1番 会話記録

 随分変わった子だと思った事を、鮮明に記憶している。

 安藤陽葵と神崎雨音の邂逅記録。その断片。断片で十分なほど醜聞。掌握できる醜悪。ただひたすら歪み切った、会話とも呼べぬ会話記録。

 語るのは、その程度の話。



 ……



 安藤陽葵はエクソシストとなった。

 真夜中に家を飛び出して、走って、走って、衝動的な殺しを繰り返して己を保ち、辿り着いたのは甘崎教会という、修道院だった。

 修道院なのに教会? まあどうでもいい。安藤は聖職者ではない。なんか権利関係がごたついているからこの名前なのだとここの修道院長に言われた。優しそうだが、疲れている青年である。頼りなさげな人間である。今の安藤でも殺せそうだと思ったぐらいには。


「会って欲しい子がいるんだ」


 修道院で暮らす事になってから一日目の昼。慣れない修道服に身を包み、読んだこともない聖書をなんとか読んでいた安藤に、修道院長はそう言った。

 安藤は従った。

 今の安藤は見境のない殺人鬼ではない。組織に所属する軍人である。だから、上官の命令には従う。

 修道院長が安藤を連れて行ったのは、中庭だった。

 シーソーやブランコなんかが置いてあって、ちょっとした遊び場になっていた。花壇には季節に沿った花が植えられていて、見事に咲き誇っている。


 中心に置かれたベンチに座っている少年がいた。


 年齢は十にもならないだろう。ふわふわとした黒髪、澱み切った黒目。修道服はサイズがあっていないのかブカブカで、大きなガーゼを頬に張っている。包帯を巻いた腕を酷使して、膝に置いた聖書をめくっていた。


「……神崎雨音くんだ。ぜひ、仲良くしてくれると嬉しいな」


「はい」


 端的に返答し、安藤はまっすぐに神崎の元へ歩く。どっかりと隣に腰を下ろした。

 反応はない。読んでるんだかわからない捲り方で、神崎は聖書を読んでいく。


「こんにちは」


 反応なし。なかなかいい度胸をしている。


「あなたのお名前は?」


 反応なし。さっきから忙しなくページを捲っている。聞いてねえな。


「本当に読んでるの?」


 反応はない。

 めんどくせえ……。安藤は他人との意義のない会話が嫌いだ。好きなやつなんていないかもだけど、とにかく嫌いだ。ぼんやりと花壇を見つめる。あ、蜂が花に止まった。ここで銃ぶっ放したら殺せそうだなー。

 いつの間にか修道院長はいなくなっていた。

 放任主義か? それならそれでいいけど、安藤はどうしたらいいんだろう。仲良くしようにも反応がないんじゃ手がつけられない。どうしようもない。


「ねえ」


 袖を引かれた。

 慌てて横を見れば、神崎が安藤の袖を掴んでいた。こちらを見ている。その澱んだ目が、安藤をしっかり認識している。


「なんて読むの」


「……何が」


「ここ」


 そう言って指を指したのはとある聖書箇所。安藤は覗き込んで、音読する。


「えーっと? ……『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。……ああ、主が十字架につけられたとこね」


 反応はない。続きは読めていないのに、またペラリ、ペラリとページを捲って、ぼんやり眺めている。

 なんだこいつ……。



 ……



「なんて読むの」


 それから数日経った。

 安藤は昼になると神崎の元を訪れていた。修道院長がどうかよろしく頼むと言うもんだから、安藤としては断れず、さわやかな中庭で澱んだ少年と不毛なやり取りを繰り返していたのである。


「……茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。……毎度毎度おんなじとこ読んでて、楽しいの?」


「楽しいよ?」


 期待していなかった答が返ってきて、安藤は少し面食らう。神崎は続ける。


「救い主気取りのクソペテン師がボコボコにやられているところを見るのは、気分がいいよね」


 ……なるほど?

 こりゃあやべえ感性をお持ちなようで……。安藤はちょっとだけ距離をとる。神崎は気にせずページを捲る。


「ずっとずっとずっと信じるものは救われるだとか、裁かれないために裁くなとか、右の頬を打たれたら左も差し出せとか、綺麗事と善性ばっか謳ってたやつが、いざ殺されるとなったら、我が神、我が神、エリ、エリ、なぜ私をお見捨てになったのですかレマ、サバクタニだって! ウケる!」


