょう」


 魔女が笑う。嗤う。秋月佳奈を、出来損ないの怪物を嘲笑う。

 我慢ならず、秋月が向けた『牙』が閉じられる前に。


 べきん! と腕があさっての方向に折れた。


 捻られるようにして右腕が折れる。ベキベキベキと音が響いていた。なぜか吊り上げられているかのように、上に持っていかれる。

 よく見れば、細い細い糸が巻き付いていた。


「……お前!」


「もう一つ、いや一本?」


 左腕も同じように捻れた。体が宙に浮く。ぶら下がっていく。『牙』を向けようと口を開いたが、その口が大量の糸で塞がれた。

 もがく。もがく。こうも体と密着していると、糸だけを腐らせるのは至難の技だ。秋月佳奈は蝿の王を喰らったとしても、どこまでも人間の体で。それ故に体が腐れば普通に死ぬ。やれないこともない。でも、この状況でそんな繊細なことはできない。

 混乱していた。

 秋月は舐めていた。『蜘蛛糸の魔女』の存在を、軽く見ていた。たかが魔女。たかが兵器。願いを叶えるだけの、くだらない存在であると、そう思い込んでしまっていた。

 大間違いだ。

 過去の教皇が護衛を頼んだのは、ひとえに彼女の戦闘スキルの高さに起因する。どの魔女よりも人殺しが得意で荒事が得意。ある意味異端である彼女の魔法は、天使ウリエルの器であるアルベルト・フォーセットの同胞を務める彼女の実力は、伊達でも酔狂でもなかった。

『蜘蛛糸の魔女』の存在を軽く見てはいけない。守るべきものがない時の彼女を甘く見てはいけない。安藤陽葵という足手纏いがいなくなった今、辺りを巻き込む心配がなくなった今、『蜘蛛糸の魔女』は本気で願いを叶えにいく。


「願いましたか、佳奈さん」


「う、うええ?!」


 秋月の口に大量の糸が詰め込まれる。足が捻られて折れる。ズタズタに引き裂かれてパーツが落ちる。首にシュルシュルと糸が巻き付いて、首を絞める。

 秋月はただもがいてもがく。足掻く。なんとかこの糸を解いて、魔女を喰らおうと必死になる。

 糸は切れない。

 当たり前といえば当たり前だ。秋月佳奈も確かに異端ではあるが、それでも『蜘蛛糸の魔女』には及ばない。生まれはただの人間で、十四歳の娘。いくらベルゼブブの性質を完璧にものにしたと言っても、格が違う。化け物としての練度が違う。

 ……蝿の王を喰らっただけの小娘が、『蜘蛛糸の魔女』に勝てるとでも?


「過去の記憶はベルゼブブに食われ、文字通りの虫食い状態となっておりましたが、あなたがベルゼブブを喰らったことにより状況は一変します。記憶の不完全な統合により、元通り、とまではいかずとも、それでも内容把握には十分な程修復されたのです。思い出せないのは、そもそもあると思っていないから。失われた記憶があると、思ってもいないから」


 秋月が赤く染まっていく。

 ぼたぼたと、糸から血が滴る。秋月はもう足掻くことすらやめた。だらりと体から力を抜いて、感じたことのない痛みに耐えている。叫びたかった。はちゃめちゃに動き回りたかった。でも、それをしたら糸が食い込んでさらに痛くなる。

 動けない。

 宙に吊られて、切り刻まれて。秋月佳奈は、もう動けない。


「願った通りに、祈った通りに、ワタシは叶えます。……『蜘蛛糸の魔女』として」


 ぎゅるりと、秋月の視界が一変した。

 テレビのチャンネルを切り替えたように、唐突に。



 ……



 帰ってこない。

 父親の帰りを、秋月はずっとずっと待っていた。勝手に冷蔵庫を開けてはいけないと言われていたから、何も食べずに。決められた分だけしかおやつは食べてはいけないから、何も食わずに。ただ蛇口を捻って水を飲み、空腹を紛らわしていた。

 帰ってこない。

 生ゴミが腐って、蝿がたかっている。



 ……



「は?」


 今のは、なんだ。何が起こった! 秋月は声を出そうと口を開き、唇が取れかけたので途中でやめた。目の前で起こった幻想を振り払おうと躍起になる。違う。あれは違う! 秋月であって秋月ではない! あれは、違うはずだ!


