五 - 1 塵芥の荒野
脳天を焦がす太陽。はるか彼方まで続く薄墨色の起伏。
熱波と共に砂と灰が舞い上がり、船着き場に吹き付けた。
「舟? んなもん出ねえよ」
唇にへばりついた灰を拭い落としていると男がぶっきらぼうに答えた。
ふっかけてやがるのかと思い、色を付けると匂わせてみるが、鼻で笑われる。
「銭の問題なんかじゃねえ。もう舟なんかありゃしねえんだよ。いつだか
船頭は桟橋に屈み込むと、土色の毛がまだらに生えた分厚い体を丸めた。
「新しい舟は。用意しちゃいねえのかよ」
「用意したって無駄だ。舟を引っ張る
「それじゃ、どうしたらいいんだ」と問うと、船頭は「知らん」とだけ返した。
船頭は、桟橋に腰掛け、遠く灰の舞う荒野を眺める。
「わしらはもう終いよ。お前も一緒に諦めろ」
そう、肩越しに振り返る。
「それができねえなら、歩くんだな」
近くでやり取りを見ていた他の船頭達が、どこか面倒くさ気な目を向けてくる。だが、そのどれとも視線が合うことはなく、別の舟の話が出てくることもなかった。
また、灰混じりの風が吹いた。
「こりゃ参ったな」
舞い散る灰燼に背を向けると、ほっかむりをした小僧が俺を風よけに立っている。
「全員負け犬ヅラだ」
要一が俺を見上げる。口は真一文字に結ばれていて、いつものように表情はない。黒い衣には灰がこびりつき始めている。繰り返される野宿の疲れか、幾分やつれて見えた。
ここで一旦休めると思ったんだが、そう甘くはないらしい。
「舟ならあっという間だったんだがな。しんどくなるぞ。覚悟しとけ」
渡し場の近くには塵芥の荒野に背を向ける格好で、四角い石造りの建物がぽつぽつと建っている。その殆どは船頭の住居だ。
水で溶いた泥と灰が塗り込まれた壁面は、吹き付ける灰に白く覆われている。灰の粒子が細かいせいかその表面は滑らかだった。
その内で一際大きな建物が食堂を兼ねた宿場だった。何度か訪れたことがある店だった。
店内は薄暗かった。風が強いからか窓が閉じられているせいだ。
入り口から奥まで一直線に土間が続く。その両側は平たく岩が積まれて膝ほどの高さの岩棚になっており、その上には年季の入ったござが敷かれている。かつては飯を食うための座敷の代わりに使われていたのだが、いまは客の姿はない。土間の奥には地下へ下りる階段があるらしく、そこが寝床になっているらしい。この格好の家はどれもこのような作りであるらしいが、他を直接見たことはない。
ようやく客が来たことに気がついたのか、座敷のへりに腰掛けていた店主がのそりと立ち上がった。俺が知る店主とは違う、若い男だった。
「これに満杯水を貰えるかい。それから何か保存のきく食料も頼む」
男は黙って水筒を二つ受け取ると、甲羅状の胸元をかきむしりながら奥の水がめに向かった。ふらふらとした足取りだった。水を汲む動作もとろくさく、いらいらする。
手持ち無沙汰に待つ間、妙な居心地の悪さを感じた。
荒野に面するこの集落の建物は、灰が吹き込んでこないよう荒野に面する壁に窓を持たない。必然、店の奥側の壁は荒野に面しており、そのせいで店は奥に行くほどに薄暗い。
乾いた灰と砂のにおいと明かりのなさからどうしたって感じる陰気臭さ。はじめのうちは、それが居心地の悪さの原因なんだろうと思った。
だが、何気なく視線をやると、奥の座敷の薄暗がりで目玉が四つ仄かに光っていることに気づく。ぼやりと暗闇に溶け込む影が、無遠慮に向ける視線。よく目をこらすと、影は二つ。極端な小男と大男のようだった。
なんとなく嫌な眼差しだった。二人は俺たちに目を向けたまま、時折小さく言葉を交わす。餓鬼を連れての二人旅だから珍しがっているんだと思いこむことにした。
ぼそり、と声がした。店主がすぐそばに立っていた。皿のような目を俺に向け、土中壺から出したばかりの塩漬け肉と水筒を二本差し出すと、目の飛び出るような値を呟いた。
「そりゃぼり過ぎだ。前は半分もしなかったろう。肉だってこんなに小さいじゃないか」
「ならやめろ。買うか、死ぬか。肉も水も、もう少ない」
男は尖った牙を剥き出すと、荒野の方角を指差した。生臭いにおいがした。
「わかったわかった。買うからよ」
