2-5 境界線は曖昧模糊とする

 部屋に乱雑に放り投げられた。


「じゃ、おやすみー。親御さんが迎えにくるまでに辞世の句でも考えとけよな」


 アルベルトの声がして、外から鍵がかけられる。

 神崎の部屋は牢獄だった。

 表面上だけは取り繕ってあるけど、外からしかかけられない鍵だとか、後付けで足された鉄格子だとか、そういったアイテムの数々が、ここが牢獄であることを主張してくる。

 ぜんしんがいたい。

 神崎は血の塊を吐き出して身じろぎする。立てない。立てたところで歩けない。そもそも逃げられない。折られた両腕では鍵開けなんて芸当ができるはずもないし、神崎にそう言った小手先の技術はない。だから、逃げらない。

 唯一まともに周囲を確認できる左目を使って現在の時刻を確認する。夜中らしい。少なくとも外は真っ暗だ。

 ああ……それにしても、痛い。このまま死んでしまうんじゃないかな。死ねたら死ねたで棚からぼた餅だけど、苦しいのは嫌いだ。せめて両腕の骨が変な風にくっついてしまう前に死ねることを祈る。足もそう。そういや内臓の傷はどうなのかな。自然に治るのかな。

 どうでもいいか。

 こんなの誤差の範囲だな。これから起きることを考えれば小数点以下の出来事。もういい。どうでもいい。なんだっていい。

 もう、いいから。

 どうか、終わらせてください。かみさま。



「よお、雨音」



 扉が、開いた。

 外には、灰色のパーカーと学ラン姿の、桐生渚が立っていた。


「なあ、逃げたいか? 雨音。この地獄から、俺らが俺ららしく過ごせない空間から、お前は逃げ出したいか? おっと、できるできないは聞いてねえぞ。やりたいかやりたくないかを、俺は聞いてる」


「……なん、え」


「なんでって……。そこ疑問? どうでもいいだろ。どうとでも思っとけ。……なあ、細かい疑問は無視しろよ。厳しい現実から目を背けろよ。その上で、お前はどうしたい?」


「……」


「俺はどこへでもついていく。お前が決めたことを否定しない。どんな選択だろうと、俺は受け入れるよ。逃げ出そうが、逃げ出さまいが、どうでもいいからな」


「……ぼく、は」


「行くも地獄、行かぬも地獄。ならとびっきり愉快な地獄に堕ちようぜ」


 桐生渚は手を差し伸べてくる。

 神崎は。

 神崎雨音は、その手を取った。



 ……



 一体全体どうなっている。

 セドリックは現状を確認する。不透明なことが多すぎる。皆が独断で動きすぎている。連絡を怠るなクソッタレと叫びたいが、叫んだところで現状が変わることは天地がひっくり返ってもないので我慢した。セドリックは大人である。


 まず、神崎が消えた。

 それだけでも厄介なのに、今度は佐山が倒れた。


 佐山祥一郎は過眠症の症状を訴えていた。だから精神科の受診をお勧めして、佐山は有給を使って精神科に行った。処方された薬も用法・容量を守って正しく服用していたと思う。少なくとも、セドリックが見た限りではおかしな点はなかったはずだ。

 しかし、佐山は倒れた。倒れたというより、眠気が限界に達してその場で眠り始めたと言った方が正しい。夕方五時から眠り続けて、もう六時間。ずっと、起きることはない。試しに嫉妬の悪魔使いの名を何度も耳元で囁いてみたが飛び起きることはなかった。ただ規則正しい呼吸をして、眠り続けている。


「どうなってやがる」


 セドリックは佐山を医務室のベットに寝かせ、とにかく上司であるアルベルト、またはレイモンドに報告しようと暗い廊下を走る。廊下は走っちゃいけません? 黙ってな。非常事態だ。こっちは急いでんだよ。



「そんなに大急ぎでどこに行くのかなあ。ふしぎだなあふしぎだなあ。もう少しでみんな死ぬんだから、惰眠を貪っていた方が幸せじゃないのかなあ。佐山祥一郎みたいにさ。そのほうがベルフェゴールとしても助かるんだけどなあ」