「年代としてはそれなりに新しいものですね。過去を遡るにはやはり近しいものから見るのがいいかと」


 魔女の声が聞こえる。

 ギチギチと締めあげられる。細い糸が網膜の隙間から体内に侵入してきたけど、秋月は全身の痛みで気付けない。口に詰め込まれた糸が食道を通って胃を伝っていくけど、秋月は唐突なフラッシュバックに夢中で気付けない。ずるずると糸が秋月を締めあげ切り裂き這い回る。


「陽葵さんはベルゼブブと秋月佳奈を殺せと願いました。佳奈さんは過去の最初の願いを思い出したいと願いました」


 魔女が笑っている。秋月を蹂躙しながら、願いを叶えられる喜びに打ち震え、笑っている。ポコポコと、普段は隠している複眼を露出させながら。その毒々しい髪から小さな蜘蛛を落としながら。


「ならば、ワタシは叶えます。ええ、願いを叶えることこそが魔女。ワタシ、『蜘蛛糸の魔女』は、願いを叶える」


 心底楽しそうに、嬉しそうに、役目を全うする。


「全部、思い出しちゃいましょうか」



 ……



 怒鳴り声が聞こえると、秋月は押入れに避難する。

 また喧嘩だ。母と父が、何度も同じ話題で争っている。母は新品のベビー服を握りしめながら父に向かって怒鳴り、父はそんな母に現実を押し付ける。

 押入れは狭い。

 狭いけど、それでも秋月が隠れられるぐらいのスペースはある。あらかじめ入れておいた絵本を、差し込んでくる部屋の明かりを頼りに読んだ。非常食である飴玉を舐める。


「やさしいやさしいてんしさまは、びょうきのおやこのまえにあらわれて……」


 辿々しく読む。たまに読めない文字がある。それでも、音読する。

 自分の声は両親のヒステリックな叫び声によりかき消された。



 ……



 深夜、雨が降っていた。

 ザアザアと音を立てながら、マンションの一室である家の窓を濡らしていく。ただひたすらに、秋月はお留守番をしていた。今はくまちゃんとうさぎちゃんの結婚式をしているところだ。指輪もウエディングケーキもある。指輪は去年の夏祭りの露天で買ってもらったもの。ケーキは粘土で自作した。うん、完璧。盛大な結婚式。ちょっと散らかしちゃったから、帰ってくる前に片付けないと。

 しかし、遅い。

 下がりそうになる瞼を擦って、秋月は病院に向かった両親の帰りを待つ。妹と一緒に帰ってくるはずの両親を、ひたすら待つ。



 ……



 お姉ちゃんになるのだと言われた。

 弟か、妹か。まだわからないけど、とにかく姉になるのだと言われた。嬉しかった。まだ母のお腹の中にいる小さな弟(妹?)に抱きついた。

 父と一緒に名前も考えた。重たい事典をめくって、紙に書いて。三人で頭をひねって悩んだ。女の子だったら。男の子だったら。書きやすさ。読みやすさ。こめる願いと意味。名前にこんな意味があるのかと驚いたのを覚えている。

 病院にいく母と父を見送って、秋月はあくびをした。



 ……



「おや、やはり記憶の混濁が見られますねえ。時系列などあってないようなものですか。滅茶苦茶のぐちゃぐちゃ。事実だけを配列した、不親切な記憶の集合体。でも、佳奈さんなら読み解けるはずですよ」



 ……



「それでは、召し上がれ」


 白色の彼はそう言って、秋月の前に赤く染まった肉塊を差し出した。

 衣服の糸くずが散らばるそれは、おいしそうだった。



 ……



 帰ってこない。

 秋月は指の先を噛みながら父の帰りを待つ。ひたすらに、待つ。何日も経つのに帰ってこない父を待つ。

 生ゴミが腐ったような臭いが部屋に充満していた。母親がいなくなったときと同じ臭いがする。秋月はリビングの床に寝っ転がって浅い呼吸を繰り返す。吸って吐く動作がいやに疲れる。

