かこのはなし

その1 エラー

 何者かになれるという根拠のない漠然とした自信を持ち、何者かにならねばならないという意識のない脅迫に突き動かされていた時代がある。

 少年から青年になる時期だった。まだ十七の時だった。レイモンド・フォーセットは修道院長なんかではなく、一介の神父で、学者だった。

 何者かになりたかったのだろうか。

 何かを成し遂げたかったのだろうか。歴史に名を刻みたかったのだろうか。

 今となっては、よくわからない。



 ……



「助けてレイモンドー!」


 レイモンドは耳を塞いだ。時刻は午前十二時過ぎである。自室の机に座っているレイモンドの目の前には、聖書から古事記までよりどりみどりな本が散らばっていて、レイモンドは真っ白いルーズリーフにペンを走らせていたところだった。

 ドアがどんどん叩かれる。無視しておく。ペンが文字を作り出していく。


「ほんと! 一生の……じゃないけど! お願い! 助けてー! 後生だから!」


 無視しておく。ろくな目に遭わないことを、レイモンドはよおく知っているから、無視する。くわばらくわばら。


「マジで! ほんとに! 助けてレイモンド! 君が行きたがってた国のチケット、とってあげるから! なんなら経費で落としてあげるから!」


「それを早く言え!」


 レイモンドは勢いよく扉を開けた。

 あ、と思うが、時すでに遅し。レイモンドは扉を開けてしまった。そう、開けてしまったのだ。取り返しのつかぬミス。甘い言葉に釣られてついうっかり。

 扉の前には、血まみれの少年がいた。

 年齢は十七。ボサついた黒髪とほんわかした黒い瞳。修道服は袖が捲ってある。

 彼は瞳を潤ませて、心底嬉しそうにレイモンドの手を掴んだ。


「ありがとうレイモンド! やっぱり持つべきものは友だね!」


「わ、私は」


「早速修羅場にレッツゴー!」


 レイモンドは引きずられていく。手を振り解こうとするが失敗に終わる。馬鹿力である。


「ま、待て! 義信!」


「聞こえなーい。聞こえなーい。聞かなかったことにするー」


 彼は──神崎義信は、レイモンドを修羅場に導きながら鼻歌を歌った。



 ……



「疲れた……」


 レイモンドは業務外の仕事をやらされ、共同のダイニングでうめいていた。机に頭を置いて、ボケーっとしていた。


「イッヒッヒ! お疲れだねえ! レイレイ!」


「妙なあだ名をつけるな……」


 レイモンドの対面に座るのは友人である神崎義信。貴重な治癒術師。

 彼は奇跡が使える人間だ。他人の怪我を治すことができる。そのため、大規模な悪魔祓いがあると、どこであろうと駆り出された。だから神崎はレイモンドが所属する異国の教会に三泊四日の条件付きで配属されている。


「それにしても怪我人が多い……包帯もうないぞ」


 始まって二日経った。毎日毎日怪我人がここに運び込まれ、神崎が治療する。しかしちょっとの怪我なら奇跡を使うまでもないので、普通に治療する。さっきはその手伝いをやらされたのだ。あんだけ買い込んだ包帯はもうなくなってしまった。


「そりゃたいへーん! 明日からどうすっぺ?!」


「……テンション高くないか?」


「いやいや! 全然酔ってなんかなあーい! 神崎さんがそんなに弱いと申すか!」


 レイモンドは頭を上げ神崎を見る。

 べらぼうに酔っ払っていた。酒瓶を大事そうに抱えて直で飲む神崎を、レイモンドは呆気に取られながら見る。てか酒飲んでんじゃん。未成年飲酒に頭を抱え、レイモンドは酒瓶を奪った。