 後ろから甲高い声がした。

 セドリックは思わず足を止める。冷や汗が流れる体を駆使して、振り返る。


「そんなに警戒しなくても、はじめましてじゃないんだから大丈夫だよ。配信の常連さんは大事に殺してあげるからねえ。よかったねえよかったねえ」


 くま耳のついた茶色のフードを被った、十にも満たない男の子だった。

 ボサボサの黒髪。濁った赤色の瞳。ただし左目は黄色のボタンになっている。


「ベルフェゴール……!」


「そうだよお。怠惰の悪魔ベルフェゴール。ね、セドリック・ライトフット」


 悪魔は嗤う。


「まずは医者であるセドリック・ライトフットから潰すよ。効率よく、みんな殺してあげるからねえ。そうじゃないと面倒だからねえ。うんうん、人殺し自体面倒ではあるけど、ルシファーからのお願いだもん。無碍にした方が面倒ってもんだよ、ねえ」



 ……



『もしもーし。こちら裏切り者ビトレイヤー。傲慢の悪魔使いサマに報告ですニャー』


『こんばんわなのです。裏切り者ビトレイヤー


『……』


『何をそんな驚いた顔をしているのです? ボクが誰なのか忘れたのですか? ボクは情報屋です。公衆電話の電話線を乗っ取るぐらい造作もないのですよ』


『面倒なことするニャー。ご主人サマに怒られちゃうニャー』


『面倒なのはコチラなのです。身内の捜査は結構だるいのですよ。アルベルト先輩も苦い顔してたのです』


『だからなんだって話だニャー。ニャーを幸せにしてくれなかった時点でソチラの落ち度だニャー。尻拭いぐらい甘んじて受け入れろ、ニャー』


『その薄気味悪い語尾をやめろ。裏切り者ビトレイヤー


『……』


『誰なのかは分かってるのです。知っているのです。ボクが方を付けなければいけないのです。おまえが裏切り者だってことは、ボクしか知らないですから』


『……』



『こう呼んだ方がいいですか? なあ──ユースフ・スライマーン』



『……』


『……』


『……もー、人が悪いっすよ。情報屋さん』


『悪いのはそっちだと思うのです。隣人への偽証は罪なのですよ』


『その罪を赦すのが教会じゃあないんすか?』


強突く張り商人イスカリオテのユダのように、裏切りさえ神の御心のままに行っていたとしたらの話なのですよ。おまえはただ、個人の幸福のために裏切ったのです。極刑なのです』


『おー怖い怖い。この清廉潔白の生き字引のような俺を、どう裁くっていうんすか』


『……悪魔使いなりのジョークなのです?』


『いたって真剣っす。……ま、いいや。こうなるのもきっと、傲慢の悪魔使いサマの予想通りなんすから』


『その予想通りを崩すのがボクなのです』


『じゃあ壊してみろよ。あの人は絶対的な未来しか見ねえぞ。どこまでも頑丈な予定調和だ。想定の範囲内だ。誤差はあっという間に修正され、結末は変わらずに舞台は幕引きだ。……情報屋さんがどう頑張ったって、壊せないものはあるっすよ』


『知ってますのです』


『……』


『物語の盤外に立つことができるボクしか壊せないから、この役目を引き受けたのですよ』


『大口叩くっすね。減らず口ともいうっす』


『……あははっ! ねえ、ボクの本質さえ見抜けなかった節穴ヤロウが、何を言ってやがるのです?』


『……なんの、話で?』


『ボクはね、注目されたいのです。おまえが幸せを望むように、ボクはただひたすら注目されることを願うのです。承認欲求です。でも人の身一つでは限界があるのです。どう足掻いたって限度があるのです。物語の隅から隅まで、いくら主人公だって登場することはできないし活躍もできないのです。だから、ボクは主人公にならなかったのですよ』


『……で?』


『ボクは徹底して脇役に徹することにしたのです』


『……』


『ねえ、裏切り者ビトレイヤー。おまえはボクを二人しか見つけられませんでした。探索者シーカーとしてのボクと影響者インフルエンサーとしてのボクです。でも、もっといます。脇役として出番をかっさらうには、とにかく万能になることですから。ボクはもっと、いますのです』