仕方なく銭を払う。塵芥の荒野を抜けるまで、もう店などないのだから仕方ない。
前の親父は足元を見るような値をつけたりはしなかったんだがなあ、と思う。
「ところで、あの親父はどうした。ほら、酒好きでいつもへらへら笑ってる――」
要一に水筒を一つ渡し、荷物を作るついでに声をかける。
男は振り返りもせず「死んだ」と答えた。
陽が頭の上で溶けている。濁った空と荒野の灰とが地平で一つに混じり合う。
足を動かす度に灰が舞い、汗みずくの肌にまとわりつく。頭蓋の中で脳みそが湯だっている。汗と灰を含んだ衣が重い。
灰が足をずぶずぶと飲む。何度歩いても、これには慣れない。これならあの湿地の方がまだ歩きやすいくらいだ。
少し先に小さな丘があった。その上には赤銅色の枯木が捻れ生えている。どうしても頭に過る記憶をふるい落とす。
「あそこで一休みするぞ」
丘の根本、ひさし状にえぐれた辺りを指差すと、隣で要一が頷いた。頭に被った紺の手ぬぐいも衣も汗で濡れた首筋も、こびりついた灰でどろどろだった。
塵芥の荒野にはこうして幾つか目印となる地点がある。そこを起点にして別の目印へ、点と点を結ぶように歩いて目的地を目指す。丘の枯れ木もその一つだった。
幸い、この辺りは餓鬼の頃から嫌というほど歩かされた。目印は頭に入っている。道順はまるで問題じゃないが、この塵芥の荒野において、そんなことはまるで安心の材料になんかなりゃしない。
火葬どもが湧いて出るからだ。
「奴らは日中は殆ど姿を現さない。だから、日の高い内に抜けりゃ大したことはない」
うんざりするほど聞いた言葉。垢まみれの頬。
「だが、やっかいなことが一つある。連中の巣だ。火葬の巣は白い筒型をしていて、この灰の中じゃあ分かりづらい。うっかり触れたり、場合によっちゃ落っこっちまうこともある。そうなりゃ一発だ。大事な巣が弄くられれば、たとえ日があろうとも火葬は飛び出てくる。息を吸う間もなく奴らに口を吸われて、はらわたを焦がされちまうだろうよ」
縄を握る腕。袋状の背中の皮がぶよりと揺れる。
頭を振り、余計な記憶を追い出す。
「灰の色が黒っぽい場所には近づくなよ」
頭の声を引き継ぐ格好で要一に語りかける。
「色の濃い灰の下ではまだ火が燻っていることがあるからな。何かが燃やされたばかりの場所だ。意味はわかるな」
これ以上灰を巻き上げないよう気をつけながら歩を進め、どうにかひさしの下に潜り込む。腰を下ろした途端、生ぬるい灰がふわりと舞った。目玉達がうざったそうに瞼を閉じる。一つ大きく息を吸うと灰が喉にへばりつき酷い咳が出た。竹筒の水を飲んでそれを洗い流す。要一も少し離れたところに座って水を飲んでいる。
明らかに前に来たときより灰が増えている。噂によれば、近頃この辺りで行方知れずになる人間がちらほら出ているらしい。火葬が繁殖していやがるんだろうか。
気持ちよく冷えた土にもたれかかりそんなことを考える。これまで気にもかけなかったが、確かに化け物が増えつつあるのかもしれない。
〈変異〉の影響か、訪れる村の人間もどこかぴりぴりしている。宿場の主人じゃないが、余所者ってだけで露骨に態度が悪くなり、中には敵意を剥き出しにする奴までいる。
熊雪はこのことを言っていたんだろうか。
思わず溜息が出た。小平寺を出てもう随分経つというのに、気を抜くとあの夜のことが鮮烈に蘇ってくる。忘れようとしても頭を離れない。
皆で囲んだ飯のことも、熊雪の不格好な笑みも。
――そして、その後の事もだ。
あれから、俺と要一は朝を待たず、すぐ寺を後にした。
気絶した良清の野郎がいまにも目覚めそうで居ても立ってもいられなかった。
熊雪にしがみついて離れようとしない要一のケツを蹴り上げてそれを伝え、無理くり納得させると急いで荷物をまとめた。
山門から続く下りの石段を
石段の脇の林の中、そう遠くない所で、何かが鳴き声を上げた。
獲物を見つけた
どうにか湿地に降り立ったところで、今度は身を隠す場所がないことに気がついた。化け物の跋扈する林に身を隠すわけにはいかないし、かといって戻るわけにもいかない。
林で再び甲高い声が上がる。すくみ上がった拍子に、どうにか張り詰めていた思考の糸がもつれた。身を縮め、ただ薄っすらともやの煙る泥沼に視線を走らせながら、木の根の陰にあるはずのない隠れ場所を見つけ出そうとしていた。
