オーバーメガテック異世界
Neo_T1@寝落ち三段
プロローグ
多元構造都市から溢れ出る灯りは超速道路を走る大型トレーラーに乗り、郊外にある静かな森の隅で置き去りにされる。
ここは自然保護を目的に、特殊国立公園に指定されており、又ある施設から人々の営みを守る為の緩衝地帯にもなっていた。
広大な公園を横切る様に流れる一級河川を水源にした人工湖。その周囲に建設された研究棟の一つが、トレーラーの目的地である。
森の中を、長大な塀沿いにぐるりと回ってきたトレーラーは、研究区画外縁部に敷設されたゲートの群れに足止めされていた。
「ご苦労さん、ガイドビーコンに従って進んでくれ」
警備員の指示に従いセキュリティチェックの為、所定の場所へとトレーラーが進んでいく。
検知エリアに止まると、ノンマテタブレットを操作しながら運転手が降りてくる。
「申し訳ない、積み荷の準備ができ次第、随時出発してるから先ずはこれだけだ」
運転手は納付書の確認を、警備主任に求めながら言い訳じみた物言いをする。
「仕方がないさ、お偉方の思いつきに振り回されるのは、いつも現場だよ」
警備主任が肩を竦め、お互い様だと同意すると、二人は詰め所のほうへと歩き出す。
その横でセキュリティチェックを終えたトレーラーは、オートクルーズでゲート内に進んでいった。
第6区画 研究センターB棟 am02:40
夜間用に調光された部屋で、一人の男がモニターの光に照らされながら作業している。
施設内部は研究員が作業に没頭し、健康を害さない様に外界と完全に遮断されておらず、施設内の光源や音調などは、生活リズムに配慮されたものとなっている。
今回はそれが功を奏したのか、男の手が止まる。
研究員である男は作業を中断し、大きく体を伸ばすとその勢いのままにソファーに沈み込む。
「あやかちゃん、なんか騒がしくない?」
その男しか居ないはずの部屋に、返答があった。
「A棟の研究チームから、管理部に新式転送システムの公開実験が、急遽申請されたようです。詳細をスクリーンに映します」
男の質問に答えたのは、各研究室に専属で配備された管理用AIである。
「それよりも霧島博士、バイタルが正常値から少し外れています。お休みになられたほうが良いのではないでしょうか?」
霧島博士と呼ばれた男は、管理用AIが淹れてくれた紅茶を手に取ると、電子カーテンの一部を解除し、外の様子を確認する。
「…よし、週明け7時から研究室の利用申請出しておいて、あと施錠よろしく」
博士はカップに残った紅茶を飲み干し、管理用AIから提案された『健康的な週末の過ごし方』を携帯端末で受けとると、白衣のまま研究室からさっさと出ていった。
無人となった室内では、セキュリティシールドを施す光がカタカタと明滅していた。
勢いよく研究棟から出る博士を、真鴨の親子が出迎えた。無論、生き物でないことは言うまでもないだろうが、国立公園内には越冬してきた後に、留鳥となった真鴨が繁殖しているので、念の為。
実際に博士が足を掛けたのは、自律走行式ユニサイクルで、複数のサイズが連なって敷地内を徘徊していることから、なんのひねりもないあだ名がつけられたものだ。
親鴨の背に乗りゲート前までやって来ると、研究室で見た光景がまだ継続中だった。
博士の到着に気がついた警備員が、小走りに近づいてくる。
「お疲れ様です霧島博士。すみません、もしかして騒がしかったでしょうか?」
否定の意味を込め首を振り、帰宅することを伝える。
「送迎車を呼びますので、少々お待ち頂いてもよろしいですか」
「いや…いつも通りでいいんだが…」
博士が説明しようと言葉を選んでいると、その様子に気がついた先任警備員が近づいてくる。
「博士お疲れ様です。すいません、こいつ配属されたばかりでして…いつも通り回しておきますんでご安心下さい」
博士は感謝の意を伝え、セキュリティチェックを受けて、対人ゲートから出ていく。外灯に照らされた国道を少し行ったところから、公園内に敷設された遊歩道に舵を切り姿を消した。
「ほら、一時間後に公園入口に車回しておけ」
送迎車の配送位置情報を受け取りながら、不思議そうにする新人に毎度の事だと、察した先任が答えてやる。
「ネイチャリストっていうのか?週末はいつも公園で瞑想してから帰ってるらしいぞ」
「こんな時間にですか?」
何度もみてきた光景だと、先任は頷く。
「それにな、電脳化も義体化もしてないんだと。流石に国定研究員だから、注入と培養はしてるんだろうけどな」
「今時居るんですね、そんな人」
新任が来る度に恒例となったやり取りを済ませた二人は、それぞれ持ち場に戻っていった。
ここ、マグナパルス特殊国立公園は北半球の少し高い位置にあり、サワグルミやスギが原生している。また、緩衝地帯として作られた養樹苑には、アカシアやライラック等が植樹され、現在では様々な大樹が存在している。
それら公園中央を囲う様に設置された遊歩道や公園施設は、一般にも一部公開されており、研究所運営への市民理解に貢献している。
その遊歩道を、ゆっくりと歩く博士の足元を照らす誘導灯やルート脇に設置されたガーデン灯が、木々の協力を受け公園内を陰影に富んだものにしていた。
そんな景観に心を休めた霧島博士は、管理用AIから提案された週末の過ごし方に目を通すことにした。
「…う、ん?」
ポケットから携帯端末を取り出し、通知をタップした博士の指が止まる。
『チャクラを開け。深き森の泉で瞑想し、オーラを感じよう!特別講師、スペースシャーマン田中』
『カタラッタ・ストーンヘンジで宇宙の息吹を感じろ!宇宙マイクロ背景放射は君を時の彼方に連れていく…あなたは因果の果てに何を見る』
端末の画面で、胡散臭く明滅するバナー。
非常に怪しくはあるが、軍も関与している国立研究所のAIが勧めるサイトに、セキュリティ的な問題がある筈もなく、それをタップする。
バナーはモザイク画の様にバラバラになると、突然現れた可愛らしい2Dキャラクターによって再構築された。
「すみません博士。冗談です、本命はこちらです」
管理用AIに与えられたアバターが、ピョコピョコと本命サイトのバナーを振り回す。
大きくうなだれ溜め息をつく博士の顔には、その角度に反して笑みがこぼれていた。