『……情報屋さんは情報屋さんでしょう。オンリーワンっす。どうやっても一人っす。それとも多重人格とでも言いたいんすか? 』


『ええ、そうなのです。ボクは


『……は?』


『六つです。ルービックキューブのように、立方体にそれぞれの人格をそれぞれの面に貼り付けて。普段はごちゃ混ぜにしてあるのですが、本質は六つです。おまえは二面しか揃えられなかったってだけなのです』


『……』


『なに、似ていますから、一つの人格であると言ってもいいのですよ。本質は、立方体を彩る着色料だってことには変わりませんのです。変わったのは色だけ、役割だけ。……青色が好きな人にも、赤色が好きな人にも注目してもらえる。緑も黄色も橙も白も。全ての色を網羅して、誰だろうと注目する、完璧な存在になったのですよ、ボク。おまえのご主人サマだってボクに注目してたはずなのです。あはは、とっても嬉しいのです。脇役冥利に尽きるのです。おまえと会話するのも、とても楽しい』


『……イカレしかいないんすか? ここ』


『ただひたすらに幸福を突き詰めて結果的に不幸になってるおまえには言われたくないのです。……さて、無駄なお話でしたのです。ボクはおまえを始末しますのです』


『……どうやって? あなたに殺傷能力はないはずっす』


『だから、それはおまえがルービックキューブを二面しか揃えられなかったってだけの話って言ってますのです。ボクはあと四人いる。脇役のオールマイティであるボクを見くびらないでほしいのです』


『あー……えっと、電話切ってもいいっすか?』


『ボクは探索者シーカーです。ボクは影響者インフルエンサーです。ボクは伝達者ポストマンです。ボクは観覧者アウトサイダーです。そして、ボクは乱奏者ノイズメイカーです』


『切りますね! 一人でごっこ遊びしててくださいっす!』


『──人の話を最後まで聞かないやつはゴシップに溺れて死ねばいいのです』



 ……



 イカレしかいねえのかよここは。

 生粋の裏切り者ビトレイヤーであるユースフ・スライマーンは受話器を叩きつけて無理やり電話を切った。テレフォンカードがゆっくり吐き出される。

 教会裏の公衆電話。使われなくなって久しいそれを有効活用していたのが間違いだったかもしれない。もうちょい情報屋を危険視すべきだったかもね。

 それでも、だ。

 ノイズメイカーかなんだか知らないが、情報屋に殺傷能力があるとは思えない。術式も確認した。ただの伝達だ。折り紙が勝手に動いて喋るだけ。それだけのくだらない術式である。

 なに、ユースフは元エクソシストだ。戦闘はお手のもの。アドバンテージもコチラのもの。年がら年中パソコンに齧り付いているギークくんに何ができようか。

 ユースフは公衆電話の扉を開けた。冷たい夜風に当てられて、情報屋との会話によりゆだった頭が冷えていく。

 冷静に、冷静に立ち回れ。怠惰の悪魔使い──桐生渚が神崎雨音を封じている今がチャンスなんだ。ベルフェゴールだっている。天使ウリエルの器が少し厄介だが……なんとかなるだろう。なに、裏切ったことは情報屋にしか知られていない。いざとなれば哀れな被害者のフリをすればいい。背中を突き刺すのは得意だ。

 ふと、違和感を覚えた。

 少し騒がしいような気がしたのだ。山の中に建てられたこの教会は、いつもは虫の鳴き声ぐらいしか聞こえない。その風流な静寂を切り裂くような、鬱陶しい声が近づいてくるような。


 公衆電話から顔だけ覗かせたユースフは、大音量でコチラに飛んでくる大量の折り鶴を確認した。


 街中の喧騒のような雑音。不協和音。意味をなさない文字の羅列たち。耳を塞ぐ。慌てて扉を閉める。音はプラスチックの壁を越えてユースフの耳を刺激する。ギャアギャアギャアギャアうるさい。うるさい。あたまがいたい。ふらつく。ぶちんとどこかが切れたような音が体内から響いたと思ったら、鼻血が垂れた。