その脇で、ふいに要一が歩き始めた。
「おい、待てよ。どこ行くんだ」
肩を掴んだ手を振り払い、要一は明後日の方向へ突き進もうとする。一瞬、夜を明かす場所を思い出したのではと期待したがそうではないらしい。
無理やりこちらを向かせると、涙を拭ったその顔は決意と自棄で塗り固められていた。熊雪の死を目の当たりにして頭がいかれちまってたんだろう。そのまま朝を待たずに先へと進むつもりのようだった。骨喰がどっちにあるのかなんて分かりもしないくせに。
今動いても無駄だ、化け物に食い殺されると何度言い聞かせても無駄だった。何を言っても首を振るばかりだった。
いつ化け物に喰われてもおかしくない状況にもかかわらず、またいつもの頑固さと話の通じなさを発揮する要一に対し、次第に腹が立ってきた。だが放っておくわけにはいかなかった。要一を喰らいに寄ってきた化け物は、必ず俺を次の標的にするはずだからだ。
下手すりゃ獲物は体のでかい俺にすり替わって、要一はその隙にとんずらなんて流れも想像できる。あのときみたいに誰かが助けてくれりゃあいいが、もはやそれも……。
あの巨体を思い出しかけたところで、ふとある考えが頭に浮かんだ。
「――おい待て。隠れるのに丁度いい場所がある」
あの釜の化け物がいた小屋だ。
「せめて朝まであそこに避難すべきだ。どこにあるか覚えてるか」
気絶している間に寺に運び込まれた俺には、あの小屋がどの方角にあるのか分からなかった。だから、どうしても要一に道案内させなければならなかった。
幸い、朝まで隠れることに要一はひとまず納得した様子だった。その上、小屋がどちらにあるのかも概ね覚えていた。
あばら家に到着するまで無事だったのは運が良かったとしか言いようがない。泥濘を這う禍々しい影を見かけずに済んだのは、元々が蛟竜の縄張りだったことも関係するのだろう。他の化け物どもはまだ警戒していて、近づいてこなかったのかもしれない。
家に転がり込んでからは、ろくに眠りにもつけぬまま腐った畳の上で朝を待った。
寝返りを打つ度に潰れた目玉がじくじく痛んだ。要一も何度も寝返りを打ち、時折、鼻をすする音がした。まどろみかける度、脳裏に熊雪の最後の言葉が甦り、俺を現実に引き戻した。長い長い夜だった。
太陽が東の空に戻ってきた時、俺は心の底から安堵した。黄金色の朝日が愛おしいと思ったのは久しぶりだった。
水がめで喉を潤し外に出ると、要一も一緒について出てきた。
朝もやの立ち込める湿地を前にして、足が止まる。
どっちに向かって踏み出せばいいのか分からなくなっていた。
向かうべきなのがどこなのか、真剣に悩み始めていた。
生まれて初めてのことだった。
今にして思うと、少しおかしくなっていたのかもしれない。きっと、あまり寝れなかったせいだろう。そうでなければ、悩むはずなんてないんだから。適当に一歩踏み出せば、それが俺の向かうべき方角だ。骨喰に向かうべきか、なんて頭に浮かびすらしない。
ぼうっと突っ立っていると、傍らにいた要一が袖を引いた。
目玉を真っ赤に潤ませていた。何も言えずにいる俺の腕にすがりつくと、何度も、何度も、引っ張った。
思わず「銭にならねえんじゃなあ」なんて口にすると、今度は小さな皮袋を差し出す。
中には骨銭が、たったの六枚入っていた。
「たったのこれっぽっちじゃお前……」俺が返事を返す前から、要一が強く袖を引いた。小さな目玉から涙の粒をぽろぽろこぼしながら。「これだけじゃあよお」何度も、何度も。
どうしてだか、その姿が妙に餓鬼の頃の自分に重なって見えた。
力がなく、頭も弱く、ただ強いやつの言いなりになっていたあの頃の俺に。
泥をすすり、地虫を噛み潰してでも生き延びてやると誓ったあの頃の俺にだ。
どこがどう似てると思ったのか、今でもよく分からない。
だけど、一人くらい、こいつにも手を差し伸べる奴がいても良いんじゃないかって思った。白瓜がそうしてくれたみたいに。
気がつくと、皮袋と六枚の骨銭を握りしめていた。
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