これはAIの個性化を室長の権限として行った結果で、堅苦しいのが嫌いな博士は、ウィットに富んだジョークを言える今の管理用AIを気に入っていた。
ただ、どうしても自分の評判に納得がいかず、つい愚痴が口を衝いて出てしまう。
「何故、ワシがネイチャリストみたいな胡散臭い連中と同列に扱われるんだ?身体強化をしてないのも天才であるワシのパフォーマンスが、最大限活きるのが今のままというだけで、合理的判断という訳だ。それにこうやって森林浴するのも特別な事じゃない、新鮮な空気を吸って自然の風景を見ればリフレッシュするだろ、誰だって」
長々と愚痴を言っていると、息継ぎが大きくなった為か本日二度目の溜め息をつく。
「なによりワシのあやかちゃんに、変なことを吹き込んだ輩がいることは絶対に許せん。どうせA棟連中のやっかみだろうが、なぜ守衛の連中にしても簡単に信じるんだ?」
霧島博士はロボット工学を専攻しており、中でもアンドロイド用AI:Artificial Intelligenceの研究に従事している事から、AIにイタズラされることは当然だが不快になる。
現在は、これまでとは大きく運用概念が異なる軍用AIの開発を進めている。
太陽系連合軍からの正式な依頼であるため、多額の研究費が博士一人に与えられ、ここでは数少ない個人研究室持ちである。
こういったことが、功を焦る研究員達からの妬みとなり、角の無い陰口へとなっているのだろう。
実際に変わり者であるという評価は、概ね間違ってはいない。しかしながら、政府からの依頼をこなし多くの実績を立てながら、他チームのソフトウェア開発などにも協力している。
従って上層部からの信頼は厚く、研究所内での人望も高い、ただ感覚的に合わないというだけだ。
そろそろ博士の愚痴も納まってきたようで、本日3度目の溜め息をつき落ち着くと、周囲の違和感に気付く。
辺りは暗く視界が狭くなっていた、道を踏み外さずにいられたのは、歩きなれたコースだったからであろう。
振り返ると数メートルに渡って灯が消えており、くっきりとした光の切れ目は、自分が暗闇に囚われたかのような気持ちにさせ、形容しがたい不安感を煽る。
ただ、博士に至っては、根拠の無い超常現象に恐怖することはなく、闇を恐れるのは脳細胞が活性化しただけだと、大人しく来た道を戻っていく。
少し歩いた所にある三叉路まで戻り、国道方面に身体を向けると、本日何度目か解らない溜め息をつく。
「…帰ろう」
博士はほんの少しだけ早歩きになるのを感じ、それと同時に、携帯端末を何となしに握っていた。
普段なら研究所の総務課にでも連絡して、管理を委託された企業にクレームを入れてもらうだけなのだが、今日は自ら言いたくなっていた。
とは言うものの、こんな時間に音声通話をしてもAIのテンプレート的受け答えしか聞けなく、それでは意味がない。
なので妥協した結果、この国立公園の委託会社のサイトフォーラムにあれこれ要望を書き、多くの人の目に触れられる様にしてあげることにした。
「書き始めて思ったが、管理が杜撰過ぎない?」
思いの外、筆が進み書けば書くほど細かい事まで思い出して、また筆が進む。
「遠目には大丈夫そうに見えていたんだが、こっちも酷いな」
博士の周囲の光源だけ、何故か弱くなったり明滅している。
「動体センサーなんて…付いてなかったよな?」
何にせよ不具合には違いないと、博士は更にフォーラムへの書き込みを続いていく。
重箱の角を開通し終えた頃には、国道に出る為のスロープ元まで到着していた。
自分の書き上げた大作を、読み返してみるとこのまま送信していいものかと躊躇してしまう。
意見は言う、ただもう少しスリムな文書にしても良いのではないかと思い、構成に頭を使う。
あれこれ考えながらスロープを登り切ると、端末以上の明かりを感じ、画面に意識を向けすぎていたことに反省する。
いくら深夜の郊外とは言え、良くなかったと顔を上げる。
「…?」
見覚えのある大型のトレーラーが道から外れ、眼前に迫っていた。様々な心の虚ろいが、博士の状況判断にタイムラグを与える。
どうしてそうなったのかは解らない、自動運転のシステムエラーなのか測位システムのバグなのか、はたまた超常的現象なのか。
何にせよ博士の思考は全く追い付かず、できたことと言えば目を見開き、息を呑むことだけだった。
だがこの時、瞬時に反応していた存在がいた。
それは博士の体内を巡るナノマシン郡だ。
博士の視覚や聴覚の情報から、危機的状況であることを予測し、博士の身体を強制的に動かし防御姿勢を取らせる。
この身体を強制的に動かすというのは、国際法よって禁じられている。
我が国も批准しており、本来なら出来なかったはずだが、これは一般的な仕様での話であり博士は対象外だった。
しかし、いくら防御姿勢を取ったとて、巨大なトレーラーが減速せずに衝突すれば、当然命はない。
従ってナノマシンが取らせた姿勢というのは、他の部分を犠牲にして頭部を守ると言うものだった。
接触する。
突き出した脚が押し潰され、剥き出しになった大腿骨が自らの腹部に突き刺さる。
恐らく強烈な痛みが襲ったであろうが、幸いにしてそれを感じる間もなく博士は気を失っていた。
しかし、それでも博士の身体は、強引に次の工程に移っていた。
『…ぇ…ま…』
無色透明でついでに言えば、無味無臭の形の無い空間が揺らめく。
何かが自分の意識に、触れようとしていることに気が付いた。
『聞こえ…ぁ…か?』
その声色の優しさに、素直に意識を向けようという思いにさせられる。
特定の何かに意識を向けることで、ここに独立した個が存在していることを、霧島博士は思い出した。
『問題ない、聞こえている』
誰かは解らないが取り敢えず返答し、次の言葉を待つ。
「ああ、良かった。これなら完全にパスを繋げられるので、少々お待ちくださいね」
博士は言われたとおり、大人しく待つことにする。
幾つかの小さな光が微かに見えた気がした、すると博士の五感は息を吹き替えす。
急激な情報量の増加に、一瞬目眩を感じたものの直ぐに意識を立て直すと、そこには一人の女性が立っていた。
女性は視線があったことを確認してから、小さな咳払いをして話を続ける。
「初めまして、先ずは自己紹介させてください。私はアンナ•フィン•クヴァイストと言います。私はこことは違う、別の世界から貴方に会いに来ました」