「ひどい! 鬼! 悪魔!」


「未成年が飲むなバカ!」


 ぴいぴい泣き始める。泣きながらゴソゴソとポケットをあさっていると思ったら、ライターと煙草の箱が取り出された。

 神崎は手慣れた様子で煙草に火をつけ、吸い込む。紫煙が上る。


「あー、やっと吸えたわー。やっぱ仕事終わりの一服が最高」


「未成年が吸うなバカ!」


「いいじゃんちょっとぐらい!」


 レイモンドは馬鹿でかいため息を吐いた。顔を真っ赤にし、煙を吸い込む神崎を呆れ果てた目で見る。


「……吸わなきゃやってらんないよ」


「……」


「今日もたくさん死んだ。十人、死んだ。間に合わなかった。僕では治せなかった」


「……別に、貴様のせいではないだろう」


「それでも、救えなかったことは事実だよ」


 備え付けの灰皿に煙草を置いて、神崎は遠くを見つめる。


「……どうかあなたの魂が主によって導かれますように」


「散々祈ったろ」


「祈っておくのは悪いことじゃないし、全員は祈れてないから」


 神崎は両手を組み、祈りの言葉を唱え始める。レイモンドもそれに従う。

 神崎義信は優しい人間である。

 誰かを救いたいと思っている。自分の力を使って、奉仕したいと思っている。あくまで学者であるレイモンドとは違って、コイツは本当の、敬虔なる信徒なのだ。

 尊敬はしている。

 しかし、甘っちょろいのは事実だ。彼は悪魔使いが死ぬことすら拒む。悪魔使いが赦されるように祈る。本来ならば手も合わせなくていい外道に、祈る。死を悼む。

 優しさは時に弱点となる。

 しかし、優しくなるなとは言えない。神崎義信はそこがいいところだ。だから、友人の自分がなんとか守ってやらねばならない。

 火のついた煙草から、ゆらゆらと煙が上がっていた。



 ……



「んで、研究はどんな感じ?」


 神崎の祈りが終わったあと、聞かれた。レイモンドは重要な部分だけ答える。


「術式の代償の軽減化だが、なかなかうまくいかないな。奇跡を薄めれば薄めるほど代償は軽くなるが、どうしても威力が落ちる。威力を高めたまま代償をなくすとなると、それはもう才能だとかの話になってきて……とにかく、進まない」


「難儀だねえ」


「どれだけ難儀だろうがやるさ。死人が減る。誰でも使えるようになるから、貴様の負担も減る。殉職率が減れば大人は死なない。人数補填のために子供が戦場に駆り出されることもない。しっかりとした教育を受けたあと、戦場で活躍できるだろう」


「色々考えてるんだねえ。えらいえらい」


「褒め方が適当だな」


 レイモンドがため息を吐き、神崎は笑った。ゆったりと時間が流れていた。


「貴様の運営する修道院は大丈夫か?」


「大丈夫さ。修道院長とはいっても、僕はお飾りみたいなもんだしね。みんないい子だし、慣れてるだろうし。ついでにバックアップは頼んでおいたから、僕がいなくてもやっていけるよ」