 おなかがすいた。

 たべたい。なにかたべたい。はらがへっている。みたされたい。秋月は、はらが減って仕方がない。


「かわいそうに」


 声がした。

 目の前に、白い誰かが見えた。


「ああ、全くもってかわいそうだ。飢え死に。動物としての尊厳を奪いむしり取るような、最も忌むべき死に方! かわいそうで仕方がない!」


 霞んだ視界でなんとか声の主を探す。どこまでも濁った白色しか見えなかった。白い。秋月の視界は、白一色だ。

 蝿が飛び回る音がする。


「そんなキミに質問だ、かわいそうな姫君。キミは満たされたいかい?」


 そんなの。

 そんなの当たり前じゃないか。



 ……



 妹がいなくなってから、全てが壊れたような気がした。

 どうしたら母は消えなかったのだろう。どうしたら父は帰ってくるのだろう。根本的な理由。原因。どんな問題だってそれらを探し当て、見つければ、絶対解決する。

 そうすれば、また家族でいられる気がした。

 欠けてしまった人物を、もう一度舞台に引っ張り上げなければならない気がした。

 満たされていない。

 なら、満たせ。たとえ、悪魔の手を借りてでも。自分自身が飢え死んでも。



 ……



 ぼくの、最初の願いは。



 ……



「ああ、なるほど」


『蜘蛛糸の魔女』は嘆息した。

 自身の血で赤く染まる秋月佳奈に不用心に近づいていく。


「アナタは、ただ家族みんなで幸せになりたかったのですね」


 かつんと靴底を鳴らしながら、魔女は蝿の王になりかけた少女に近づく。観察する。失血死寸前まで血を流した彼女を憐れむように。


「妹の流産。精神的に不安定になった母親を、不慮の事故で殺してしまった父親。そのまま死体とともに雲隠れしてしまった父。自殺でもしに行ったのでしょうか? そこまではわかりませんが、とにかくいなくなった。小さな少女はひとりぼっち」


 魔女はひたすら事実を述べていく。返事はない。そもそもできないのを前提に語りかける。


「満たされたい、というのが、アナタの最初で最古の願い」


 聞こえているのかいないのか。それすら不明瞭な状況で、魔女は願いを叶える。


「アナタは妹の存在を求めた。埋まらない喪失感は、生まれてこれなかった妹です」



 ……



 気づきたくなかった。

 己の喪失感は、欠けたピースは、埋まらない空白は、単なる食欲であると、空腹感であると思い込みたかった。食って喰らって埋めてしまいたかった。現実的に、この喪失感を、恋焦がれ燃え尽きてしまった欲望を、満たしたかった。

 気づきたくなかったのに、なあ。

 魔女の声が聞こえる。叶えてあげたいという、真っ当で純粋で無垢な善意で秋月佳奈の願いを叶えようとしている。

 後戻りはできない。気づいてしまったことをなかったことにはできない。

 妹は生まれてきて欲しかった。

 母は妹がいなくなったことを受け入れて欲しかった。

 父は母を優しく受け止めてあげて欲しかった。

 秋月佳奈はそれなりにうまく立ち回れたと思う。思い込みだが、そう思っている。感じている。少なくとも、家族というちっちゃな共同体の中では、それなりに。年齢に見合った動きができたはずだ。

 戻したい。戻したい。幸せだったあの頃に戻りたい。父と母がいれば十分だった。妹の名前を呼んであげたかった。秋月はそれだけで十分だったのに!

 もう一生満たされることはないとわかってしまったから。

 父を喰らい、エクソシストを喰らい、蝿の王を喰らい、いつの間にか周りには誰もいなくなってしまって。

 もう二度と、満たされないから。


「それでは、陽葵さんが願った通りに祈った通りに」



 ……



 シャーロット・ロックウェル改め、『蜘蛛糸の魔女』は失念していた。

 いくら『蜘蛛糸の魔女』が戦闘に特化した怪物だからって、荒事が得意な魔女だからって、秋月佳奈の異端性は曇らないということ。七大罪が一つ、暴食の悪魔であり蝿の王、ベルゼブブを喰らって、その性質を宿した、いわば悪魔の器である彼女。レイモンド・フォーセット、アルベルト・フォーセットのように後付けではない。人工的ではない。天然物で生来の性質だ。

 侮るな。

 秋月佳奈は、ベルゼブブを制御していた。大罪の魔王を支配していた。契約内容が有利だったとか、そういうちゃちな問題ではない。彼女は人間でありながら、ベルゼブブを支配していたのだ。

 兎内沙羅とアスモデウスとの関係性とも、また違う。アスモデウスはどこか甘ったるい。どこまでも遊び半分だ。恋に全力を尽くすアスモデウスにとって、兎内沙羅は(少し想定外だったけど)一夜限りの相手。ほんの少しの人恋しさを紛らわせるための暇つぶし。前提が違う。考え方が違う。実力も違い、状況も違う。主犯である皇五十鈴でさえ、お遊び半分なルシファーを完璧に制御できなかったのに、初等教育さえも終わらせていない、ある意味どこまでもまっさらな彼女は、いとも容易く蝿の王を支配する。かの堕ちた英雄、暴力衝動しか抱え込んでいない神の愛子のように、支配する。

 秋月佳奈は異端である。

 世が世なら魔女裁判にかけられてもおかしくないほど、異端である。魔女と後ろ指を指されても仕方がないほど、異端である。おかしい。狂っている。間違っている。人間であって人間ではない。しかも、これだけの性質を抱えておいて皇五十鈴、またはレイモンド・フォーセット、または兎内沙羅のように舞台監督者ではない。単なる舞台役者なのだ。ただの登場人物で、愉快痛快に手のひらの上でくるくる踊るしかない人間なのだ。