「ああ…それで?」
状況を整理したい博士は、適当な相槌を返すとアンナは何か言いたげにチラチラと視線を寄こした。
「お名前を聞いても…良いですか?」
「名前…あー、キリシマ一揆で登録してくれ」
アンナの困り顔が不思議ではあったが、何かを察した博士は答えてやる。
「ありがとうございます、キリシマイッキ様ですね。それでは時間も差し迫ってる訳ですし、本題に入らさせて頂きます」
博士は構わないと、話を遮らないよう頷いてみせる。
「先ずはキリシマ様は、自身の現状を理解できていますか?」
博士には不思議な質問に思えたが、言われたと通り今日の出来事を振り返ってみると、非常に不快な感覚に襲われた。
「…交通事故にあった。恐らく壊滅的な」
苦虫を噛み潰したよう顔をしながらも、受け答え自体は淡々としたものだった。
「はい、言いづらいことですが、その…キリシマ様の肉体は生命を維持する事が、既に不可能な状態です。十数秒後には…あの、すみません」
歯切れの悪い言い方をするアンナは、それでも話を続ける。
「このままではキリシマ様の、肉体と魂が分離し魂が霧散してしまう所でした。ですのでキリシマ様の意識が、意味消失してしまう前に勝手ながら魂をこちらに引き上げさせてもらいました」
それで、と続けようとするアンナの話を博士は一旦遮る。
「現状は概ね理解できている。話を次へ進めよう」
「すみません、長々と話してしまって。何度やっても、死を告げることは慣れなくて」
アンナは話を切り替える為に、少し間を置き口を開く。
「では、単刀直入に言います。私の世界に転生してください」
決意の込められた願いとは裏腹に、博士から返ってきた答えは軽いものだった。
「やはり…異世界転生ものか。気分的には宇宙海賊かトレジャーハンターがいいのだが。ジャンルの変更は可能か?」
アンナは博士の言っていることを、理解できなかったがその口調からこちらの熱意が伝わっていないことは解った。
困り顔でフリーズしているアンナと、レスポンスを待つ博士によってお見合いが発生する。
『反応がない。まさか1ジャンルだけなのだろうか。流石にそれは中途半端なサービス過ぎないか。そもそも予備のクローンに脳ミソ入れ換えるだけで、そこまで時間の掛かるものでもないと思うのだが…まさか結構死んでる?』
意識がしっかりとしていた為、脳に損傷が無さそうだと楽観視していた博士は、少し不安になる。
「【code:000】お遊びは止めて、クローンへの積み換え作業の進捗を報告せよ」
現状の確認の為に、緊急アクセスコードを使用する。ゲームは中断され、アンナは医療機関用のオペレーターに戻る筈だった。
しかし、アンナからの反応は一向に無い。最もポピュラーな公的緊急アクセスコードが使用できない。
そんな場面は勿論ある、政府や軍施設、また非合法の旧世紀品など割りとある。
だが医療機関はその性質上、門戸は広く開けられており公的コードが使用できないと言うことはあり得ない。更に言うなら、自分が救急搬送されるのは特定の国立病院であり、非合法品の使用もあり得ない。
念のため為に、個人IDや国定研究員としての権限も行使してみるも、期待した反応は無い。
バグやエラーかとも疑ったが、基幹システムで今更あり得ないしそれならそれで違った反応があるはず。
博士の見せた小さな焦りは、それまで冷静だった態度のせいか、アンナには大きく見えていた。
「ああ、申し訳ありません。そうですよね、そう簡単に死の恐怖を乗り越えられる訳ないですよね。キリシマ様の自若さに甘えて配慮に掛けてました」
そう言うとアンナは同じ説明をし始めた、より丁寧に。
「いや、そう言うことでは…」
流石に博士も、状況の非現実感を認めざるを得なくなってきた。
様々な可能性を想定してみるも決定的な根拠がなく、これが夢かバグかそれともあの神を名乗るアンナの言うことが現実なのか、判断できないでいる。
結局のところ判断材料を増やす為には、謎の源泉に手を浸けなければならなかった。
「クヴァイストさん、一ついいかな。あなたは私の肉体の状況が見えているのか?」
「はい、見えています…見せることも出来ます。とても衝撃的なので正直お勧めしません」
お勧めしないと言いながらも、出来る事を教えたのは、ただの善意からではなくそうしなければ納得しないであろうと感じたからだ。
アンナは予想通り見ることを選んだ博士に、再忠告し話を進める。
「私の視覚を通して見ることになります。自身の死に様を直視するというのは、耐え難いものです。ですが、キリシマ様の心は責任を持って私が守ります、安心してください」
アンナはそのたおやかな雰囲気には、似合わないファイティングポーズ取る。
「それでは、魂を穏やかにし、私を強く意識してください」
博士は目を瞑る。肉体を失っている今、実際に瞼を閉じた訳ではないがそう思うことで集中できる気がした。
あっという間に意識の方向性を強めると、その先には柔らかく暖かい陽光に満ちていた。
光に包まれ意識の共有に成功した博士は、視線を事故現場から意図的に外された光景を貸して貰った。
「これは…」
博士が目の当たりにしたのは、まさに自身が轢かれた瞬間で、その残酷な光景は博士を揶揄する様に、死者の如く動かなかった。
「クヴァイストさんこれはあなたの記憶を見ているのか?それともなにか時間を制御する術をお持ちなのか?」
「いえ、これは現実の視界です。私には時間を止める様なことはできません。あくまでも圧縮空間にて意識の高速化をすることで、残された時間を引き伸ばしているだけに過ぎません」
これは、事故からそれなりの時間が経っている可能性を、高く想定していた博士にとって朗報となった。
何故なら、事故に遭い死にかけていることは、恐らく間違いない現実だと言える。博士が迷っていたのは次のフェーズであったが、アンナは事故の直後だという。それが真実とするならと、博士は一旦整理する。
博士は電脳化しておらず、体内を巡るナノマシン群を全て一度にハッキングして、幻覚を見せるという可能性は非常に低い。事故に見せ掛け、博士の頭部を拉致し強制的に電脳化させたという可能性はあるが、であればこの状況は意味不明だ。
こんなことせず、さっさと情報を抜き取ればいい。