「オイオイ、謙遜はよしてくれよ修道院長サマ? 奇跡の使い手くん」


「もー、からかってるだろ」


 神崎が頬を膨らます。レイモンドは悪い悪いと心にもない謝罪をした。

 神崎は甘崎修道院というところの修道院長である。ちなみに修道院長としては最年少だ。この友人の地位はなかなか高かったりする。


「……君もこっちにきたらいいのに」


「そうだなあ。アルベルトがもう少し大きくなったら、そちらに行くのも悪くない」


「ああ、アルベルトくん……。元気?」


「元気さ。度胸なしなのは相変わらずだがな」


「それもまたいいとこだよ。みんなに優しいし」


「それはそうだが……ことあるごとにセドリックの後ろに隠れてしまうのはどうにかしたい」


「セドリックくんかあ。あの子はあの子で背伸びしがちだからねえ」


 神崎が久々に会いたいなあとこぼす。明日会いに行くかと提案し、あれよあれよと予定が決まる。

 楽しみだ。



 ……



 アルベルトとセドリックは孤児院にいる。

 早朝。アポをとって、お昼頃に行くと伝えた。会うのは久しぶりだ。神崎とバスに乗って三十分。目的地につく。


「お、お兄ちゃん……!」


 入口で手続きをしていると、一人の少年が駆け寄ってきた。

 年齢は九歳。レイモンドとお揃いの明るい茶髪と、同じ色をした瞳。パタパタと走ってきて、レイモンドに抱きつく。


「おかえり!」


「ただいま、アルベルト」


 頭を撫でてやった。

 この子こそが、レイモンドの年の離れた弟であるアルベルト・フォーセット。目に入れても痛くない、レイモンドの大切な人。

 アルベルトがレイモンドの服を引っ張る。影に隠れて、手続きをしている神崎を観察する。


「……」


「お、アルベルトくんだあ。久しぶりだねえ」


 ますます縮こまって隠れてしまう。


「ほら、ご挨拶しようか」


「おはよう、ございます……」


「うん、おはよう。いやー! 大きくなったねえ!」


 神崎はアルベルトに笑いかけて、アルベルトも少しだけ微笑んだ。


「アルベルト!」


 また一人、少年が駆けてくる。アルベルトの名を呼びながら近づいてきた。

 年齢は十一歳。キラキラとした金髪と、意思の灯った青色の瞳。

 セドリック・ライトフット。


「勝手に行くなといっただろう! オマエはすぐ転ぶんだから、ぼくと一緒に……」


 レイモンドと神崎に気づいて、セドリックはお説教を止めた。向き直る。


「お久しぶりです、神崎さん、レイモンド兄さん」


「久しぶりだねえ! セドリックくん。やっぱ大きくなったねえ」


 ひらひら手を振る。セドリックがアルベルトに説教の続きを開始した。すぐ転けるくせに走るなとか急いだところで会えるかもわからないんだからゆっくりいけとか、そんなことをとうとうと語る。アルベルトは縮こまり、ますますレイモンドの背に隠れてしまう。


「そこらへんにしておけ、セドリック」


「でも、兄さん。コイツほんとにすぐ転けるんですよ。この前は何もない廊下で転けて泣いてました」


「い、言わないでよお……」


「この前はおやつのプリン持ったまま転けて泣いてました」


「そ、それは仕方ないじゃんかあ……!」


 アルベルトの目が潤んで、ぐずぐずと鼻を鳴らし始める。

 あ、やばい。


「どおどお。泣いちゃったから、いったんストップだよー」


 レイモンドはしゃがんでアルベルトの涙を拭ってやる。神崎がいじけ始めたセドリックの相手をしているようだ。あっちもあっちでカッコつけたい年頃なのか、扱いが難しい。


「ぼ、ぼく、いつもは泣いてないもん……」


「知ってる知ってる。ほら、泣くな泣くな。せっかくの可愛い顔が台無しだ」


「可愛くない……! かっこいいがいい……!」


「はいはい、かっこいいぞー。だから泣くのやめようなー」


 さらにぐずり始めた弟を抱っこしてあやす。何歳になっても甘えん坊だ。可愛いからいいけどさ。

 ……願うのならば。

 いつまでも、悪魔祓いなんてせずに、幸せに生きていってほしいと思った。



 ……



 帰り際。夕暮れ。

 レイモンドも神崎も仕事がある。だからこの時間までが限界だった。本当はもっと遊んでやりたかったけど仕方ない。まだ戦争は続いている。


「……お兄ちゃん」


 見送られつつバスを待つ。アルベルトがぎゅっと手を握ってくる。


「悪魔って、どんなの?」


「そうだなあ……」


 レイモンドは思考を回す。どう伝えるのが正解だろうか。まあ、ぼかしつつでいいかと適当に答える。


「夜更かししてる子の元に現れて、明日のおやつを奪ってくる奴らだ」


「ひえ……」


「それと歯磨きしない子がいると虫歯を作る。たくさん」


「ひいい……」


「あと──」


「そこまでだよ、レイモンドくん」


 ため息を吐いて神崎が呆れたようにレイモンドを見る。舌を出して戯けた。


「いい子にしてれば悪魔は来ないから大丈夫だよ。それに、君のお兄ちゃんはエクソシスだぜ? 悪魔祓いの専門職さ。来たとしてもレイモンドくんが守ってくれるよ」


「そりゃ守るが……貴様もエクソシストだろうが」


「僕は医者だもの。悪魔祓いは専門外。……あとでお説教だからね」


「おいおい、そんなに怒るなよ」


「レイモンド兄さん……」


 レイモンドと神崎の仕事内容及び、教会と悪魔祓いのことを知っているセドリックに呆れられる。流石に反省してみた。六歳も下の子供に呆れられると心にくるのだ。


「じゃあ、またな。アルベルト、セドリック」


「またね、お兄ちゃん、神崎さん」


「それでは、ご無事で。レイモンド兄さん、神崎さん」


「またねー! 二人とも!」


 アルベルトとセドリックに手を振った。また近いうちに会いに来よう。仕事がひと段落したら、神崎のところに行ってもいい。セドリックは神崎のような治癒術師になりたいとこぼしていたようだし、神崎を師としてもいいだろう。

 バスに乗り込む直前。


 レイモンドは、孤児院からこちらを睨んでくる少年を発見した。


 ……誰だろう? レイモンドは全員の顔と名前を覚えているはずだ。最近来た子だろうか。それにしても、なぜ睨む。少し騒がしくしてしまったから、それか? 迷惑だっただろうか。次回はもう少し大人しくしておこうかな。