 秋月佳奈はどこまでも怪物である。

 生まれながらの悪魔の器。ベルゼブブを支配する人間。単なる舞台役者。

 秋月佳奈を侮るな。

 彼女は、満たされるためならなんでもする。たとえ失血死寸前でも。安藤陽葵と共闘したときのことを忘れたのか? 秋月はベルゼブブを喰らってまで生き延びた。追い詰められたときこそ、彼女は本領を発揮する。

 今も、例外ではない。


「……?」


『蜘蛛糸の魔女』は足を止めた。至近距離で確実に殺そうと──願いを叶えようとして、近づいて。それでも違和感があったので、反射的に足を止めた。

 秋月はぐったりしている。意識があるのかないのか、それすらわからないほど出血していた。もうだめだ。どう足掻いても死ぬ。ここから入れる保険どころか治してくれる医者もいない。顔面に傷のある闇医者でさえ諦めるレベル。もう死体になろうとしている、肉塊だった。秋月佳奈はほっといても死ぬ。でもトドメは刺す。それが『蜘蛛糸の魔女』だから。願いは絶対に叶えるのが魔女だから。


「……なんでしょう? 違和感。嫌な予感?」


 複眼を戻し、『蜘蛛糸の魔女』は人間らしい瞳孔で秋月を見る。手足が折れたうえに全身が己の血で真っ赤になった彼女はもう助かりそうにない。誰がどう見たって死にかけている。死体と見なす人間も、もしかしたら一定数いるかもしれない。それほどまでに衰弱している。

 この違和感はなんなのだろうか。

『蜘蛛糸の魔女』は糸を張り巡らせる。指先から垂らした糸で、秋月を切り刻んでやろうと振りかぶって──


「おなかすいた!」


 唇を落としながら、拘束していた糸ごと手足を腐らせながら、秋月は『蜘蛛糸の魔女』に向かって吠えた。

 べちゃ! と肉塊が落ちる。立てないから地べたに這いつくばったままうごうごと蠢いていて、それでも自由になってしまったことを『蜘蛛糸の魔女』は確認する。

 死ぬまであと何秒だろう。でも、秋月は死の間際に自由になった。


「おなかすいたおなかすいたおなかすいた……」


「ですから、アナタのそれは、ただの喪失感であると──」


「みたされたい」


 秋月佳奈は切り傷だらけの口を開く。

『牙』が出現する。


「おなかすいた……」


『蜘蛛糸の魔女』は。

 満たされたいと願った秋月佳奈の願いを叶えなければと、そう思ってしまった。

 願いを叶えるとは、魔女にとって使命で指令で試練で、生きる意味だった。そのために存在しているといっても過言ではない。呼吸と等しい行為だ。

 だから、満たされたいと言われて、『蜘蛛糸の魔女』は少しだけ止まった。


「おなかすいた!」


 止まってしまった。

 フリーズした『蜘蛛糸の魔女』に『牙』が迫って、その細い体を両断した。


「……っ!」


 上半身と下半身が泣き別れになった程度では『蜘蛛糸の魔女』は死なない。死なないけど、負ける。喰われて負ける。

 同胞の元に帰れなくなる。

 もちろん秋月の願いは叶えなければならない。満たされたい。『蜘蛛糸の魔女』の体を喰って満たされるかどうかはわからないが、でもやる価値はある。喰われるのは良いのだ。ただ、アルベルトの元に帰れなくなるのは困る。願いを叶えられなくなってしまう。『蜘蛛糸の魔女』は天使の器の同胞で仲間。そばにいなければならぬ。

 はてさて、どうしたものか。

 ま、どうしたものかとはいうが、解決策はないことはないんだけどさ。

『蜘蛛糸の魔女』は自分の喉元に指を突っ込んだ。

 げえげえと喉を言わせる。えずく。秋月に気づかれない程度に止め、それでも吐き出そうと躍起になって。その一秒後。


『蜘蛛糸の魔女』は、手のひら大の女郎蜘蛛を吐き出した。


 唾液の糸をひくソイツを掴んで地面に放り投げる。幸い気づかれなかったようだ。切断されてから吐き出されるまで、この間二秒程度。地面に転がった上半身。飲み込まれた下半身。『蜘蛛糸の魔女』は唐突に軽くなった体を起こそうとして、やめた。


「おなかすいた……」


 バリバリと『蜘蛛糸の魔女』の下半身を噛み砕いて、秋月はつぶやく。


「願いましたか、佳奈さん」


 返事はない。彼女は芋虫のように這いずって、『蜘蛛糸の魔女』に近づいてくる。魔女を喰らわんと必死に睨みつける。

 からっぽになった『蜘蛛糸の魔女』は。外側だけの人形は。シャーロット・ロックウェルのもういらない化けの皮は。

 目の前に出現した『牙』を眺めて、願いを叶えられることに喜んだ。

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