では、これが走馬灯や妄想の類いであったとして、博士にはどうすることも出来ず、手術の成功を待つだけである。
同様に、これが医療システムのバグやエラーでも待つしかない。
つまり、自身に出来ることはない。であれば、今はこの興味深い状況を楽しでおけばいい、そう考えるのが霧島樹だ。
アンナの話が真実として話を進めると、アンナは魂に接触が可能で転生すらさせられるという。
恥ずかしながら我々の世界では、魂らしきものは観測済みといった程度である。神や魂は専門外だが、正直に言えば異世界からの世界線の越境には、非常に興味が湧いている。
何はともあれ、主観時間が引き伸ばされ答え合わせが先送りになっている今、やるべき事は見えている。
「クヴァイストさん、主観時間の加速度は調整可能なのだろうか?」
「すみません、細かい調整は出来なくて…再展開であれば可能ですけど」
肩を落としシュンとするアンナを、気遣う様に博士は話を進める。
「再展開出来るのであれば問題ないが•••ああ、再展開に時間は掛かるのかな?」
「多少掛かってしまいます…多少なんですが…日常的に使っている時間の、最小単位をお教え願えませんか?」
確かに、秒単位での齟齬があってはいけないなと、頷く博士。
「光格子を使って共鳴周波数を計測してだ…そう言うこと…ではなさそうだな?」
困り顔のアンナを見て、他の定義を考える。
「例えば、星の動きで時間を決めていたことはありませんか?私は星を司る大神の子孫なので、この星の息吹は感じられています」
「そう言うことなら助かる、流石に小数点以下うろ覚えでな。恒星に対する自転周期が
、86164.1でそれを、24のセグメントを60の60分割した時間が、秒と言う単位だ」
定義を確認したアンナは、腕を組み顎に手をやって、うんうんと小さく唸っていたが、次第に頭に手をやりぽかぽかと可愛らしい音を出したりしていた。
『全知全能と言うわけでもないのか…いや、既に人の身業では無い気もするが』
書き留める物がなく大変だろうが、主観時間が引き伸ばされているというのは、本当に幸いと言えるだろう。
アンナの必死の暗算を邪魔してはいけないと、博士は黙ってはいるが正直に言えば、言語の壁を越えながら数の認識は擦り合わせが必要な理由を、答え合わせをしたくて堪らなかった。
博士があれこれ異世界に想いを馳せていると、アンナの眉間渓谷が世界遺産に登録される前に解答が出た様で、大きく深呼吸をし赤らめた頬をもとに戻そうとしていた。
「おおよそ5秒程で再展開出来ると思います」
なるほど、と今度は博士が考え込む番となった。
「魂のピックアップの限界時間は解るのかい?」
「確実なことは時を進めてみないと言えませんが、恐らく18秒位だと思います」
充分過ぎる猶予に、博士は次のフェーズに進む判断を下す。
「クヴァイストさん、提案が有るのだが一旦時を進めて欲しい。信じられないかもしれないが、あの状況からでも蘇生可能な技術をこの世界は有している」
博士が助かると判断した根拠の一つに、先程見た事故の光景は文字通り首の皮一枚で繋がっていた。そんな状況の中、身体は自身では取れないであろう防御体勢を取った形跡が、はっきりと見て取れたということがあった。
「18秒もあれば充分結果が分かる。9秒、それで何もなければ異世界転生もいい正直興味深い。だが申し訳ない、まだこちらでやらなければならない研究も残ってる。簡単に死なせてもらえる立場でも無いのでな」
博士の確固たる判断にアンナも同意する。
「わかりました。納得して頂きたかっただけで、強制するつも りは元より有りません。 では…いきます」
遡ること、数秒前。
公園内の遊歩道から国道脇に出たタイミングで、博士の視覚はトレーラーを認識した。
まさにその瞬間、ナノマシンは即座に緊急安全措置を取っており、博士が手に持つ端末から救急救命をコールしていた。
緊急通報は、提携先の国立病院へ要請され受け入れ体制を整え始める、と同時に博士の頭部を搬送する為の動きも、頭上35,786kmにて始まっていた。
静止軌道上を周回する衛星の中に、救急救命用の無人亜光速艇が常時即応体制で格納されている。
これは、我が国全土をカバー出来るように複数機が待機しており、その中の一つが通報を受け、チャンバー内で待機していた無人亜光速艇が、重力式カタパルトによって射出されたところだった。
24時間、365日、即応体制であり発射シークエンスなどない。
瞬時に亜光速に到達する為に、これは後付の描写である事を先に断っておく。
白を貴重とした機体に流れる赤いラインは、仄かに発光しており、機体の輪郭を強調していた。
鋭さを称えた流線形のボディから伸びる両翼には、相転移式重力子エンジンが収まっており、常に暖機されいつでも発進可能だ。
この相転移式重力子エンジンというのは、重力子が空間転移し易いという特性を活かし、エンジン内の位相空間を高速で転移させ続ける事が出来る。
その際に、重力子の影響を受け撓んだ空間が、元に戻ろうとする作用の揺り戻しを利用して、空間的波を大量に起こす。
それによって励起された場から生まれた素粒子は、エンジン内に留め様々な機体制御のエネルギーとして使用される。
また、波そのものに指向性を与え、それを捉えることでダイレクトに推進器としても使用する。光速を超えることが可能な空間で生まれた波の後押しによって、出力できる速度は救命艇としては破格の光速の約3%、即ち秒速1万キロに達する。
当然の事ながら肉眼で認識することは不可能であり、カタパルト上にその姿はもう無い。
観測者がいたとして見ることが可能だったのは、白い流星が超高速で大気とぶつかり、ミューチャルプロテクションフィールドが作用する刹那、プラズマシートからこぼれ落ちた極光だけだっただろう。
事故発生から6秒後
アンナは思考の加速を止めて現実の時間に同期し、博士の肉体が破壊されていく様を見た。身体を仰け反らせ、脚や腕を突き出す必死の抵抗は意味をなさず、不自然なまでに頭部が上空へと吹き飛んでいった。
その博士の頭部が消える。それは何の前触れもなく、余韻もない。
何者かが飛来し、博士の頭部を持ち去った…。
高速で到着した飛翔体のスピードは、想像を絶するものだった。ただ、驚きはしたものの、それ自体はアンナにも理解できる範疇だった。