 ユースフは壁にもたれかかる。

 うるさい。耳が壊れそうで、いたくでいたくてたまらない。音の振動で内臓が揺れているのがわかる。気持ち悪い。鶴が扉の隙間から侵入してくる。騒がしい。いつの間にか公衆電話は鶴に囲まれていた。どこを見渡しても白色の紙しか見えない。聞こえない。なにも、聞こえない。うるさい。公衆電話の中を鶴が飛び回る。当たる。いたい。いたくていたくて死にそうで──


 ユースフは、ぱんっと弾けて消えた。


 あとに残ったのは、聞き手を失った折り鶴だけだった。



 ……



 一人死んだ。

 だが、まだいる。

 増殖は情報屋だけのものではない。


「……主が分け与えた五つのパンは五千人を満たし、また、パンくずは十二のかごいっぱいになった」


 教会のキッチンで、コック姿のユースフは呟く。

 手に持っているのは肉たたき用のハンマー。工具と違い表面に棘がついたもの。

 ユースフはハンマーで、思いっきり自身の手を叩き潰した。


「そこから読み取るは増殖の奇跡。一つを二つ。二つを三つ。三つを四つ。際限などない膨張と増加。四つを五つ。五つを六つ。六つを七つ……」


 ただひたすら叩きつける。骨が砕ける。肉が潰れて血が流れる。

 ぐしゃぐしゃになった己の掌を、ユースフはなんの躊躇いもなく引きちぎった。

 肉片を、床に落とす。


「俺は増やす。ただユースフ・スライマーンという人間を」


「──じゃあ、俺も増やしちゃおーっと」


 

 潰れていない手のひらを見せびらかしながら、は笑う。


「七つを八つ。八つを九つ。……だろ?」


 ユースフはため息を吐いて、笑ったユースフに血のついたハンマーを渡した。


「じゃ、俺も増やそっかな」


「俺は違うことした方がいいよな。ベルフェゴールの支援とか」


「バーカ。あいつ、大罪の魔王だぜ? 俺らの支援なんているかよ」


「タイムリミット付きなんだよ今回は。人手は多い方がいい」


「俺お腹すいたー」「てかログボ受け取った? まだじゃね?」「明日の仕込みしなきゃ朝ごはん作れないぞ」「ベルフェゴールってどこいるか知ってる?」「あ、俺みたいドラマあるんだった! 録画しといて!」「録画ってどうやるんだ?」「そこのボタン押すだけだよ」「あー! 日付変わってる! 昨日の分受け取れてねえ!」「なー、誰から殺しいくよ?」「ぶっちゃけめんどくさいよな」「おにぎり握ったけど食べるやついるか?」「食べるけど具はなに?」「情報屋の居場所知ってるやついるかー?」「録画時間足りねえって。なんか消せよー」「しゃけとこんぶ。あとツナマヨが数量限定で」「スマホの充電切れた! モバ充持ってるやつ貸せ!」「セドリックがいるとジリ貧だから殺そうぜ」「それより先に情報屋だろ」「秘密を知ったやつから殺す感じ?」「でも居場所わからん」「しらみつぶしだな」「おにぎり俺にもくれよ」「モバ充あったけどコード合わないかもな」「クソッ! 恨むぜC端子!」「なー、この二年前の全十二話もあるアニメいるか?」「見るって言ってるだろ」「殺すやつとバックアップと索敵で別れようぜ」「さんせー」「どの銃使う?」「俺一回スナイパーライフル撃ってみたかったんだよな」「料理人モチーフの殺人鬼と言ったら包丁だろ」「ばっちい」「衛生観念……」「人殺しに清潔感必要か?」「じゃあ俺ハンドガン」「俺おにぎり食いたいからバックアップで」「一抜けやめろよ。じゃんけんにしようぜ」「時間かかるだろ愚か者めが」


