2-3 一時の夢見心地
派手にやってしまった。
深夜一時。建設途中のマンションである。怠惰の悪魔が出現しようが何だろうが、ヘボヘボ雑兵である一般の悪魔使いの方々は止まりゃあしない。自分本位自己満足。だから今日も今日とて神崎は悪魔祓いに勤しむのだ。拒否権はドブに捨てられ、人権は屑籠にストライクアウトだった。
まあそこまではいいとしよう。いつも通りだ。なんの変哲もない日常だ。問題は、エクソシストの佐山が派手にやらかしたこと。
建設途中とはいえ人が生活する以上水がいる。未来のことを考えると尚更で、ここにも勿論水道がバッチリ引いてあった。
で、佐山が術式で水道管を全部破裂させた。
おかげで悪魔使いは捕まったし悪魔は祓えた。しかし水害がそりゃもう酷かった。作りかけの床も壁もぐちょぐちょ。絶対作り直し。工事の関係者さんごめんなさい。
そんなこんなで、神崎一行は大掃除をしなければならなかった。
「いやー、すみませんー。まさかこんなことになるとは想像もしていなかったと言いますかー」
「下手くそな言い訳はいいよ。片付けて」
「おお、お怒りですねー、神崎先輩。もう清掃部隊の方々呼んじゃった方がいいんじゃないですかー?」
「呼んだよ。つくまでできる限り片付けようってのが僕らの意向」
うへえと声を出して、佐山は破裂した水道管を直しに行った。また一人だ。
びしょ濡れになった雑巾を絞って、とにかく神崎は廊下の床に広がった水たまりの水量を減らす。減っている気がしない。底の抜けたバケツで水を汲んでいる気分。
……術式を使えば、もっと楽に片付けられるんだろうけど。
ああ、タラレバの話をしたってしょうがない。とにかくやれ。やらねば終わらぬ。早く帰りたい。
……やっぱり、そんなに帰りたくない、かもなあ、なんて。
帰る帰らないの問題じゃないのは分かり切っている。知り切っている。だからもう足掻くのはやめた。
それだけの話だろう。
ウダウダ嘆くのをやめろ、神崎雨音。
神崎はひたすら床を拭く。拭く。水は減らない。水は嫌いだ。いたいから。苦しいから。生きるのに必要なのに、ひどく苦しいんだ。なくてもあっても息苦しい。神崎は、水が嫌いだ。
ビシャリと水が跳ねた。
「よお、雨音」
「……渚くん」
目の前にいたのは、桐生渚だった。やる気のないエクソシスト。ふわあとあくびをかまして、桐生はしゃがむ。雑巾ぐらい持ってきて欲しい。やる気が感じられない。コイツがやる気だったことなんて一ミリもないけど。
「逃げようぜ」
突拍子もなかった。
前振りもなかった。順番とか道順とか流れとか、そういったプロセスをフル無視して本題に入った。単調な問いだった。
「に、逃げるって」
「逃げるは逃げるだよ。自由のきかない場所や危険から抜け出して去ること。逃げ出す。逃れる。逃亡。逃走。意味わかったか?」
「意味は知ってるよ! ぼ、僕が聞きたいのは──」
「なんで逃げるのかってことか?」
桐生は相変わらず興味なさげに、面倒臭そうに説明する。
「苦しい以外に何か理由が?」
説明というには烏滸がましい、淡白な一言だった。
桐生は世間話の延長線のように、ひたすら言葉を並べ続ける。
「苦しいから逃げ出す。辛いから逃げ出す。当たり前だろ。
「ぼ、僕は」
「言っとくが、英雄としての神崎雨音に聞いてるんじゃあない。雨音に聞いてんだ。お前はどう思う?」
「や、やれ、やれるワケ、ないだろ!」
「俺はやれるやれないの話はしてねえ。やりたいやりたくないの話をしてる」
「で、でも。僕には──」
神崎が言い切る前に、桐生はため息を吐いた。立ち上がる。
「コンテニューと巻き戻し作業が一番嫌いだ」
見捨てられた。
嫌われたと思った。誰に嫌われてもどうでもよかったけど、なぜか桐生だけには嫌われたくないと思った。神崎は慌てて立ち上がって、歩き出した桐生の背を追おうとする。
雑巾が神崎の手から滑り落ちて、ベシャリと音を立てた。
……
気づくと神崎は自室のベッドの上だった。
鉄格子がはめられた窓からは朝日が差し込んできていて、部屋に漂う埃が照らされている。日光が神崎の目を焼いて眩しい。痛む腰をさする。
「……夢?」
ゆめ、か?
