3-4 英雄英傑コンフリクト

 正直に言えばよかったのか。

 なし崩し的に兎内沙羅を殺す事が決定してしまった事に、安藤は悩んでいた。そりゃあもちろん皇と神崎だったら有無を言わさず神崎についていくんだけど、それでも皇の言葉が気になる。安藤は結構思慮深いのだ。やっちゃダメってんならそれなりの理由があるのだろうし、なんてったってあの皇である。無駄な連絡はしてこないはずだ。そのはず。きっと。多分。情報屋にすっぱ抜かれるリスクを冒しておいてまさかジョークって事はあるまい。……ないよね?

 神崎と安藤は射撃場を出て、教会内の居住区部分の廊下を歩いていた。

 兎内沙羅を殺すためだ。探し当てて、殺す。絶対に殺す。そう、殺した方がいいに決まっている。あの少女はアスモデウスを制御できていない。振り回されている。少なくとも、出鱈目な証言を読んで、安藤はそう感じた。代償にしては多すぎるのだ。死にすぎている。殺しすぎている。アスモデウスの言いなりになっている。てか、皇五十鈴が特例なだけで大罪の悪魔なんて制御できるものではないのだけど。

 とにかく、アスモデウスは祓う。忠告? 無視だそんなもん。傲慢の悪魔使いの言うことが信じられるか。それでいい。安藤は、それでいいはずだ。よし、いつもの調子が戻ってきたぞ。


「兎内沙羅ってどこらへんにいるの?」


「……知らないで歩いてたの?」


「知るわけないじゃん。僕は顔すら、声すらわからないんだから」


「それもそうね」


 呆れ果てながらも安藤が先行する。道先案内人である。

 兎内沙羅は一等豪華な客室にいたはずだ。オモチャとドレスとエクソシストに囲まれて、毎日がお誕生日ガール。永遠のお姫様扱い。正気に戻ったセドリックが泡を吹くだろう。かわいそうだが自業自得。なんなら皇に請求すればいい。

 ……上手く頭が回らない。

 さっきから突拍子もないことばかり考えている。まとまりがない。不安定で、上がり下がりが激しい。どこまでも科学信仰者な自分の体質が恨めしいのか、ありがたいのか、よくわからなかった。でも神崎の味方になれたのだし、いいか。いいってことにしておく。今は、考えたくない。


「あ、安藤先輩だー」


 前方から暗闇が近づいてきた。

 正確には、暗闇の中から佐山祥一郎が出てきた。ヘラヘラ笑いながら、大きなテディベアを抱えながら、佐山は近づいてくる。


「どうしたんですー? 沙羅ちゃんにあいにきたんですかー? ようやく安藤先輩も沙羅ちゃんの魅力に気づきましたかー。可愛いですよねー、沙羅ちゃん。レイモンド修道院長のことは苦手みたいですけどー、まああんな無愛想なおっさんですからー、近づいてきたら排除するだけですねー」


 思っていたより重症だった。

 えー、こんなんだったっけ……。今まで気づかなかった安藤がバカみたいじゃないか。この調子だとみんなダメそうだな。誰よりも悪魔を嫌う佐山がこんな調子なんだから、もっとダメになっているだろう。神崎の言った通りだった。安藤は頭を抱える。なんてこったいである。

 神崎がぼそっと呟いた。


「……味方増やそうかあ。うん、もう一人いた方が都合がいいよね」


「どうやって? もう手遅れじゃない?」


「やだなあ安藤さん。僕たちはエクソシストだよ? 悪魔祓いぐらい出来なくてどうするのさ」


 そう言って神崎はスタンガンを取り出す。バチバチッ! と先っぽに電撃が走る。

 人間は案外短期間で成長するものらしい。



 ……



「ひ、ぎゃあー?!」


 なんとも情けねえ悲鳴である。

 告解室、またの名を尋問室。桜庭和子が運び込まれた、四方をブルーシートで覆った無骨な空間で、椅子に縛り付けられた佐山はびしょ濡れになった。安藤がやった。


「な、ななな、何するんですかー! いきなり人をびちょびちょにして!」


「気分はどう? 佐山くん」


「最低に決まっとりましょう安藤先輩! なんですかー! おれが何をしたって言うんですかー! なんか縛られてるしー! 新手の拷問ですかー!」


「うん、良さそうだね。賞味期限、四年前だったけど効いてよかったー」


 実行したのは由緒正しき悪魔祓いである。

 悪魔祓いは本来、人間に取り憑いた悪魔を祓う儀式だ。十字架押し付けたり葉っぱ焚いたりなんやかんやしたり。その中でも今回は簡単なものにした。

 要するに、聖水を頭からかけてやったのだ。

 まずスタンガンで気絶させた佐山を告解室まで持っていく。失敗したとき暴れられたら困るので椅子に縛り付けて、それから古臭い小瓶に入った、年月により濁った液体をぶちまけた。ご利益あんのかなあと思ったけど効いたのでモウマンタイ。成功すればその過程はどうでもいいのだ。