真に驚嘆すべきは、周囲の木がざわざわと揺らめく程度の、その制動技術に目を奪われてしまう。
本来であれば、博士の言った通り救助が来たことに目を向けるべきであったが、それも含めて極短時間に色々ありすぎた。
複雑な表情をするアンナを、博士は自らが助かった事以上に嬉しそうに眺める。
「どうかな我々の文明の技術力は?」
満足気に問い掛ける博士に対し、アンナはたどたどしく答える。
「凄いとしか…他に言葉が出てきません。あの状態から魂が完全に安定化するなんて…あっ、いえ、それよりも先ずはキリシマ様の存命を喜ぶべきでした」
「その為に来たんだ、気にする事はない」
心から博士の生存を喜んでいるのは伝わったが、上手く表情を作れないでいるアンナに、博士も何とはなしに申し訳ない気持ちになる。
「因みに、この魂のパスとやらは後どれ位繋がってるものなんだ?」
「すみません、直ぐに術式を解きます」
慌てて対応するアンナを、博士は誤解だと制止する。
「いや、勘違いしないでくれ。別に用が済んだら帰れと言ってる訳じゃない。もし時間に余裕があるのなら折角の縁だ、話くらい聞くがどうかと思ってな」
相手への思いやりと、異世界への好奇心を満たす事が出来る素晴らしい声掛けだと、博士は自画自賛する。
この博士の提案は、アンナにとっても魅力的だった。
何故なら、今ミッションにおける成功要因の大半を担っており、また日常的に神人としての立場から来るプレッシャーが大きかった中、自分を神人と扱わず増して自分達より遙か先を行く文明人からの申し出は、アンナの張り詰めた心に甘く響いたからである。
「もし良ければ聞いて頂けますか?」
アンナの返答に静かなガッツポーズをするも、博士はまだ慌てない。
「お互い立場的に言えないこともあるだろう。ただ、当たり障りのない事でも声に出せばスッキリするもんだ」
博士は少し前の自分を思い返しながら言葉をかける。
「では、転生に前向きにな方にする具体的な話をしたいと思いますが宜しいでしょうか?」
「クヴァイストさんの好きに話したらいい。何なら積もる話もあるんだろう、意識の加速を再使用するのもいい」
アンナが博士の申し出を素直受け入れ術式を再展開し始めた時、救命艇は国立病院内に敷設されたエアポートに着陸を開始していた。
「キリシマ様、私の事はアンナとお呼びください。それでは私たちが何故、転生者を募っているかと言う話ですが、キリシマ様は理と言うものはご存知ですか?」
博士は言葉としては理解しているが、アンナの意味するものでも無さそうなので曖昧な返答をしておく。
「私の世界の法則には理という枠組みがあります。これは根源的なもので、その中の一つ、相克というものが転生者を募る原因に…」
歴史を紐解きながら、丁寧に説明してくれるアンナの話を要約すると、相剋という均衡の力が相互に作用してしまう為に、相剋関係にある敵対勢力と数百年という長期戦になってるという。そして、この相剋という理は魂に起因するらしい。…結構おしゃべりなんだな。
「それで理外、異世界の魂に白羽の矢が立った訳だ。だが転生したからといって、必ずしも戦況を変える程の戦力になりえるのか?何らかの方法があったとして、そこでそちらの世界の力を使っては意味が無いのでは?」
アンナは想定内の質問に、間髪いれずに答える。
「結論から言いますと、転生者の皆さんには純粋な戦力というよりも、鍵としての役割りを重視してもらいます」
「と言うと?」
「この作戦が立案される切っ掛けとなった世界大戦の最終局面おいて、敵の切り札が形勢を押し返し、神人類連合軍は窮地に立たされてしまいます。そこで、完全に押し返される前に、敵勢力を本拠地ごと封印することで、一葉の勝ちを得て終戦と成りました」
静かに相槌をうつ博士とは対象的に、ここからが本題だとアンナの言葉には熱がこもる。
「この封印術式の行使は、世界地図の書き換えを余儀無くさせられる程のものでした。当然、相剋による影響も覚悟していましたが、想定とは全く異なる方向性で現れてしまいました」
いったいそれは…と博士の丁寧な合いの手にアンナは笑みを浮かべる。
「怪異の誕生です。世界中で環境異常が起こり、それは明確な意思をもって私たちに襲い掛かってきました。私達は早急にこの現象の研究に当たり、封印術式由来の相剋が産み出した力の均衡は非常に大きく、発散し切れずにいる事を突き止めました。学者によっては千年以上続くと言うくらいです」
博士はやや諦め気味に、物語の朗読を楽しむモードに入っていた。
「これを受けて各国は、何度も何度も協議を重ねました。しかし、戦後の各々の立場の違いから結論をだすことが出来ませんでした。決着をつけるのか、他の方法で解決に向かうのか。そもそも封印を解いた際の淀み貯まった相剋の反発が、どの様なイレギュラーを起こすか想定出来ずにいます」
『相克などという法則に囚われているなら、さっさと対話での解決を模索したほうが、良い気がするんだがなぁ』
「相克の反発を、発散させる方法を世界規模で研究しましたが、理という原初的な法則に介入するのは、非常に難しくほとんどの研究は頓挫しました。そんな中、マナ工学者のオース博士から理の影響下に無いものを代行者とする、という逆転の発想が提案されました」
『マナ工学というのは興味を引かれるが、なんだかなぁ…』
「ただ、マナ工学者という専門外からの提案に多くの研究者は懐疑的で、そもそもそんな存在が何処にいるのか、という疑問にオース博士が出した答えが理外からの転生でした」
「それは…基礎研究のレベル次第だろうが、簡単には受け入れられ無かったんじゃないか?」
時に常識や権威は進歩の妨げになると、博士は共感できる事があるのかしみじみと問う。
「はい、当時は批判的な意見が多く見向きもされませんでした。しかし、私には一筋の光明に見えました。直ぐにコンタクトを取り、それから共同で研究を進め、多くの論文を発表し協力者を増やすことで時間は掛かりましたが、今回三名もの転生者を得られたのは大きな成果だと言えます」
アンナが、成功に力強く喜ぶのも束の間。
「とは言ったものの、ようやくスタートラインが見えた程度です。世界の命運を部外者に託す事への不満や転生計画そのもの不信感など、まだまだ一枚岩になれてません」