でも、昨晩は深夜も深夜まで悪魔祓いと大掃除に奔走したはず。こんな時間に起きられるワケがない。少なくとも、朝特有の憎たらしいぐらいに眩しい太陽を拝める時間帯には起きられないはずだ。
どこからが、夢だった?
そうだ。どこからだ? 昨晩の悪魔祓いと佐山のやらかしは現実で、でもその後、桐生の意味不明な会話は夢? どこからだ。どこから、神崎は夢を見ていた。そもそも悪魔祓いから夢だったのか? でも、それにしては記憶が鮮明過ぎる。
確認しなければ。
昨日は清掃部隊まで出したんだ。セドリックに確認すれば、佐山に確認すれば容易に分かる。少なくとも、悪魔祓いが本当にあったかどうかは分かる。
神崎は倒れ込むようにしてベッドから落ちて、這う這うの体でドアを開いた。鍵は開いていた。珍しかったが、もう気にする余裕もなかった。
ひたすら神崎は事務室に走る。乱暴にドアを開けて、セドリックを探した。
いた。書類とパソコンに囲まれて、疲れた顔をしてキーボードをひたすら叩いている。
「せ、先生っ!」
「う……どうしました、神崎くん。あと大きい声は頭に響くのでやめて……」
「き、昨日、清掃部隊は出ましたか?」
セドリックは心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「出ましたかって……アナタが呼んだんでしょう? 佐山がやらかしたからって」
現実だ。
少なくとも、初めは現実にあったことだった。
じゃあ、あの夢はなんだったんだ。
どこから、いや、いつから。神崎はどうやって帰ってきたんだ? 記憶がない。雑巾で水を吸っていたところまで覚えている。その後だ。桐生というエクソシストに。
……桐生渚?
「誰、だ?」
桐生渚、なんて。そんなエクソシストは。
「……神崎くん?」
「せ、先生」
セドリックは不審な顔でコチラを覗き込んでいる。神崎はなんとか口を開いて質問する。
「桐生渚というエクソシストは、いますか?」
セドリックはたった一言。
「いませんよ?」
……
どういうことだ。
どこから夢だった? より正確に問うのなら、どこが夢でどこが現実だった?
神崎は悪魔祓いの前、安藤のお見舞いに行った帰りに桐生と出会っている。会話もした。簡単な挨拶と形式的な言葉のみの、簡素な会話。
あそこは夢の中だったのか?
違うと断言できる。安藤の元には悪魔祓いに行く前、必ず足を運んでいる。ここ最近の習慣だ。だから、昨晩の悪魔祓いがあったのならば、神崎は必ず行ったのだ。じゃあ医務室を出てからが夢? あの数分にも満たないちっぽけな逢瀬は(昼ではなかったけど)白昼夢? 神崎はそれほどまでに疲弊していたのか。
神崎は自室に走る。意味が分からなかった。現状が不透明だった。不安で仕方なくて、どこかに逃げてしまいたかった。
乱暴に自室のドアを開ける。
相変わらずからっぽだった。ベッドとタンスだけが置いてある六畳半。しわくちゃになったシーツの上に座り込んで布団を被る。
怖かった。
ただ、怖かった。
現実と夢の境界線が曖昧で、分からなくて。今自分はどこにいるのだろうと考えると、心底恐ろしかった。今の現実は夢の中の話で、実は桐生渚というエクソシストは存在してて、佐山は水道管を破裂させているし、神崎は疲れてて起きることができなかったのかもしれない。全部本当で、セドリックとの会話は嘘なのかもしれない。どっちを信じたらいい。
わからない。こわい。知らないのは、おそろしい。
夢なら醒めてくれ。現実なら現実と言ってくれ。
神崎はただ目を瞑る。シャットダウンだ。意識を一回落として、また目を開ければいい。現実問題の解消にはそれしかない。
そこでちょうど、こんこんこんと、ドアがノックされた。
閉じかけていた瞼を開けて、落ちかけていた意識を再浮上させる。ずり落ちた布団を拾うこともせず、神崎は重い体を駆使してドアを開けた。
「よお、雨音」
「渚くん」
