別れ 1
語り終えたヤスジロウはそこでひとしきり宙空に視線を流し、それから向き直るとちょこんと頭を下げた。
「これで終わりだ。最後まで聞いてくれてありがとよ、ゴクラク」
そしてすぐにまた視線を逸らし照れくさそうに顔を洗う。
吾輩はなにも言えなかった。ただ意味もなくやや髭を下げ、瞳を細く立ててそのヤスジロウを見遣るのが精一杯だった。
ただただやるせなかった。
つい最近までずっととっぽくて面倒臭いだけの奴だと思っていたヤスジロウにこんな辛い過去が隠されていたとは思いも寄らなかった。けれどもし知ったところでやはり吾輩にできることなどひとつとしてなく、そのことが無性に腹立たしく思えた。
またそれ以上に腹立たしかったのは彼がお袋さんと呼ぶ女性に対してであった。
吾輩は猫である。
無論、人間の心理には疎い。しかしながら母親にとって子を失うことが吾輩の想像よりも遥かに大きな悲劇であることは理解できる。現実に目を背けたくもなっただろう。けれどだからと云って感情破綻に任せてヤスジロウを疎遠にしてしまうなど決してあってはならなかった。
吾輩は人間が好きである。
こんなことを恥ずかしげもなく正直に誰かに打ち明けたことはないし、金輪際そういう機会が来るとも思えない。けれど紛れもない本心である。
タカトシは凡庸な性格で感情を表にしたり、ましてやそれを言葉にすることなど滅多にないが、それでも吾輩のことを大切に想ってくれている気持ちは充分に伝わってくる。またセリは口うるさいが、裏返せばそれはいつも吾輩を気にかけてくれている証拠だし、吾輩を見守るナズナの瞳からは包み込むような寛容さと温かさを常に感じる。それらはきっと人間たちが愛と呼ぶ目に見えない産物であり、吾輩が生まれてこのかた疑心も屈託もなく空気の如く当たり前に享受しているものなのだ。
そしてそれがあるからこそ吾輩はここで生きていける。
こんなちっぽけな動物病院の中に閉じ込められ、これまで冒険やスリルとも無縁だったが満ち足りた生活を送れているし、一生このままでもなんら問題はない。いや、むしろ一生このまま彼らと生活を共にしたいと心の底から思っている。
けれどヤスジロウはその愛とやらを無惨にも取り去られてしまった。
空気を求め喘ぎ続ける彼の姿を想像すると不意にいろいろなことに得心がいく。
そうか……。
きっとヤスジロウは窒息しそうなそんな境遇からなんとか逃れようと外に出るようになったのだろう。危険があると知りつつも注がれない愛情の代わりに外の世界に刺激を求めたのだ。このような仕打ちにあったのだからムシャクシャして自暴自棄になって大して強くもないケンカをするのも頷ける話だ。
そしてふと脳裏に過った。
もしかするとヤスジロウはケンカをして傷だらけになればお袋さんが帰ってきて手当をしてくれるかもしれないと微かに期待していたのではないだろうか。だから病院で消毒されて、たまに縫合されて、それがどれほど強烈に痛んでもお袋さんのことを考えて耐えていたのではないだろうか。
その憶測に吾輩はやがて腹の奥底から湧き出してくる怒りにまかせて生まれて初めて喉に威嚇の音を響かせた。
「……クソだな」
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