 安藤は空っぽになった小瓶を放り捨てる。ゴミ箱にストライクだった。やったね。


「兎内沙羅のことはどう思ってる?」


「そりゃ、孤児院の生き残りで、被疑者で……ええっ! なんか知らない記憶があるんですけどー?! やだー! 気持ち悪いー! なんでおれは兎内沙羅に今までの給料全部使ってオモチャ買ってたんですかー?!」


「知らないわよ」


「まともになってよかったねえ」


「よくないですよー! うう……おれが大事に貯めてたお金が……」


 哀れである。

 しかし哀れんでいる暇があったらアスモデウスを祓うべきである。神崎は拘束を解き始めた。佐山は泣いている。


「……一体全体、どういうことですかー」


「兎内沙羅は色欲の悪魔使いで、みんなアスモデウスの言いなりだった」


「簡潔にドーモ。てかアスモデウスですかー。大罪の魔王、色欲。厄介ですねー」


 冷静である。

 佐山の長所は悪魔をとことん嫌っているところとすぐに冷静になれるところだ。


「じゃあ、なんですー? 兎内沙羅に乗っ取られてるんですかー? この教会」


「そうね、マトモなのはあたしたちだけ」


「最悪ですねー」


 佐山が自由になった足で立ち、腕を回す。神崎は数年間放置されていた聖水を引っ張り出している。ドロドロに濁ったやつあるけど、本当に効くのだろうか。安藤は絶対被りたくない。えんがちょである。


「じゃ、とりあえず聖水でどうにかしよっか。佐山くんもいることだし、ちょうどいいね」


「うへー、メンドイですー」


「君にしかできない仕事だよ。ほら、さっさとやる」


 しなしなになっている佐山の背を押して、神崎は聖水の瓶を一本振る。

 そこで、電話が鳴った。

 告解室の電話はもう何年も使われていないはずだ。そもそもこんな機密性の高い場所に置かれた電話の番号なんて知ってるやつがいない。埃を被ったソイツは、久しぶりの仕事に喜び甲高い音を出して主人を呼んでいる。