ノックしたのは桐生渚だった。
ああ、なんだ。仕事じゃなかったかと、神崎は安堵する。
桐生渚なら何も問題はない。むしろ安心した。レイモンドやセドリックじゃなくて本当に良かった。
「どうしたのさ。いつもお寝坊さんのくせに」
「いや、コンテニューは早い方がいいかと思ってな」
コンテニュー。巻き戻し作業。なるほど確かに早め早めの行動は大切だ。提出期限は守らないといけないし、心残りを残しておくのは気分が悪い。
桐生はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。にししと笑う。
「何、まだ時間はあるし残機もある。急ぐ必要がないのならコチラだって確実に、一歩一歩進めさせてもらうさ」
「確実なのはいいことだね」
「その通り。て、ワケで──」
桐生は神崎の手を取って。
「遊ぼうぜ! 雨音!」
……
二人は映画館にいた。
真ん中の赤いシートの一席に身を任せて、ただ目の前のスクリーンに没頭する。キャラメルポップコーンをつまみつつ、二人は黙って物語を鑑賞していた。
趣味の悪い映画であった。三股四股をかます主人公のサラリーマン。不運にも起こってしまった事故により、記憶喪失になる主人公と行方不明になる恋人一号。疑われる何も知らない主人公。次々死んでいく恋人たち。グロテスクだった。神崎が観ていいのか疑問に思うほどには結構グロかった。血は出るし人は死ぬし臓器がこんにちはするし。
でも、まあまあ面白かった。露悪的で残酷で残虐で、観たことのない物語だったから。
「どうだった?」
映画の後、売店前のベンチに座って、余ったポップコーンを食べながら桐生は聞いてきた。
「面白かったよ。特に主人公が最後ハデに死ぬシーン。スカッとした」
「あそこは傑作だよなー。……これ、続きもあんだけど、どう?」
「観たいかも」
「帰り際にレンタルすっか。二人で観ようぜ」
空になった容器を捨てて、映画館から出ようとする。薄暗いところにいたからか、外の眩しさがいやに目に染みた。
「……なあ、楽しかった?」
桐生が入口で立ち止まる。神崎はそんな桐生を置いてけぼりに外に踏み出しつつ、問いかけを少しだけ疑問に思いつつ、素直に答えた。
「楽しかった!」
「じゃあ夢は終わりだな」
神崎は。
神崎は、街中に佇む、レイモンドを認識して──
……
目が覚めた。
いつの間にか深夜になっていた。外は暗い。時計なんてものはこの部屋にはないから正確な時刻は分からないが、とにかく夜になっていた。
神崎はベッドに寝っ転がる。まだぼんやりする頭で考える。
「……夢」
夢。そう、夢だった。神崎は桐生を受け入れて、なぜか二人で映画を観に行った。どこまでも悪趣味なスプラッターホラー。面白かった。楽しかった。友達ができたみたいで、とても嬉しくて。
気分は、悪くなかった。
「なんで、覚めちゃったんだろ……」
桐生はきっと存在しないんだろうなと思う。あのエクソシストはイマジナリーフレンドに近い。夢の中限定の友人。遊び相手。なんともまあ寂しい人間だこと。
これから神崎は仕事だ。怠惰の悪魔使いの動向を調べなくてはならない。情報屋から話を聞いて、次の被害者が死ぬのを止めなくてはならない。それが英雄だ。
でも今は、もっと眠っていたいと思った。
「──神崎くん!」
セドリックが呼んでいる。ドアをノックしている。桐生じゃなかった。現実だ。
「……今いきまあす」
面倒臭い。
……
ベルフェゴールによる悪烈極まりない自殺教唆配信はもう始まっていた。
相変わらず電子機器の総合博覧会のような情報屋の部屋で、セドリックと神崎はモニターを見つめる。情報屋は別のパソコンで特定作業をしていた。
「……一応言っておくのです。神崎先輩」
「なあに?」
「表向き、今回は被害者を救うことに重きを置いていますのですが、それはあくまでも表向きなのです。──ボクらは、はなっから被害者を救うことなんて考えちゃあいません」