 性格悪いなあ。

 安藤は呆れつつ、気になっていたことを口にする。


「ものによって最後の言葉違うじゃない。『父よ、私の霊を御手にゆだねます』とか『渇く』とか。ぶっちゃけあんま聞き取れなかったんじゃない?」


「そうだね。だから僕は信じたいものを信じるよ。神の子だって祭り上げられ、つけ上がったホラ吹き野郎は、最後の最後に最愛の父に見捨てられて死んだんだって」


「……あっそ」


 性格が終わっている。ま、安藤は別に神様を信仰してるワケじゃないから、どうでもいいけど。

 神崎は笑う。そういや笑顔を見るのは初めてだったなと思う。なんともな悪人面であった。


「僕、君のこと好きだなあ。お名前は?」


「安藤陽葵。今の所、愛の告白は承ってないわ」


 神崎はケラケラ笑う。安藤は笑わず、ただ目の前に広がる花壇を見つめていた。


「ねえ、安藤さん。どうやって死にたい?」


「死にたくはないわね」


「僕は全部に絶望し切って死にたい! 世の中を恨んで怨んで憎んで死ぬの!」


「そりゃ素敵」


「ああ、幸せになりたくない。幸せになったら今までの不幸がなかったことになってしまう。だから、絶望し切って死ぬために、僕は幸せになることを拒む」


「苦しそうな生き方ね」


「幸福とは甘い毒だよ。麻薬と同じだよ。なくても平気だったのに、一度でも味わってしまったらもうそれなしでは生きられなくなる」


「ふうん……。じゃあ、幸福の定義って? 家族に愛されること? 万人に認められること? 頂点に立つこと? 天国にいくこと? 貧乏なこと?」


「自分が幸福だと思い込むことだよ」


「あら、精神論じゃない。結局心持ち次第なのね」


「そもそも己の状況を幸福であると感じるかは己の機嫌次第じゃないか」


 神崎は笑って、笑って、笑い終わったのか、急に押し黙る。


「あー……。世界滅ばないかなあ」


 花壇にイモリが走る。途中で止まる。石ころを投げたら潰れて死んだ。

 生き物は案外簡単に死ぬ。


「おわんねえかなあ!」


「いつかは終わるわよ」


「待ちきれないや。ね、安藤さん。全部終わらせちゃおうよ」


「お断りしておくわね」


「つれないなあ」


 神崎は笑う。何がおかしいのだろう。安藤はツマラナイ。期待をしないから、全てのことがつまらなくて、ありふれている。神崎の発言も精神性も、興味がない。

 安藤はただ、殺したいだけだから、興味がない。



 ……



 安藤陽葵は神崎雨音がどのような立場にいるか知らない。

 中庭以外で会ったことはないし、会おうとも思わない。なんであんな陰気臭いガキに会わなきゃいけないんだろう! 一度口を開けば『全員死ね』。二言目には『世界なんて滅べ』。物騒で暴力的な彼の話は、聞いてる分には面白いが、返事を考えるのが面倒だった。

 面白い人間ではある。

 積極的に関わりたくないだけだ。彼は外から見ている分には、とても興味深い。安藤にとってはなかなかいい人間だ。どこまでも暴力に塗れた彼の思考は戦争にはピッタリと言えるから、安藤は神崎のことが好きである。

 だから、ちょっぴり意外だった。

 あの破壊だけを夢見る夢想主義者ロマンチストが、あんな顔をするんだと。


「……わ、私は、罪を犯してしまいました」


 空っぽの礼拝堂だった。

 人気のないそこが、安藤は好きだった。単純に出入り口が一個しかないから、そこさえ閉めてしまえば誰も入ってこないところが好きだ。安心して午後の掃除をサボりお昼寝ができる。安藤はなんだかんだ言って怠惰な人間である。

 その日は先客がいた。

 安藤は開きかけた観音開きの扉を慌てて閉めて、それからちょっとだけ開ける。中を覗き見る。ついでに聞き耳も立てた。

 祭壇に堂々と腰掛けるのは神崎雨音である。礼拝時に使う大きな聖書の上に座り、その下に跪く若手の神父をじいっと観察している。おや、見たことある顔。そうだ、いつも説教してくれる神父さんだ。

 彼はこうべを垂れて、ただ神崎に平伏する。一回りも下の少年に降伏する。


「……どんな?」


 冷たい声だった。

 少なくとも世界滅亡を望んでいる時の方がよほど人間味がある。冷酷で、残酷で、それでいて慈悲深い声。神崎は興味なさげに話の続きを促す。戯れと言わんばかりに神父の頭を足で突く。

 ありふれた話だった。ぶっちゃけ安藤は途中から聞いてなかった。他人の物を盗んでしまったとか、嫉妬してしまったとか。敬虔なる、クソ真面目な信徒って感じのお悩み相談だ。


「わ、私は、どうしたら良いのでしょうか。どうしたら、赦されるのでしょうか」


 神父が恐々と顔を上げる。神崎がにこりと笑った。悪人のような笑顔を見たことがある安藤には、作り物にしか見えない。


「……主はとっくに、あなたのことをお赦しになっております。過ちを認め、私に懺悔する。悔い改め、己を恥じる。それだけで良いのです。過ちを認めることの大変さは、創世記にもある最初の殺人でお分かりでしょう。あなたは自身の罪を認め、赦しを乞うた。ならば、私は赦します」


 神崎は寒気がするような一人称と二人称、それから敬語で、ペラペラと立板に水で話し続ける。神父の目に涙が浮かんだ。

 ……感動要素どこ?