 安藤は埃に塗れた受話器を持ち上げた。


「……もしもし。こちら一番隊見張り役、安藤陽葵。ご用件は?」


『やあやあ、元気にしているかね、陽葵くん』


 切りたい。

 切っていい? 今、このタイミングで電話とは、なんとも運がない。佐山と神崎がじいっと見てくる。電話の主が誰か、気にしている。

 安藤は息を吐いた。ここで隠してなんになる? なんにもならねえ。なら言うだけだ。神崎ならなんとかするだろう。


「……元気になんてしてないわよ、傲慢の悪魔使い」


『おや、風邪かい? お大事にな』


「さっさと要件を。こっちも忙しいのよ。みんな操られてて、悪魔祓いどころじゃないわ」


『……操られている?』


「そーよ、大ピンチ。あんたにかまっている暇はないの」


 皇は沈黙する。黙り込んで、何かを考えているようだった。


『……おかしい』


「なにが。言いたいことはないの? じゃあ切るわよ」


『なあ、本当に操られているのか? 兎内沙羅にか? ラファエルの器がいるのにか?』


「操られてるって言っているでしょう。もーいいでしょ、切るわ」


『待ってくれ、よく考えてみろ。アスモデウスは──』


 そこまで聞こえたところで、横から受話器を奪われた。

 神崎だった。曇った瞳を真っ直ぐに向けながら、電話口の相手に挨拶をする。


「初めまして、傲慢の悪魔使い」


『……英雄か。邪魔をするな。今は陽葵くんと話している』


 意外と会話は聞こえるものらしい。安藤は息を潜め、集中する。


「うん、安藤さんは僕のものだから、勝手に話しかけないでくれる? 要件があるなら僕が聞くよ」


『過保護もほどほどにしてくれたまえ。男の嫉妬は見苦しいぞ』


「あはは、守るのが僕の役目さ。いちいちケチつけないでくれるかな」


 皇がため息を吐いた。受話器から舌打ちが聞こえる。


『……兎内沙羅を殺すな』


「無理な相談だね。僕は安藤さんみたいに優しくないから、悪魔使いの言うことなんて聞けないよ」


『おかしいんだよ。とにかく、手を出すな。殺さず守るのは英雄の十八番だったはずだろう』


「兎内沙羅は殺すよ。てかもう死んでるんじゃない? 君も被害者の証言見たらわかると思うけど、明らかに制御できていない。余計な供物を捧げている。乗っ取られている」


『……そんな、はずは。あの子が乗っ取られる? 逆だろ! そうだ、ラファエルの器がいるのに教会に執着する、その意味がわかったぞ。……絶対殺すな。兎内沙羅を殺すな。アスモデウスが野放しになった方がマシだ』


「そう。でも殺す。アスモデウスは僕が祓う。失敗したくないし、安藤さんの具合も悪くなっちゃうからね」


『ああもう強情だな! いいか、死にたくなかったらアスモデウスを祓うな! 再三に渡る忠告はしたぞ。よく考えろよ神なんかに仕えるアホ犬。アスモデウスがラファエルがいる場所に留まる理由はなんだ?』


 アスモデウスは、天使ラファエルと魚の肝を嫌う。

 そうだ。ここには天使ラファエルの器であるレイモンド・フォーセットがいるじゃあないか。居心地は悪いなんてものじゃないはず。留まる理由なんてないに等しい。

 何故、操る。何故、ここを己の城にしようとする。


「言いたいことはそれだけ?」


『……まだ信じないか! クソッ! もうどうなっても知らんからな!』


 乱暴に電話が切られた。

 神崎は受話器を置いて安藤に向き直る。


「最初に電話があったのっていつ?」


 息が詰まった。言葉が詰まった。思考が止まる。ただえさえ鈍い脳みそが、動かなくなる。


「それ、は」


「話してたよね、前にも。これが初めてじゃないよね。いや、推測だけどさ。一瞬だったけど先輩後輩になった君たちのことだから、悪口軽口入り混じる久闊でも叙するんじゃないかと思っただけだよ。で? 電話きたのっていつ?」


「あ、あたし、隠してたワケじゃ、ない」


「知ってるよ? 言うタイミングなかったもんねえ。別にせめてはないんだから、正直に言ってほしいなあ」


 怖い。

 ただ単純に、英雄であるこの子が怖い。英雄が恐ろしい。


「あ、あたしは」


「アスモデウスのことも知ってたはずだよね。君、あんま驚いてなかったもん。殺すなって言われたから殺さず話さずいたんだろうけど、そんなホイホイ敵を信用しちゃうの、どうかと思うなあ」


 神崎は安藤の火傷痕を触る


「いたそうだね」


 佐山はどこに行ったのだろう。助けてくれないかなと思ったけど、この状況から逃げてはいけないとも思う。安藤は座り込む。腰が抜けたのかもしれなかった。


「ね、僕のこと好き?」


「……好き」


「うん、僕も好き。生まれながらの殺人鬼である君を赦せるのは僕だけだし、英雄ではない僕を理解してくれるのも君だけだもんね。じゃ、アスモデウスはどうするべきだと思う?」


「……殺したら、どうなるか」


「僕のこと、信用できない? 僕は大丈夫だと思うなあ。傲慢の悪魔使いはただ単に、自分の駒を減らしたくなくて嘘を吐いたのかもしれないよ」


 神崎は安藤の火傷痕を触るのをやめない。くすぐったい。


「僕は殺すべきだと思う」


「……」


「君は?」


「あたし、は」


 どうするべきか、わからないけど。

 それでも、神崎がそう言うなら、従いたいと思った。


「祓わなきゃいけないと思う……」


「よしっ! それでこそ安藤さんだ!」


 神崎が笑う。屈託のない笑みだった。

 神崎が嬉しそうだから、いいや。

 考えたくない。いや、考えられない。思考に靄がかかってわからなくなる。でも、神崎の言うことを聞いていれば、なんとかなるかもしれない。きっとそうだ。そうに違いない。

 安藤はもう、何も見たくなかった。



 ……



「……神崎せんぱーい」


「なあに?」


 ぼんやりとした安藤を嬉しそうに眺めている我らが英雄、神崎雨音に声をかけた。


「安藤先輩が体調悪いのって、アスモデウスのせいなんですよねー?」


「そうだよ? 科学で構成されたこの子は神のご加護、悪魔の誘惑に強いからねえ。火傷残っちゃったけど、こういう時は役に立つ。抗い続けてちょっと体調悪くなっちゃったねえ」