 増えていく。

 ユースフ・スライマーンという人間が増えていって、把握し切れなくなる。術式は対象者の肉体を蝕んでいく。

 真っ先に手のひらを潰したユースフはキッチンの隅で荒く呼吸をしていた。増えていく自分が耐えられない。強烈な違和感に吐きそうだ。クラクラする。

 だから。


「チャーリー」


 ユースフ・スライマーンはエクソシストであると同時に悪魔使いであるから。



「お、おおっ! お呼びでござ、ましょうかあ……! け、けけけ、契約者さ、ま」



 少年コックが思い思いに騒ぐ中、くたびれたスーツ姿の、十二歳程の少年が一人。

 おもためな黒髪。なぜだか泳ぎまくっている黒目。頭にはぐるりと巻かれた、羊のような角。三角形の飾りがついた、ステレオタイプの黒い尻尾が揺れている。

 彼は──契約悪魔であるチャーリーは、ひどく怯えながらユースフに答えた。


「こ、こっこの、悪魔、ち、ちゃ、チャーリーが、た、ただいま馳せ参じま、ま」


「御託はいい。権能を」


「は、はひっ! 申し訳ごじゃいません! す、すぐにでも!」


 土下座でもすんのかと言いたくなってしまうほど頭を下げて、彼は喉に手を置く。


「……ぼくは嘘から生まれた悪魔です。存在しない、メキシコの悪魔です。あるはずもない悪魔召喚で呼び出される、いるはずもない悪魔です。嘘であるが故にここにいるぼくは本物で、しかし偽物にもなれる。嘘から出た真。真を嘘に。嘘を真に」


 ギリギリと喉から音が鳴る。黒い瞳が、横になった瞳孔が、ユースフを捉える。


「だから──『ユースフ・スライマーンは術式を使っても肉体は壊れない』」


 違和感が消えた。

 息を吐いて立ち上がる。先ほどまで感じていた酩酊感はすっかりおさまって、ユースフが溢れたこの光景を見ても平然としていられる。


「え、えと、うまくできたかなー……なんて……。お、お褒めのこ、言葉、とか」


「チャーリー」


「は、はははい!」


「下がれ」


「おお、仰せのままにっ!」


 チャーリーは尻尾を巻いて逃げていく。キッチンの影に溶けて消えていく。

 邪魔者はいなくなった。ユースフを苦しめる代償も消えた。

 ここからは、ユースフ・スライマーンの独壇場だ。



 ……



 セドリックはただひたすらに困惑していた。

 セドリックには現状が分からぬ。怪我人を治療し、書類をさばきながら生活してきた。だが異常事態と報連相の怠りには非常に敏感であった。

 だから、セドリックは困惑しつつムカついている。イラついている。ハラワタが煮えくり返っている。


「……あれれ? 怒ってる? ふしぎだなあふしぎだなあ。今から殺されるよってところで怯えより怒りがくるのはちょっとおかしいよ」


「テメエに私の機嫌が関係あるか? なあ、怠惰の悪魔」


「ベルフェゴールって呼んでよね、セドリック・ライトフット」


「分かりましたよ、怠惰の悪魔」


 むすっとした顔になった十歳程度の少年──否、怠惰の悪魔ベルフェゴールに対面しつつ、セドリックは舌打ちをしたい気分になっていた。

 ああ、マッタク。いつもセドリックは運が悪い。ずっと、ずっと、この仕事を始めた時からずーっと、運が悪い。巡り合わせが良くない。神様はセドリックのことをすっかり忘れてんじゃねえのって思うほど、運がない。


「……でもさ、現実問題。セドリック・ライトフットはエクソシストではないよねえ。ただの事務員。医者モドキ。一般人になにができるっていうの? 何もできやしないに決まってるよねえ。せいぜい命乞いぐらいかな。靴、舐めさせてあげようか」