「当然の反発と言えばそうだな。まあ、転生という手法なら、同じ文明に生まれ育って帰属意識も高い訳で部外者と言われるとな…行かないワシが言うのもなんだが」
「それだけでなく今、各国が計画後の主導権を誰が握るかで揉め、戦後の利権争いを今からしている始末です。怪異に対応できる大国は良いかもしれません、しかし小国では怪異の対応に追われ、多くの人々が貧困や戦火に喘いでいる状況です」
『怪異に対応出来る国は、長引かせる事で自らの手を汚さず他国の国力を削げる訳か。どんな時でも欲にまみれてるのは世界が違えど、人間という形の本質なんだろかね』
「なので私は転生者の皆さんに、第三者としての調停役にも期待しているのです」
「…そういう側面もあるかもしれないが、何の後ろ盾もない部外者の意見など通らないだろ。第三者機関として調整役をさせるなら独立した権限を獲得しないとならんが、転生者にはコネクションも期待できないだろうし、そうなると力である種の主権を認めさせないといけない訳だが…茨の道だな」
恐らくアンナに、転生計画以外に主導権は無く、更に転生計画を進めている以上は微妙な立場だろう。であれば、出たとこ勝負感は仕方がないのかもしれない。
「はい、それでも戦後の混沌中、向かうべき方向を見失っている人々の希望になれるのではないかと思っています」
「利害に縛られない、ただ世界を救う為に来た異世界の英雄か…世界レベルで機運を高められれば、世論の後押しが後ろ盾となるかもしれないな」
そうなればいいと自信無さげに言うアンナに、単純な好奇心で首を突っ込んでいた博士も多少申し訳なさを感じていた。
「そろそろしゃべり疲れたころだろうし、逆に聞きたいことはあるか?政治的なことは専門外だから後回しになるが…」
博士の提案に、有益な土産話に期待したアンナは多くの質問をし、博士の教えたがり欲を満たしていった。
アンナの問いは生活様式から宇宙にまで広がったが、特に計画とは関係のなさそうな世間話が多めだった。
「いやいや、随分と話し込んでしまったな。時にアンナさん、聞きそびれていたが結局このパスはいつまで繋げてられるのだろうか?」
「実はそろそろ時間が…刻印自体は残りますが、それに私自身が後…えっと、約30万秒位でこの世界から退去しなればならなないので」
「残念だがそういう事なら仕方がない、答えられなかった質問はビッグデータから引っ張
り出してくるから、土産と一緒にもってくと良い」
「いえ、そこまでして頂かなくても…それに物質的な物は持っていけないですし」
少しいじけた様にがっかりするアンナに、量子化した土産を重力子ビームで転送し、それを途中でピックアップすることを博士は提案した。
「私にそんなことが出来るでしょうか?」
「さあ?分からん。ダメ元でやってみると良い、仮に失敗してもただ転送されて終わりだ。だが、あれこれ否定されてもやり続けたから、アンナさんだってここにいるんじゃないか?」
一人残された神人として、多くの期待と落胆を背負い、人類の為に手を尽くしてきたアンナには、博士の軽々しい肯定が、何故か不思議と容易に受け入れられた。
「それに異世界からの来訪者に、手土産の一つも渡さず帰したとなったら、全人類から怒られてしまうしな」
「まあ、では失敗できませんね」
口元に手をやり、優しく笑うアンナ。いつの間にか自然体で話すその姿が、アンナの美しさを今更ながら博士に気付かせた。
「まぁ、そう言うことで手順の説明だが、 あそこに月が見えているだろう…」
月を指差しながら、自らの一石四鳥の計画を自画自賛する博士の微笑みが、自分に向けられたものだと思いアンナも微笑み返す。
あながち間違ってはおらず、一つは確かにアンナへの純粋な優しさでこの縁を大事にしようと思う博士の善意であった。
アンナが月軌道上にあるファウンデーション3を観測出来た事で、細かい打ち合わせに入る。計画の詳細を共有出来たことを確認すると、博士は最後の言葉を掛ける。
「そう言うわけだから、後は成るように成すだけだ。土産の中身はサプライズということで、元の世界に戻ってからのお楽しみだ」
「はい、ありがとうございます」
「頑張るんだぞ」
大きく頷くアンナは、術式の解除を名残惜しそうに始めた。
時が現実空間と同期し始めると同時に、救命艇は病院内のエアポートへと優雅に慣性を殺し接地する。
救命艇から博士の頭部が入っているポットが、近場で待機していた運搬車に乗せ変えられ緊急用のレーンを優先的に走る。
ノンストップでICUに到着すると、既に乗せ変え手術の準備は整っており、博士のクローンボディが機械化された無人の部屋に鎮座していた。
手術は直ぐに開始され、バイオリアクター内の博士の頭部が開頭されていく。博士に唯一残された脳が摘出され、一旦マスキングされる。
自分の脳が取り出される様子を、三人称視点でリアルタイムに見るという稀な経験に興味はあったものの、手術が進むに連れ意識が吸い込まれる様に落ちていった。
暗転した意識に、感じ馴れた光源が幾つか現れる。
遠くの方で誰かが何かを言っているのが、ぼんやり聞こえてくる。
デジャブと言うには余りにも近々の経験ではあるが、この既視感が拡散していた博士の意識の集約に一役買った。
「こちらはマグナパルス国立病院、入院病棟第1区画。統括看護AIが第3惑星標準時午前5時30分をお知らせします。また、未覚醒状態での各種機能と完全覚醒方法の説明を致します。こちらはマ…」
待機インフォメーションに意識を向けると、視覚野が刺激され無装飾のコンソールが現れる。
幾つかの選択肢の中から覚醒を迷わず選ぶと、小さなカウンターとスクリーン、そして特徴が無いのが特徴を体現するアバターのオペレーターが現れ説明を開始する。
「当病院のご利用ありがとうございます。霧島樹様、既に手術は成功し終了しています。それでは覚醒作業に入ります。…覚醒後のリハビリプランを選択してください」
「これだよ、これ」
柔和で聞き心地の良い声色ながら、事務的で抑揚の無い話し方と言うお役所AIアナウンスに博士は懐かしささえ覚える。
期待していた対応を楽しみつつ、リハビリプランを全て破棄する。