「……」
「神崎先輩が配信を見ることでベルフェゴールがどういった反応をするか、被害者の特定にどれくらい時間がかかるか、被害者の共通点は、なんて感じの、ちみっこい疑問解消のターンなのですよ」
「……つまり、何もするなってこと?」
「そうなのです。レイモンド院長が決めたことなのです。そりゃあ被害者は少ない方がいいに決まっているのですが、無策で突っ込むのは愚かなのです。確認作業のための生贄とでも思ってくださいなのです」
「わかったよ。なんもしない。ほんとのほんとにね」
神崎は両手をあげて了承した。隣でセドリックが画面を睨む。
配信が始まった。
『ほいさっさ! 今日も今日とて死にたがってる哀れな子羊ちゃんの無様な死に方を眺めにきた野次馬根性オーセーな皆々様! ベルフェゴールの配信へよーこそお!』
甲高い声だった。
テディベアモチーフのアバターを動かして、性格の悪い笑い声をスピーカーから響かせる悪魔。彼は一瞬だけ目を見開いてニヤリと口角を上げる。
『……うんうん! 英雄サマも見にきてくれたみたいだし、いつも以上に張り切っちゃおっかな? にしし、みんな落ち着いてよ。どうせならとびっきり不幸な死に様がみたいだろう?』
コメントの流れが早くなり目で追えなくなる。接続者数は現在六万人。なかなかの数だ。
画面が切り替わった。
どこかのマンションの一室らしかった。荒れ果てた、お世辞にも綺麗とは言えない部屋。紙おむつや粉ミルクの缶。カラフルに塗りたくられたオモチャ。くたびれたぬいぐるみ。カメラにかろうじて映るベビーベッドから赤ん坊の鳴き声が響いている。
情報屋は黙ってキーボードを叩いている。
『
怒鳴り声が響いた。
神崎は心臓が止まりそうになりながらも、なんとか画面を注視する。男の人のドスが効いた声と、女の人のすすり泣くような懇願の声。悲鳴が上がって、すぐうめき声に変わった。ドタバタ音がする。
赤ん坊は泣き止まない。
『かわいそうだねえかわいそうだねえ。とっても不幸だ。どうしようもなく不幸せだ。ベルフェゴールも同情するよ。やっぱり幸せな結婚なんてないんだ』
相変わらず誰かの怒鳴り声、うめき声、泣き声はやまない。ベルフェゴールは淡々と語り続ける。
『杏子ちゃんはね、悪い男の人と結婚しちゃったの。浮気性で、DV気質で、どうしようもなくサイテーな人間。ちなみに現在浮気中。あと無職。この男の何が良かったんだろうねえ? おろかだねえおろかだねえ。でも、かわいそうだねえ。つらそうだ。結婚の何が幸せにしてくれるの? ただ強い縁を結んで、何になるの? 生み出すのは互いの不幸せだけだよ。幸せは半分になって苦しみは二倍になるんだ』
部屋の扉が、開いた。
フラフラとおぼつかない足取りで入ってきたのは、長い髪をした二十代前半であろう女の人だった。よく見れば顔は大きく腫れ上がっていて、口の端から血を流している。歩き方を見るに足も怪我をしていそうだ。
彼女は泣く赤ん坊を抱く。必死にあやす。その間も怒号は止まらない。定期的に、合いの手のように不愉快で威圧的な声が響く。
セドリックが舌打ちをした。人並みの正義感を持つ彼はただ単純に趣味の悪さにうめいている。
『つらそうだねえつらそうだねえ。現実から逃げ出しちゃいたいねえ。いつだって現実は不幸だよ。夢の底の方が幸せだよ。赤ちゃんは泣き止まないし、旦那さんは叩いてくるし、もう居場所がないの。夢の中ではうまくいくはずだったのに、いつもうまくいかない。現実は、どう足掻いても夢を越すことができないんだ』
彼女がハッと何かに気づいて顔を上げる。泣き止まない赤ん坊をベビーベッドに戻した。
彼女はフラフラと、ベランダに続く窓を開く。夜風で髪が揺れる。
手すりをよじ登る。
手を前に出して、まるで向こう側にいる何かを掴もうとしているような格好で。
彼女の声が、少しだけ聞こえた。
おいていかないで。