「でも、こんなになるのはおかしくないですかー? 麻薬キマりたての中毒者もかくや。いくらアスモデウスの権能に抗ってたとしても、おかしいんですよー」


「……」


「神崎先輩。あんた、安藤陽葵が思考することを拒絶してませーん?」


 神崎が笑った。しかし、薄汚く、薄暗く、どこまでも悪どい笑みである。


「……で? してるから、なに?」


「うわー! 引きます。いくらなんでもそこまでしますかー? 天下の英雄が聞いて呆れますねー」


「勝手に呆れててよ。安藤さんを守るにはこれが最善なの。戦場で迷うと怪我しちゃうからね。僕は安藤さんの盾だから、守ってあげないと」


「詭弁にもなってませんよー」


 佐山は神崎と距離をとった。こんなイカレに近づきたくはない。安藤はさっきからぼんやりしてるし、神崎はそんな安藤を見てニコニコしている。マトモなのは佐山だけだ。チクショウ。どうしてこうなった。


「でもさすがに安藤さんが弱ってなかったら僕にもできなかったよ。ぶっちゃけ加減むずい。気を抜いたら頭爆ぜちゃうかも」


「おわ……」


「何その反応。大丈夫だよ。僕が安藤さんを殺すワケないじゃないか」


 くわばらくわばら。佐山はもう少し距離をとる。こんな奴らに構っている暇はない。佐山にとってはアスモデウスを祓う方が重要なのだ。にっくき悪魔は全員殺す。悪魔使いも殺す。どんな過去を背負っていようが関係ない。絶対に、殺す。佐山はそれだけを信念として、この数年間生きてきた。

 迷いはない。そもそも、傲慢の悪魔使いのことなんて信用していない。佐山にとって悪魔使い、および悪魔は会話のできる害獣である。

 佐山は小瓶を手に取る。数本拝借しポケットにしまった。重い。


「そんじゃ、案内しますよー。アスモデウスの元まで一直線にねー」



 ……



 佐山が兎内沙羅に操られていたときの記憶はない。

 ないというか、定かではないと言った方が正しいか。どうも曖昧。どうも模糊。どうも不可解、不明瞭、不鮮明。ただ兎内沙羅のことだけ考えていたのを、ぼんやり覚えている。

 だから、兎内沙羅がどんな人間なのかはわからない。可愛らしい。そうかも。恐ろしい。そりゃそうだ。犯人。それは単なる事実では? とにかく外聞で判断するしかない。それによれば兎内沙羅はアスモデウスを制御できていないそうだ。あくまでも神崎が言ったことだけど、とりあえず信用しておこうじゃないか。

 それよりも重大重要、絶対的課題で問題と言える壁がある。


「安藤さん、段差あるよ」


「……ん」


 安藤がこんな調子で、どうするというのだろう。

 神崎はきっと、安藤を戦わせたくない。アルベルトやセドリックが神崎に心酔しているように、神崎は安藤を信仰している。怪我をさせたくない。危険な目に遭わせたくない。死なせたくない。人を思う気持ちを持つことはいいことだけど、ベクトルと重さを間違えたら加害となることを理解していないようだ。


「……どう戦うおつもりでー?」


「よーはアスモデウスを兎内沙羅から引き離しちゃえばいいんでしょ? 今夜は君の独壇場。主人公。主役だね。ジェクリルキャッツとして存分に活躍してくれたまえ」


「うれしくないですー……」


「嬉しくなかろうがなんだろうがやるのが仕事だよ」


 このスパルタ上司め。

 しかし、この状況だと戦えるのが佐山しかいないのも事実だった。神崎はきっと安藤で手一杯。術式的にも佐山が適任で、それ故に嬉しくねえお鉢が回ってくる。


「ここら辺にしましょーか」


 佐山は道半ばで止まった。告解室を出て一分の、廊下の真ん中。兎内沙羅のお姫様部屋までは階段を上る時間を含めて徒歩五分の距離である。


「結構遠くない? 大丈夫?」


「何、波に距離なんて関係ありませんよー」


 佐山は海が嫌いだ。

 湖が嫌いだ。雨が嫌いだ。嵐が嫌いだ。佐山は、水が嫌いだ。

 だからこそ利用しようと思った。にっくき仇は水を己の味方とする。ならば、相手の土俵に上がり完膚なきまでに叩き潰したいと思うのが人間で復讐者で佐山祥一郎である。……思わない? では訂正。それが復讐者、佐山祥一郎である。