「……テメエ、裸足じゃねえの?」


セドリックが見る限り、ベルフェゴールは裸足である。

ベルフェゴールは己の足元を確認してあちゃあと声を出した。


「おっとっと、こりゃ失敬。じゃあ命乞いはなしね。縦に半分に割られて死ぬのと顔面にどデカい穴開けられるのと、どっちがいい?」


「素敵じゃねえ選択肢だな。全部やめて楽しくピクニックってのは?」


「ないね。少なくとも、セドリック・ライトフットとのピクニックなんて陰気くさくて敵わない。どうせなら青空が澄み渡る午前中に恋人と行きたいなあ」


「そりゃ同感だな。怠惰の悪魔とピクニックなんて怖気が走る」


「……セドリック・ライトフットが言ったことじゃないの?」


「さてね。嫌な記憶は忘れる人間なので。怠惰の悪魔との会話なんて、聞いた瞬間に忘れたいほどに最悪な思い出ですよ」


 ベルフェゴールが目を細める。そろそろ潮時かもしれない。

 セドリックは警戒する。タイミングを見計らう。


「……会話ってさ、面倒だよねえ。うんうん、面倒でたまらない。人との関わり合いは面倒だよ、ねえ。だから、殺すね」


 ベルフェゴールは便利な道具で人を堕落させる悪魔である、と聞いた。

 だから、これからやることは予想できる。あとはタイミングさえ合えばいい。


「『五月雨散弾銃さみだれさんだんじゅう』」


 何かを呟いて、ポンッと弾けるような音がして、ベルフェゴールの手のひらに赤色に塗られたプラスチックの拳銃が落ちる。オモチャのような風体のソレを、ベルフェゴールはセドリックに向けた。


「あー……そうそう。聞くの忘れてたけどさ、顔面に風穴開けられて死ぬのでいいよね? もう出しちゃったし、死ぬのには変わりないしさ」


 セドリックは息を吸う。言うべきことを反芻する。


「じゃ、バイバイ」



「私を助けろ! 『蜘蛛糸の魔女』!」



 赤色の拳銃がバラバラに壊れた。

 一瞬で切り刻まれたかのように、安っぽいプラスチックは割れて地面に落ちる。なぜか銃弾などの部品は見当たらない。ベルフェゴール製だからかね。


「──願いましたか、セドリックさん」


 カツンと、廊下の奥から足音がした。

 暗闇から現れたるは一体の魔女。濁った黄色の髪と瞳。埃に塗れた修道服。

 此度の鬼札。『蜘蛛糸の魔女』。または、シャーロット・ロックウェル。


「……ええ、願いましたよ。継続でお願いします」


「とてもいいことですね。己の欲に従って願うのは、とてもいいこと」


 上機嫌に呟いて、彼女はセドリックの隣に陣取る。鼻歌でもしそうな勢いだった。


「……魔女か。失念してたかもなあ。……めんどうだなあめんどうだなあ。二対一って卑怯だと思わない?」


「思うと思います?」


「いや、全然」


 ベルフェゴールがあくびをした。緊張感のないヤロウだ。

 しかし、ここからは反逆ターン。『蜘蛛糸の魔女』がいれば百人力。完璧に封じ込めてパーフェクトKOしてやる。


「それで、セドリックさんは何を願いますか?」


「……教会関係者の安全の確保。それとベルフェゴールを祓うこと」


 シャーロットは笑った。ぎゅうっと手のひらを握りしめて、軽く開く。また軽く閉じる。満足したのか、ベルフェゴールに向き直った。


「……ふふふっ! ええ、この『蜘蛛糸の魔女』が必ずや」



 ……



 神崎は廃墟となった、元デパートの前にいた。

 深夜だ。人気はもちろんない。神崎は堂々と不法侵入する。立ち入り禁止を意味する黄色のビニールテープを潜り抜けて、神崎は埃と経年劣化に塗れた建物内へ。当然暗い。足元は見えない。けれど、神崎はなんてことないように進んでいく。

 ただひたすら、神崎は奥へ進む。割れた床は器用に避けて、倒れてしまった壁を踏んづけて、最短ルートで奥へ奥へ。正確に言うのなら、非常階段まで。

 非常階段前で、彼は待っていた。


「よ、雨音」


 外側に取り付けられた、錆びついた鉄製の階段。今となっては危なっかしい、近寄りたくない場所。

 そこに、桐生渚は待っていた。

 灰色のパーカーに学ラン。怠惰の悪魔使いとしてのスタイルで、彼は暗闇の中に立ち尽くしていた。


「来てくれたんだな。嬉しいよ」


「……そう」


「随分淡白な返事だなあ、雨音。どうせなら最後まで仲良しこよしでいようや」


「……別に、どうでもいいでしょ」


「そうか? 俺は楽しくてたまらない。嬉しくて思わず小躍りしそうだ。待ち侘びていた幕引きがもう手の届くところにあるんだからな。ああ、楽しみだ。やっとエンドロールだ。そう思うだろ?」