『それじゃあバイバイ! また地獄で!』
落ちた。
赤ん坊は泣き止まなかった。
『じゃあ振り返りー。今回の犠牲者は山口杏子ちゃんでしたよーっと。……英雄サマも楽しんでくれたかな? それじゃ、また今度ねー!』
ブツンと動画が終わる。彼女に同情するコメントが大量に流れて、それもすぐ収まって、『次回も楽しみにしてます!』とか、そういったエンタメを楽しんだあとの普遍的な感想で溢れかえった。
「……趣味がわりい」
「だからそういったのです。魑魅魍魎の百鬼夜行。気分が悪くなるだけの悪質なスナッフフィルムだと」
「だからといって、今回のは悪烈極まりない。吐き気がする」
情報屋とセドリックはぐちぐちと感想のような批判を吐き出す。神崎はただ、暗くなったモニターを凝視する。
「……で、今のでなんか分かったか?」
「とりあえず被害者の身元は特定できたのです。名前はベルフェゴールも言ってたですが山口杏子。旧姓は山崎。住所は……ああ、教会と結構近いのです。といっても徒歩三十分程度ですが、こんな僻地だとこれでも最寄り物件なのですよ。んで、川口春子との関係性は……特になさそうなのです。強いていうのなら同じ総合病院の通院履歴があるってだけなのです。家はそれなりに近いですが、ご近所さんって感じではなさそうなのですよ」
「……共通の知り合いはいないか」
「この分だといなさそうなのです。……怠惰の悪魔使いが接触したってより、ベルフェゴールの配信を見たとした方が辻褄が合いません?」
「それはねえよ」
「なんでなのです?」
「カメラが設置できねえだろ。山口杏子に隠しカメラを設置するような暇があったか? 配信をのんびり眺めることができそうだったか? どう足掻いてもできませんよ。旦那も現在無職なら、山口杏子が働いているのでしょうし、少なくとも自身の趣味に没頭できるような環境ではありません」
「……ああ。川口さんの時もそうだったのです。カメラは結局あったけど、仕掛けたヤツが分からない。ムー、もやもやしますのです」
情報屋は机に突っ伏してうめいた。
不可解だ。
不可解でどうしようもなく意味不明。隙がないとでも言おうか。被害者はあくまでも自身の意思で死んでいるのであり、それ故に姿が見えない。犯人像が分からない。
神崎は席を立つ。もうここにいる意味はない。今は、とにかく眠い。
ふと、神崎は気づく。
山口杏子が落ちる瞬間、彼女はこう言っていた。
おいていかないで。
どういうことだろう。何が見えていたのだろう。なぜ、彼女はベランダの外にいるナニカに手を伸ばして、縋り付こうとしたのだろう。
もう、どうでもいいけど。
怠惰の悪魔使いのことで言い合っているセドリックと情報屋を無視して、神崎は部屋に戻った。
……
「ユースフくーん……」
「どうしたんすか? 佐山センパイ」
共同のダイニング。
佐山は重たい目を擦りながら、洗い物中のユースフに話しかける。体が重い。
「なんかだるくて……。眠気覚ましの薬とかありますー?」
「薬っすか……。セドリックさんの方が詳しいと思うっす。眠気覚ましなら……そうっすね、コーヒーとかなら用意できるっすよ。どうします?」
「じゃ、おねがーい。ああ、ねむ……」
佐山はなんとかユースフの言ったことを理解して席に座る。このままじゃコーヒーを飲む前に眠ってしまいそうだ。
夢は、みたくない。
最近、眠る事が怖い。
夢が幸せ過ぎて起きたくなくなってくる。いつまでも眠っていたいと思う。現実と夢が反転してどちらが本当かわからなくなって、どうせなら幸せな方をと夢を選ぼうとしてしまう。
それが、恐ろしい。
起きていたい。眠りたくない。でも、なぜか佐山はずっと眠い。十分な睡眠時間はそれなりにとっているはずなのに、いくら寝ても眠い。
霧がかかったような思考をなんとか回す。眠気の原因。思い当たる事はない。佐山はベルフェゴールの配信も見ていないのだ。此度の騒動は全て伝聞で聞いただけ。直接的に関わった事なんぞ何もない。