 バスに乗る。これから仕事かあ……。疲れているけど、仕方ない。頑張らねば。



 ……



「レイモンドくん!」


 ドアを強くノックされて、レイモンドは目が覚めた。

 ごちゃついた机。たくさんの本を枕にしてレイモンドは居眠りをしていたようだった。広げられたノートは真っ白だ。椅子に座ったまま寝ていたせいで痛む体を起こしながら、レイモンドは目を擦る。また神崎が来たのかと思い、無視しようかどうか考える。


「早く! アルベルトくんたちが!」


 目が覚めた。

 廊下に飛び出す。怯えたような、信じられないとでもいいたげな顔をした神崎が、レイモンドの腕を掴んで廊下を走る。


「何が起きた!?」


「こ、孤児院から通報が。教会のことも悪魔のことも知ってたから早い段階であって。で、でも最初の通報から電話がない! 被害がわからない!」


 なんで。

 会ったばかりだろう。

 レイモンドはエクソシストの端くれではあるが、本質は学者である。戦えないエクソシスト。レイモンドは研究職としてこの教会に勤めていた。

 だから、ここでレイモンドが急いだって何にもならない。けど、足は早まる。神崎を追い越して教会を飛び出る。用意されていた車に乗った。

 後から来た神崎も乗せて、車が発進する。


「なんで……!」


 なんで、あそこが。

 教会関係だとバレたのか? そんなはずはないと言い切れないが、でも、それでもないはずだ。そもそも、教会と関係があると言っても、エクソシストを養成している機関ではない。


「大丈夫、大丈夫だよ……」


 根拠のない慰めを神崎が呟く。

 聞きたくない。

 しばらく揺られていたら孤児院についた。神崎の言葉を無視して車から飛び出て、レイモンドは表門の鍵が開いていることを確認する。

 中に入った。


「……ひ」


 まず目に入ったのは、孤児院のスタッフの遺体だった。

 首が切断されて、ホールに並べられている。レイモンドは口元を押さえて、それでも中に進んだ。

 血のせいで、走りづらい。何度も足を取られながら施設内を見ていく。くまなく、確認する。

 発見したのは、プレイルームに転がる四人の遺体だった。

 腹が切り裂かれて、臓物が飛び出ている遺体がある。目ん玉が抉り取られて、そこに線路のおもちゃが突っ込まれている遺体がある。口からぬいぐるみの足が飛び出ている遺体がある。縄跳びの紐がぎゅうぎゅうに首に巻き付いた遺体がある。


「ベッキー、ミランダ、タイラー、ディック……」


 無意識に名前を呟いて、そこでレイモンドはその子たちであると認識した。

 悲鳴を飲み込んで走る。廊下のあちこちに遺体があった。水槽に頭を突っ込んで死んでいるのは寂しがりやのハイマン。目と喉にボールペンが突き刺さっているのはお調子者のサイラス。二段ベッドで手を繋いで首を吊っているのは仲良し双子のリサとリズ。頭をかち割られて死んでいるのはおとなしくて本が好きなスコット。そんな彼の兄であるスタンリーは自身の切り取られた首を抱えて死んでいる。世話焼きなロージーは本棚の下敷きになっていた。鉄パイプで串刺しになって、ピンクが好きでお姫様になりたいと言っていたアメリアが死んでいる。アメリアの親友であり、警官を目指していたカールトンは口から泡を吹いていた。その横に紫色の吐瀉物を撒き散らして死んだだろう、食いしん坊のギルがいる。


「違う違う違う……!」


 現実を否定しながら走る。まだ死体は続く。

 飾られた大きい十字架に磔になって死んでいるのはどこか夢見がちなギャレット。割れた窓ガラスが全身に突き刺さっているのは動物が好きで将来は獣医になるのだと言っていたエスター。全身あざだらけで転がっているのはガキ大将だったケインだ。その横でナイフが刺さったまま死んでいるのはケインに恋をしていたカトリーナ。四肢がもぎ取られて死んだのは絵を描くのが好きなシャーリー。頭が黒焦げになって死んでいるのはかけっこが得意なニコラス。いつものほほんとしていたキャシーは口から土をボロボロこぼしながら死んでいる。


「アルベルト! セドリック!」


 どうかどうかどうか!

 あの二人だけは!


「どうか、お救いください……」


 レイモンドは二人の部屋を開ける。あの二人はルームメイトだ。アルベルトは怖い夢を見た時、セドリックのベットに潜り込む癖があるんだ。


 ……いた。


 血まみれになった、部屋の中心。なぜか怪我のないセドリックは赤く染まったアルベルトを抱えながら座っていた。

 レイモンドが駆け寄る前に、セドリックが口を開く。


「なんで」


 ひどく、苦しそうに。


「なんで、助けてくれなかったの……?」

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