「君と僕は違う生き物だよ」


「釣れねえこと言うなよ、運命共同体」


 神崎が黙る。桐生は神崎の態度がよく分からないとでもいいたげに頭をかいた。


「……じゃ、愉快な逃避行としようか!」



 ……



「自殺願望ってのは最も人間らしい崇高な感情だ!」


 非常に危ない、劣化した階段を上りながら、桐生渚はそう宣う。神崎の手を引っ張りながら話し続ける。


「子鹿が親鹿の死体を見つけたらギャアギャア泣くか? 死体に縋りついて死なないでママって叫ぶのか? しねえよな? そういうことだよ。動物にとって──赤ん坊だとか、そういった保護者を必要とする生き物以外は、必要以上に他人を必要としないんだ。仲間だって親だって死んだらおしまい。他人だから、自分が痛くないから問題外。話は終わりで解散解散、閉廷! てな具合にな。しかしながら、人間は他人が必要だと声高に宣言する」


 階段を上る。息が上がる様子はない。


「他人との関わり合いを持ちたがる。他人からの高評価を欲しがる。他人からの興味を、他人からの視線を、他人からの共感を羨望して、他人と触れ合う。馴れ合う。余計な区別をつける。地球の裏側で何万人死のうがどうでもいいが、自分の両親が死んだら悲しい。それは単に愛情をくれる人間が減るからだ。損得感情。勿体無い根性」


 階段を上る。


「そして他人との関わり合いはすなわち面倒を生む。差別を、侮蔑を、憐憫を、上下を、悲しみを、絶望を、後悔を、生み出すだけなのに、面倒事が増えるだけなのに、人間は他人との関わり合いをやめない。人間らしいな」


「……なんの──」


「他人との関わり合いは面倒だよ。信頼が裏切られれば悲しい。好きな人が死んだら辛い。侮蔑と嘲笑が自身に降りかかったら死にたくなる。ある意味自殺とは現実逃避レベル100だから、そういった人間関係から逃げたくて、面倒事を終わらせたくて、関わりたくなくて、死ぬ。やはりこれも人間以外にはない発想だよな。子鹿は親鹿の後を追って自殺なんてしないから。そう、自殺願望は人間らしい」


「それは──」


「自殺はお手軽な逃避行だ。あの子に嫌われたという事実が耐えられない。皆に厭まれるこの現実を終わらせたい。どうしようもない未来を見たくない。……自分と向き合い周囲と向き合い問題解決に向かって努力するのは面倒臭いんだよ。もう辛いんだ。何も考えたくないんだ。終わらせてほしくて、あんなに懇願したのに終わらない。人間は簡単に死ねない。だから──自分で終わらせる」


 屋上についた。

 元屋上遊園地だった。それの跡だけ残っていた。錆びついた、遊具とも言えない鉄の塊が鎮座する、ひどく虚しい空間。桐生は転落防止用の柵に向かって歩き出す。

 桐生はひどく饒舌で、興奮していて、まるで明るい未来に向かって走る若人のようだった。キラキラした人生の第一歩を踏み出すようで、これからどんなハッピーエンドが待っているのか、楽しみでたまらないとでもいいたげで。


「なあ、雨音! お前は何から逃げる? 英雄ではないお前は、何を捨てて何を持って何を望む?!」


「……僕は、英雄で」


「英雄なんて人間らしくない! 捨てちまえよ雨音。──思いっきり怠惰に傲慢に強欲に! 人間らしく人間らしい感情に従って人間として終わらせよう!」


 そう言って、桐生は柵の向こう側に足を乗せて、コチラに手を伸ばす。


「逃げよーぜ、神崎雨音!」

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