なんでだろう。
呪いではないのならなんなのだろう。ただの疲れ? 杞憂なのだろうか。それにしちゃあおかしいが、そうとしか説明がつかない。異常な眠気は、通常の説明じゃないと説明がつかなかった。
佐山はあくびをし、人工的な茶色が薄まった髪をガシガシ擦る。そろそろ染めなくちゃなあ……。面倒だ。
「佐山センパイ、砂糖何個入れます?」
「できる限りたくさん。ミルクも」
コーヒーは好きだ。砂糖とミルクをドバドバ入れてめちゃめちゃにかき混ぜたやつ。安藤からはもうカフェオレ飲めよもったいないと言われたが、佐山は甘ったるいコーヒーが好きだった。
「……コーヒーじゃなくないっすか?」
「コーヒーはコーヒーですー。ちょっと甘くなったからって原材料がまるっきり変わるワケじゃありませーん」
ユースフが呆れたようにため息を吐いて、佐山は薄く笑った。机に突っ伏す。
眠い。
とにかく、眠い。明日の夜は任務が入っているのに、こんな調子でどうするというのか。でも眠かった。もう投げ出してしまいたかった。どうでもいいような気がした。幸せな夢をわざわざ忌諱する理由はどこにもない事に今更ながら気づいたのだ。
「……おねむっすか?」
「ん……? ああ、すみませーん。ちょっと、限界……」
幸せな夢。夢はあくまでも夢であり、現実になる事はないのに、縋ってしまう。胡蝶の夢ってのがあったな……。でもちょうちょになりたいワケじゃないし……。でも現実が夢になったらいいのにと思う事はあるから……。つまり……?
……佐山は幸せになりたいだけだ。
現実で幸せになる方法はにっくき嫉妬の悪魔リバイアサンを殺す事。でも夢は違う。そもそも佐山は殺人を好まぬ平凡な少年である。
だから、理想は、夢は違う。
目の前に、誰か座っている。誰かはわからない。閉じかけていた目を開く元気は残っていない。でも、安心できる誰かだ。
佐山は目を閉じる。
……
『ホイホイ! このベルフェゴールに何かご用事? 契約者さん。……ああ、夢。夢が見たいんだ。幸せな夢ね。いいよ。何を支払う? ……オッケー。じゃあ三時間ね。……少ないって? 多い方だよ。マモンだったらもっとふんだくってるんだから、ベルフェゴールの寛大な御心に感謝してほしいぐらいだね。にししっ! うんうん、すなおだねえすなおだねえ。自分の欲望に正直な子はだいすき! 愛してるよ、ベルフェゴールだけの──。……名前で呼ぶなって? 怖気が走るって? ひどいなあひどいなあ。ベルフェゴールはいつだってキミの味方だよ。友人であり愛人だよ。キミだけを愛しているよ。共犯者だよ。どんなこともしてあげる。寄り添ってあげる。たとえキミが自身の家族をベルフェゴールを使って殺したクソ野郎でも愛し続けてあげる。うんうん、かわいそうだねえかわいそうだねえ。今にも吐きそうだねえ。思い出しちゃった? かわいいなあかわいいなあ。絶対ここで吐くなよ。吐いたらハラワタを引き摺り出すからな。……でも安心して! ベルフェゴールはキミがだいすきだから、どんな手を使ってでも生かし続けるよ。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、どんなに死にたくなっても、どんなに死にそうでも、生かしてあげる。死なせない。ベルフェゴールが飽きるまで、キミを死なせてあげない。愛してるよ。だいすきだよ。だからこんなに面倒な事をするんだよ。これを愛と呼ばずになんと呼ぶの? ……執着心? そうかもね。だけどこれは愛だよ。愛情だよ。一片の曇りもない、ベルフェゴールからの愛だよ。素直に受け取っとけよクソガキ。で、なんだっけ? 夢? オッケー。それじゃあ、えー、ゴホン。……最低最悪の悪夢をどうぞご覧あれ!』
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