「術後のリハビリは義務付けられてる訳では有りませんが、当院では強く推奨しています。換装前後の肉体的差違への慣れやスペアボディの慣熟作業、マイクロマシンの新旧引き継ぎ等が推奨されています。これ等に掛かる費用は国費から捻出される為、お支払される必要はありません」
当然だが病院としては、安全性を重視する為に念押ししてくる。
「構わん、やることができた。代わりに研究所までの足を用意しておいてくれ」
「かしこまりました。覚醒後は総合案内にて手続きをお願い致します。それではお疲れ様でした」
オペレーターが言い終わると一度暗転し、現実との差違が負荷とならない様に博士が寝かされている部屋の環境情報を、脳内で少しずつ感じられる様になる。
部屋は深夜帯なので主要な光源は消えており、幾つかの間接照明がドアまでの足元を照していた。薄暗い部屋に横たわる博士は、目蓋を上げるという行為を何度か意識的に行うことで、現実感を強めてから身体を少しづつ起こす。
博士はベットの上で、しっかりと身体に力が入るかを確認し部屋を見渡す。
個室としては多少広過ぎる気もするが、白を基調としたシンプルな作りは典型的な病室だ。しかし良く見れば、凡そ治療に関係のない絵画や彫像が飾られており、この部屋が要人向けなのが分かった。
危うく無駄な税金を使うところだったと、患者着のままさっさと部屋を出る。
廊下も同じように直接照明は消灯し、等間隔に設置された常夜灯が博士の控え目な足音を不規則に誘導する。
廊下の先、エレベーターホールの向かいにフロア内で最も明るい場所があった。
博士は通り過ぎる時、その無人のナースステーションに小声で感謝の言葉を述べ、到着したエレベーターに乗る。
地上一階、円環状に建設された病棟には様々な診療施設が在り、日中であれば多くのモノが行き交っていただろう。
幸いにして、今は清掃用のロボットが院内の白さに無言で貢献しているくらいで、区画
移動用に敷設された水平式エスカレーターを博士が独占する。
エスカレーターの手すりにもたれかかると、憩いの場として造成された中庭の噴水がライトアップされ視界に入る。
落下する水流を眺めながら、博士はアンナとの会話を思い出す。
「異世界か…」
古くは、エヴェレットやツェーといった偉大な先人達から始まり、近代でもアルバス•アマ-トゥス、リッカ•バナリタ等が研究を進め、今では並行世界間における因果の観測が可能となった。しかしながら、異なる世界そのものを観測出来た事は未だかつて無い。
いや、正確に言うのであれば公式に何らかの形で実証された事が無いだけだ。
と言うのも歴史を紐解けば、首都タワー女子中学生失踪事件やサマーキャンプ少年少女失踪事件、県立大学附属高校男子学生失踪事件など幾つもの転移に関する証言が公式に残っている。
様々な研究、諜報機関に百年以上前の証言が残っているのは意味が有るからだが、残念なことにあくまでも証言のみであり、リアルティはあるものの突拍子もない内容にそれ以上の事はなかった。
殆どの事例が突発的に巻き込まれるパターンであり、必死の思いで帰還した少年少女に証拠を求めるのは余りにも酷だろう。
だが今回は違う、短い時間ではあるが準備期間が有る。そして多くの手段を持ち得る自分に出番が廻ってきた事はまさに天啓と言える。
改めてアンナという女神との出会いに、運命を感じずにはいられない博士は、視界の隅から光が広がってくる事に遅れて気付いた。
エスカレーターの終わりが近付き、博士は身体を前に向けると通路からでもエントランスホールの様子が見て取れた。
そこは様々な人が24時間使うことを想定した造りで、開放感と時間帯に合わせた落ち着きを両立させたものだった。
入院病棟がある上層階まで吹き抜けになっており、各階には全面調光ガラス張りによって取り入れられた太陽光を浴びれる様に、ラウンジが設けられている。また中二階には、中庭に迫り出すように造られたオープンテラスカフェも営業している。
多くの人で賑わうであろう場所も今は、長期入院中の患者が独り夜更かしに来ているくらいだった。
中庭を流れる小川が屋内まで続き人工滝の水源となり、その水のカーテンは通り過ぎる博士の足音をエントランスホールに響かせる事はなかった。
一割程度の稼働率となっている総合案内の無人窓口で、博士は受付をするためにカウンターの前に立つと、待機していたオペレーターの女性型アンドロイドが深々とお辞儀する。
「霧島樹様でいらっしゃいますね。話は伺っております、既に退院手続きは進めておりますので、こちらで認証をお願いします」
オペレーターが示したディスプレイには、決済が0の状態で表示されている。博士がディスプレイに手をかざすと、体内のナノマシンが手の平に生成したハブを介して非接触式相互通信を行い手続きを完了する。
「ありがとうございます。研究所までの交通手段をお求めということですが、国立公園上空は飛行禁止区域ですので、地走式四輪車を手配していますがよろしいでしょうか?」
博士は早く戻りたかったが直ぐに諦めて了承する。緊急事態だった行きとは違い、今から飛行申請が降りるのを待っていたら、地走車で帰っても同じ、寧ろ紅茶の一杯でも飲み終えるだろう。
「それと悪いんだが、生身用の端末を貸してくれないか?首から下は全部置いてきてしまってな」
「畏まりました、少々お待ち下さい」
心なしか嬉しそうに見えるオペレーターが奥に引っ込むと、博士は待ち時間を利用してカフェに向かう。
深夜帯は販売機から購入する様で、メニューパネルからレモングラスのハーブティーとジンジャーシロップを選ぶ。テイクアウト用の保温カップに注がれた紅茶を、産まれたての身体を気遣う様に飲み一息付く博士の目に、カウンターから身を乗り出しこちらを探すオペレーターが映る。
オペレーターがこちらに気付き勢い良く手を振るので、釣られて手を挙げ応答しカウンターへ戻る。
オペレーターから端末を受け取り研究所の総務部へ連絡を入れ、無事である事とこれから戻り研究室を使用する事を伝える。
「いやいや心配しましたよ、危うく国民の財産を大きく失うところでしたねぇ。運送屋には法務部から訴状と苦情を入れさせてますので。管理部と保安部には私の方から連絡しておきますが、この際少し休暇を取られた方が良いんじゃないですか?先月行った所なんですがね…」
