第1話 僕は、森の中。そして殴られる。

 ええ、現在の自分の状況を確認しよう。

 

 陽が沈んだの見たのは、三回。

 つまり、もう三日は森の中にいる訳である。

 麻製のリュックの中身を確認しよう……。

 ——なけなしの水に、固い干し肉。コンパスと地図、そしてまだ使用してもいない、溜めた金貨五枚……。

「…………」

 僕は覚悟した。

 旅が始まる前に——僕はここで一生彷徨い続けて死ぬかもしれないことを。


      ☆


 実家を囲むように広がる名も無き森。当然、あらゆる種類の魔獣が棲みついている。

 ゴブリン然り、狼のような獣もいるし、大きな翼で、羽を鋼鉄化させて攻撃する魔物もいる。

 まさに危険区域である。

 知恵を振り絞らない限り、何の策も無しに野獣と一戦を交えたくはないものだ。


「道に迷ってしまった」

 地図を広げながら僕は呟く。

 額の汗を腕で拭い、四方八方と見渡すが、やはり景色は変わらず——ゆうに三〇〇メートルはあるだろう、巨大な樹々が僕を監視するように佇んでいた。

 北西へ真っすぐ森を突っ切り進めば、シオカラ街道に合流し、その道を辿るとミスリルの街に着くんだけれど……。

 母の書斎から勝手に抜き取ってきた地図があまりに古くて、どう読めばいいか分からないような専門的な地図記号と方位だらけで、道を解読することが出来なかった。

 

 もう一度——今度ははきはきと叫ぼう。

「道に迷ったぁああああああああ!!!!」


 まあ、叫んだとて状況は変わらない。

 さて、どうしたものか。

 そうだ。こういう時こそ、鼻を聞かせよう。

 ……ただし、比喩表現ではなく、本当に、だ。


 日光を遮るに丁度いい場所を見つけた。うねる巨大な根っこが層になって屋根になり、空洞を創り上げていた。僕はそこへ駆け込み少し休んでいた。

 残り少ない水を飲み干して、ぼうと瞑想をしていた。集中力を高めるためである。

「…………よし」

 ふっと息を吐く。

 僕が今からすることは至って簡単ではある。が、を解析するために頭をフル回転させなければならない。だが一瞬だ。


 僕は地面に顔を近づけて鼻の孔を大きく広げる。

 そして勢いよく空気を吸い上げた!


追跡嗅覚チェイスセンス


 僕の脳内に、あらゆる匂いに関する情報が伝達される。

「…………ここさっき居たのは、ローンオオカミ。そしてその前は二足竜のワイバーン、断頭ナイトにキングゴブリン……、でもこいつ、ちょっと匂いが違う、メスか……ごく稀にあらわれるというが——この森にも居たとは……名付けるならクイーンゴブリンとでも呼ぼう。バジュラゼブラが駆けた跡……」


 僕が匂いで追えるのはほんの数日。

 この森のから情報を読み取り、逆算していく。

 土は踏まれたときの情報を持っている。それには匂いがついていて、僕はその匂いを嗅ぐ嗅覚を持ち合わせていた。ここを通った獣からその前に通った獣、さらにその前に通った獣の足の匂いを遡って追うことができる。

 これが僕のやり方であり、特技でもある。

 

 匂いの情報の流れの中、僅かな磯の香が鼻の奥に広がり始める。

 ミスリルの象徴とも言えるシオカラ鉱山からは、海のような磯の香が強烈に漂う——旅人たちは嗅いでいなくとも通っただけで舌先の味蕾が塩辛感じてしまうことからそう名付けられた道が、シオカラ街道なのだそうだ。

 つまりそろそろ、匂いのゴールは迫りつつある。


「見つけた」


 シオカラ街道の匂いを纏った獣——オークの親子だ。

 駆け足で道を横切っているのを匂うに、恐らく人間たちに見られないように駆け足で通ったのだろう。

 そして丁度オークの親子は、僕のいるこの場所で一休みしていた。

 後は匂いの道を辿れば、シオカラ街道へと辿り着くはずだ。

 分かってしまえばこっちのものだ。

「け! 楽勝だったな。よし、日が暮れる前に急ごう」

 技を使え終えた時、辺りは暗くなり始めていた。黄昏時だ。

 一人分くらいのこの空洞で一休みも良いが、出来るだけ先に進んでおきたい。どのみち、木の上で寝ていれば何とかなるだろう。

 僕は草木を掻き分けて先を進む。

 気分は上々。

 いっそ鼻歌でも歌おうかな。

 …………。

 そして僕はそうやってすぐに調子に乗るから、足を滑らせて斜面に転げ落ちてしまうのである。

「うわあああああああああああああああああ!‼‼」

 視界がぐるぐると回りながらもなんとか意識は保たせる。が、もう何が何やらさっぱり分からない。道から外れてしまったし、この斜面——思ったより急だったから転がっているというよりも落ちていると言った表現の方が正しい。どこへ行くかも分からないまま、僕の体は丸まりながら落下の法則に身を任せていた。