 佐山は聖水の入った小瓶を床に落として叩き割った。

 水たまりができる。続けて二本目、三本目、四本目。大きな水たまりの完成だ。

 佐山は深呼吸をし、水たまりを踏んづける。


「奇跡としてはあまりに陳腐。あまりに普遍。あまりにオーソドックス。主は洪水を作り湖を渡り嵐を沈め海を割る」


 ぴちゃんと、水面が揺れた。


「水は恵みであり、日々の糧である。主がくださった慈悲である」


 揺れる。揺れる。佐山は一歩も動いていないのに、渦ができる。


「水は呪いであり、日々の危機である。主が下した審判である」


 水たまりはごうごうと音を出しながら荒れる。佐山は動じず、唱え続ける。


「哀れなる祓魔師に悪魔を祓う武器を。害悪そのものである悪魔に主の裁きを。──ただ、我らに主の加護がありますよう」



 ──水滴が、浮いた。


 雨を逆さまにして途中停止したかのようだった。水たまりから溢れた水はふわり宙を舞い、浮かび上がる。


「……準備万端?」


「ですねー。ちゃちゃっと終わらせちゃいましょー」


 佐山は人差し指を廊下の奥に向けた。

 宙に浮いた水滴が、佐山の指差した方向に向かって猛スピードで発信する。


「まずは小手調べ。出てくるのが鬼であろうが、蛇であろうが、聖水で粉微塵にしてしまいましょーか」



 ……



 水鉄砲に当たると痛い。

 そりゃあ百均で売っているようなおもちゃの水鉄砲から噴射される水に当たったって痛くも痒くもないが、ちゃんとした(ちゃんとしたというより、高価な大人のおもちゃとしての)水鉄砲だと痛い。それなりの速度で発射される水は、当たると痛い。プールに腹から飛び込んだら普通に悶絶するように、水は別に柔らかくともなんともないのだ。


「見張りは全員片付きましたねー」


 超高速で噴射された水滴に頭を殴られノックアウトした同僚十人を眺めながら、佐山は報告しておいた。


「意外と少ない? そうでもないか。それにしても、随分可愛らしくデコったもんだねえ」


 現在、佐山と神崎は兎内沙羅の根城──客室の扉の前にいた。

 なんともまあ、やりたい放題。『とないさら』と可愛らしくパステルピンクで書かれたネームプレートがぶら下がった扉は、大量のリボンで装飾されていた。メルヘンにも程があると思わないのかね。

 ちなみに安藤は置いてきた。水たまり付近で座り込んでいるはずだ。あの調子じゃ動けないだろうから。


「これ、何で付けてるの? テープ?」


「確か木工用ボンドだったと思いますよー」


「うわ、片付けめんどくさそー」


 他人事である。神崎と佐山は清掃部隊の人間ってわけじゃあないからね。いつもお仕事お疲れ様です。


「じゃ、やろっか。兎内沙羅殺し。安藤さんが目を覚ます前にね」


 神崎はなんてことないように、扉を乱暴に開け放った。


 中には一人しか──否、一体というべきか。

 とにかく、兎内沙羅しかいなかった。


 パステルカラーのエプロンドレス。誰かのプレゼントだったと思う。てか、彼女の身の回りを構成するすべてが捧げ物だったと記憶していた。彼女は天蓋付きのベッド(もちろん誰かが買ったやつ)に腰掛けて、聖書をめくっていた。