 安藤は困惑する。適当なおべんちゃらに泣く要素あったか? これなら映画ドラえもん観た方がよっぽど泣けるぞ……。

 でも神父にとっちゃあ感動もんだったらしい。ありがとうございます英雄様なんて言って、ますます平伏する。神崎はニコニコ笑っている。神父はありがてえ話と罪の赦しに夢中で作り物に気づかない。


「……気持ちわる」



 ……



「全員死なねえかなあ」


 神崎雨音は口が悪い。

 いや、悪態をつくのがうまいというわけではない。ただの本心を垂れ流した結果、はちゃめちゃな言葉遣いになった挙句、とても口が悪くなってしまうだけ。

 神崎は修道院長がいなくなると、必ず安藤に向かって悪態をつく。安藤にだけ本音を話す。それ以外は他人の罪を赦し、適当な励ましの言葉を吐くだけの人間になるのだと、安藤はこの一週間で思い知った。

 どうやら神崎に懺悔しているのは、あの若手の神父だけではないようだった。たまたま訪れた司教やら、近くの教会に勤めている神父やら、いつもご飯を作ってくれるシスターさんやら、勉強を教えてくれる修道士さんやら。誰も彼も、神崎雨音に、英雄とやらに赦しを乞う。

 気持ち悪いなあと、安藤は素直にそう感じた。年端もいかぬ子供に赤裸々な罪を告白して、赦してくだされって……どんなジョーク? 大人の問題は大人で解決しろよとしか思えない。


「あー、全員気持ち悪い。クズばっかだ! 死ねばいいのに」


「他力本願ね」


「殺したっていいけど、全員は殺せないから。だから我慢して神様とやらに祈ってるのさ」


「がんば」


「応援ありがとう。これからもご贔屓に」


 神崎は忙しなく聖書を捲る。読んでと言われたから、読む。相変わらず主が処刑されるシーンだ。飽きないのかねえ。

 安藤は蝶の羽をむしって足元に落とす。ベンチの下には無数の羽が散らばっていて汚かった。

 安藤は羽のなくなった蝶の胴体を踏み潰しながら、神崎に問う。


「……ねえ、神崎くん」


「なあに、安藤さん」


「例え話していい?」


 安藤は深呼吸を繰り返す。じっと神崎を見つめる。なんとか言葉を絞り出す。


「たとえば……そうね。じゅ、受験の話。ある子供が、親の望みで小学校受験をすることになったの」


「……それで?」


「その子は別に受験したくなかった。でも、父が望んでたから、した。たくさん勉強したわ。面接の練習も、夜中までやった。少しでも返答を間違えると、お、お父さんに殴られる、の。け、計算ミスがあったら、ご飯を減らされる、の」


 神崎がじいっと、こちらを見てくる。


「それで、受験したんだけど、ね。落ちた。不合格だった」


「……それは、それは」


「それしきのこともできないのかって、殴られたわ。死んじまえって、言われた。俺の子じゃないって、不倫を疑って、お母さんを殴った。クズだって、出来損ないだって、あ、あたし、は」


 安藤陽葵は、成功しない人間だったから。何をやってもうまくいくことはない、出来損ないで、欠陥品で、人間として不出来だったから。どうせ全部失敗すると知っていたから、自分自身で考えることが苦手になって。ますますダメになって。だから、期待をするのをやめた。無気力になった。安藤はどこまでも粗悪品だから。そう言われてしまったから!


「例え話だろ。君じゃない」


 我に帰った。

 荒くなった呼吸を整える。何度も何度も深呼吸をして、神崎はそんな安藤の手のひらを握ってくれた。ようやく、安心できる。


「……そんな出来損ないの子供は、生きる価値があると思う?」


 神崎は興味なさげに。


「知らない。僕にとっちゃあ全員気持ち悪くて生きる価値なんてないように見える」


「……」


「でも、僕は安藤さんのこと好きだよ?」


「……はは」


 気が抜ける。

 繋いだ手から力が抜けた。安藤は薄く笑う。


「ね、安藤さん。僕のこと好き?」


「……好きよ。どこまでも暴力に満ちた思考を隠して、隠して。その隠し切ったはずの本音を、英雄にあるまじき言動を、あたしだけにぶつけてくれるあなたが好き」


「僕も安藤さんのこと好き。ちょっとの会話の間でも自分に自信が持てず、ひたすら昆虫を殺していく君のことが、惨めったらしくて僕は好きだよ」


「最低ね」


「君ほどじゃないさ」

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