 その最中、僕の後頭部に何か固い粒のようなものが当たった。

「ぐげっ!」

 その時、僕の意識はその衝撃によって一瞬で刈り取られてしまった。


      ☆


 永い夢を見た。

 母が怪我をして帰ってきた。

 ボロボロにされたようで、体中にあちこち打撲痕や、鋭い槍で射撃されたような跡があった。

 母にはあり得ないことだがゆゆしき事態ではあった。

 倒れた母を寝床へと乗せて、僕は傷の手当をした。寝ずにただずっと母が苦しむ姿を見続けながら僕はずっと傷の手当を施していた。

 数日が立ち、怪我が完治した母を見て、僕は涙を流した。

 元気になって良かった。

 母は嬉しそうに笑っていた。その時、初めて心の底から母さんに感謝されたような気がした。

 僕はまた涙を流した。今度は悲しみとかではなく、ただ助けれたことが嬉しくて。


      ☆


 僕は目を覚ました。

 頬がやや湿っている。暖かな夢を見ていた気がするが、果たしてどんな夢だったのだろうか。また思い出してみたいものだ。きっといい夢であったろう。

 むくりと体を起こして辺りを見渡す。

 森、森、森と。

 これだけで僕がどのような状況下に置かれているのか、思い出すことができる。

 何かを引き摺ったような斜面。これは僕の落下の跡なのだろう。綺麗に溝が出来ている。体中が痺れる痛みを感じているが、五体満足であるだけラッキーとみれる。

 幸い荷物も落としていなかったようだし。

 元居た場所へ戻るのも手だが、もう辺りは暗い。

 どこか広くとれる空間を探して野宿でもしよう。

 僕は再び歩き始めた。今度は慎重に。足を踏み外さないようなへまをしないように——道中、木の実なんかも採ったりして。

 ふぅ、と僕は溜息を吐いた。


 サワワゎァァァ……——。


 川のせせらぎが聞こえた。

 耳で捉えた途端、僕の鼻の中に川の淡い匂いとが強烈に広がった。

 けれど僕には川のことしか頭に無かった。水源がある方が何かと都合がよく、汚れた衣服の洗濯だって出来る。もう三日も服を着ているのだ、汗臭くて仕方なかった。

 だから僕は——これから目の前に広がる光景が何を意味しているのか、知る由も無かった。


「………………ん?」


 獣道を抜けた僕は思わず喘いだ。

 ……川の中に誰かいる。

 川岸には、綺麗に畳まれた衣類と、お供え物のように置かれた銀色の甲冑。

 その人影は裸体の女性だった。

 燃えるような紅の長い髪と、磨かれた肉体には現実のものとは思わせぬ神秘さがあった。母ほどではないが、乳房も十分にありながらスレンダーで、絹のような白い肌にはシミの一つも無かった。緩い好風が彼女の紙を靡かせる。

 それはさながら泉の女神だった。

 どうやら水浴びをしているご様子。

 申し訳ないが、僕はその魅力にただ見惚れていた。

 もう少し近づこうと半歩歩みを進めた時——ガリッと、爪先で石礫を蹴ってしまった。

「ふんふんふーん……ん?」

 しまった。

 石礫が跳ねた音のせいで、女性がこちらに気づいたようで。

「あっ」

 と僕は呆気に取られたような声を上げた。

 女性が頬を赤くしながら僕に訊ねた。

「あ、あんたは……?」

「あ、えーっと……その……」

 言葉が詰まる。

 けれど僕の下手な思考は、咄嗟の一言を発したのだ。


「と、通りすがりの魔物ですが、何か?」


 女性の眉間に皴が寄った。

 そして水面がゆらりと触れたと思うと、女性の体から何かオーラのようなものが漂い始めた。

 それが何なのか——この時の僕には分からなかったが、そんなことを気にしていた時点で、既に僕は未来を失っていた。


「ならば、お前はここで死ねぇええええええええええ!!!!」


 彼女の右掌から放たれる——白いほのお。その形は竜を模していて、まるで生物のように蠢いていた。

 避ける間もなく、それが僕に直撃する。

 痛みよりも熱さが全身に刺激されて、僕は堪らず叫んだ。

「ぎゃヴァああああああああああああああああああ!!」

 最後、視界の端で恥じらった女性の様子を脳内に焼き付けると、僕の意識はあっという間にシャットアウトしたのだった。

 


 

 

 


 

 

 

 



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