 神崎は笑いかける。


「信心深いね」


「悪魔に信心深いもクソもあるかしらあ、英雄さん」


 声が違った。喋り方も違った。

 甘ったるく、脳みそがべちゃべちゃに溶けるような、外国のチョコレートのような声だった。不愉快なまでの甘味。顔を顰める。

 そんな佐山を見て、兎内沙羅は──アスモデウスは、驚いたように目を見開いた。


「あらあら、エクソシストの坊や。魅了が解けちゃったのねえ。かわいそうだわあ。……祥一郎おにーちゃん。サラのこと、また好きになってよ」


「その声でそのセリフって……フツーに無理ですー。てか悪魔だし、悪魔使いだし」


 器用に兎内のときの喋り方を真似て、アスモデウスはクスクス笑った。聖書を放り投げる。


「英雄のバディさんはどちらにい?」


「教えると思う?」


「あらあら、わたしは親切心で言ってあげているのよお? 正直言って、あの子を一人にするのは悪手だったわねえ」


「……どういう意味?」


 神崎から余裕が消えた。佐山はいつでも術式を発動できるよう身構える。

 アスモデウスは嗤う。ひどく妖艶に、美しく、可愛らしく、惚れ惚れするような、悪どい笑みで。


「傲慢の悪魔使いが、兎内沙羅殺しを達成しようとしている英雄を止めに、コチラに向かってきているのよお」



 ……



 兎内沙羅。

 彼女は物語の舞台に上がることはない。彼女は情報屋と同じく、舞台に上がることを拒む人間である。いやいや、情報屋のように完璧な脇役を目指しているワケではないのだが……。それはさておいて。

 舞台に上がらずとも、舞台上では誰も彼もが彼女を褒め称え、畏れ、敬い、忌諱している。彼女が表に上がったことはない。安藤陽葵が見た兎内沙羅はアスモデウスであり、兎内沙羅ではない。だから、ここまで出てきた兎内沙羅の情報はすべて伝聞、誰かの妄想で、兎内沙羅を決定づけるものではない。それなのに、あの皇五十鈴さえも巻き込んで、舞台は兎内沙羅を中心に回っている。

 なぜ殺すのか。

 なぜアスモデウスに乗っ取られているのか。

 なぜ舞台に上がらないのか。

 それは兎内沙羅しか知らない。兎内沙羅にしかわからない。兎内沙羅にだってわかっているかどうか怪しい。


 しかしながら。これだけは覚えておいてほしいものだ。


 兎内沙羅は、どこまでも愛情深く、嫉妬深く、慈悲深く、そして、待つことが嫌いであるのだと。


「どーかそれだけ覚えておいてね、アズちゃん」



 ……



 きっとこの物語は舞台の端っこも端っこ。幕間を埋めるためだけのくだらない物語であると、アルベルト・フォーセットは知っている。これでも天使の器で、ウリエルが混じっている人の子、天下のアルベルト・フォーセットだ。今教会内部がどんな事になっているかは想像がつく。大罪の魔王が何体も出たり入ったりのおおわらわ。お偉いさんが頭を抱え責任の押し付け合い合戦に勤しんでいるのを目の当たりにしちゃあ、そりゃそうだって話だろう。

 このアルベルトの活躍はきっと、英雄、神崎雨音に届かない。それでいい。それでいいんだけど、とにかく言いたいのは、この物語がものすごくくだらなくて、どうでもいい話だってこと。

 しかし、こうも思う。


「それにしちゃあ煌びやかすぎるよなあ……」


 アルベルトは異国の違法カジノの内部に潜入していた。

 じゃらじゃらうるせえスロットマシン。シャッフルされるカード。転がされるサイコロ。嘘の匂いと口八丁。または舌先三寸。アルベルトは虚言とお世辞が飛び交うここの雰囲気に辟易していた。

 事の発端は言うまでもない。強欲の悪魔マモンと強欲の悪魔使いが荒らしまくっているから止めてねって言われた。それだけ。いやもっとお堅い文書だったんだけど、シャーロットに聞いた限りじゃあそう。だから、アルベルトは強欲の悪魔使いを捕まえて裁かねばならなかった。


「うーん、煌びやかってか、ケバケバしい? オレの趣味じゃないね」


 アルベルトはカウンターバーでソフトドリンクをちみちみ飲んでいた。カルピスっておいしいなあ……。体にピースな飲み物の美味しさを再確認しながらも、アルベルトはカジノ内を観察する。

 勝っているやつ。負けているやつ。飲み物を運ぶ係の人。どこかに連れて行かれている可哀想な人間。人生模様。

 強欲の悪魔使いとなれば、勝ち続けているやつが最も怪しい。


「いなさそー。てか外見ぐらい調べておけよな。なんで現地で頑張って探してね方式なんだよ。顔もわかんねえのきついんだけど」


 アルベルトの服装はいつもの修道服にネックレス。だからべらぼうに目立つ。変えようとも思わないのは、人の視線なんか屁でもない天使の器である所以だ。


「……かえろ。すっからかんだし」


 アルベルトは席を立って、ちょっとばかしのチップとカルピス代をカウンターに置く。

 ああ、これを言っていなかったな。

 アルベルトは今日もらったお小遣いをすべて賭けて素寒貧になり、残ったお金はカルピスとチップに消えたってこと。

 いくら天使の器だからと言っても、賭け事には弱かった。

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