自分が行ったリゾート地の良さを垂れ流してくる端末の通話を、一方的に切りオペレーターに返そうとする。
「その端末は、許可が降りていますのでそのままお使いください。それと、そろそろ冷える時期なのでこちらをどうぞ」
そう言ってオペレーターが渡してきたのは、ロングカーディガンだった。
薄手の患者着にスリッパという格好は、正直落ち着かなかったのでカーディガン一枚とは言え有り難いものだった。
博士は最大級の笑顔で感謝を表すと、素直に喜ぶAIに愛おしさを感じると同時に、この無垢な献身に、人類はいつまで応え続けられるのだろうかといつも不安になる。
機会があればまたと、そんな心情が無意識に口にさせる。
外に出ると肌寒かったが、冷たい空気は寝起きの頭に丁度良かった。
ロータリーに一台のヴィンテージ物の地走車が止まっている。流石に復刻車だろうが、公務員ばかりの国立病院になかなか良い趣味をしてる者が居るようだ。
車に乗り込むと内装にも拘ったモデルの様で、座り心地の良いカルチャーレザーの張りのある弾力が返ってくる。
ナビに目的地を設定し、オートクルーズを開始しようとスイッチをタップする指が直前で止まる。
ナビを操作していた手はゆっくりとボトルホルダーに伸びる。まだ温かい紅茶を口に含み窓を開け考え込む。考え込むと言っても複雑な話ではない、ただ自動運転のトレーラーに殺されかけた縁起の悪さと、本調子でない身体での運転どちらを選ぶべきかで少し悩んだだけだ。
別に思想や理念に変化があった訳ではない、普段の博士なら自動運転を選んでいるだろう。
しかし今回だけはなんとなく、本当に深い意味はない、偶にはこういうのも良いだろうと自ら運転する事を選んだ。
博士の運転する車は、音も無く加速しロータリーを抜けて病院の広大な敷地を走り去る。海沿いに伸びるハイウェイに乗り加速すると、後方から一仕事終えた亜光速救命艇が並走してきたのが見えた。
『無人機の癖に…まったく』
窓から手を出し、グっとハンドサインを出してやると、博士の無事を確認し満足したのか、海側に大きく展開していく。博士が手を引っ込める間もなく軌道上へと戻っていった。
残された博士の手がハンドルに戻ることはなく、窓に肘を付きオートクルーズのスイッチに手が伸びる。博士はシートに深く沈み、車内に吹き込む潮風と朝焼けの爽やかな新生に、身を委ねていった。
結局、何事もなく送り届けてくれた地走車が帰路に着くのを、少しだけ見送ると自律走行式ユニサイクルをレンタルして研究室へと急ぐ。
幾つかのセキュリティチェックを通過し専用フロアに入ると、既に設備が立ち上がっていた。
「お帰りなさい、霧島博士」
聞き慣れた声がした方へ視線で向けると、そこには見慣れた女性が立っていた。その、博士と同様の出自を思わせる外観的特徴を持った女性は、博士を出迎える為にホログラムを起動した管理用AIであった。
「ただいま、いやー死にかけたよ無事戻ってこれたから良かったけど…とりあえず何か着る物あるかな」
「デスクに一式用意してあるので、先ずはお着替えください」
期待通りの返答に感謝を伝え、専用フロアの一画にある執務室に入るといつもの白衣一式と新しい端末が置いてあった。
着替えていると管理用AIが、パーティションから顔だけ覗かせる。
「新しい端末を用意しておきました。前の端末は博士と一緒でバラバラで使い物になりませんが、データは復元しコピーできているので安心してください」
「ワシの自我はオリジナルであることを祈るよ」
アンナとの出会いが無ければ、解離性自己喪失障害にでもなりそうな恐ろしいジョークを聞き流す。
「安心してください、博士が事故にあってから術後までの各種データは確認済みなので、博士がオリジナルなのは間違いありません。もし必要であれば映像で確認しますか?」
「いや、もう充分だ」
博士が自分の生死の行方を客観視してた事など、知る由もない管理用AIは充分という返答を上手く解釈出来ずに、可愛らしい困り顔に?マークのエモーションを浮かべた。
「それは一旦置いておいて、A棟の公開実験のスケジュールに変更はあったか?」
「少々お待ち下さい…殆どありません強行するみたいですね。クレームでも付けに行くんですか?」
博士は心の中だけでガッツポーズをし、イイ顔をする。
「いやいや彼らの研究は素晴らしいものだ。是非とも成功して欲しいと心から思うよ」
博士の白々しい物言いに、良くは分からないが何かしらするのだろうと管理用AIは解釈した。
「そういう事でこちらも準備に入ろう。Asmu00−87sb26を低滞域でフルスペック起動するぞ」
話しながら実験エリアに移動していた博士は、ハドロンリアクターの前で作業を始める。
シリンダーのマスキングが解除されると、一基のアンドロイドが姿を現した。
展開されたスクリーンに、写し出される様々なパラメーターは待機状態を示している。博士は操作パネルを手早く弄り、起動シークエンスにショートカットを掛ける。
『量子アルゴリズム測定…波動関数収縮。量子ゲート直列接続…』
最低限の手順により立ち上がったアンドロイドが、目を開け博士に顔を向ける。
「おはようございます、霧島学術顧問。スケジュールに変更ですか?」
「上位プロトコルに変更があった。説明するから完全自律起動してくれ」
そう言うと博士はブリーフィング資料の製作を始め、Asmu00は起動準備に入る。
『相転移機構:基底状態…励起。巡航運転開始』
第7世代以降のアンドロイドは超質量、超熱量の機関を体内に保有しており様々な対策が必須になっている。
例えば、真空相転移機関は極局所的範囲において、現在の真空をインフレーションした直後の偽の真空に、仮想相転移させる。
それによって発生したエキゾチック物質を制御し、ヒッグス場の真空期待値を限りなく零の状態にすることで、相互作用の場における質量を擬似的に放棄させることができる。
他にも電磁相転移を利用して、断熱消磁による冷却や準惑星級磁気圏の発生など多くの機能にこの相転移機構が関与している。
『重力子放射展開装置…起動』
博士を救助した亜光速艇にも搭載されていたもので、重力子の相互作用によって生まれた空間の歪みを利用した慣性を含めた機動制御機関である。
また、重力波センサーや乱数重力偏差シールドのような攻性防壁としても利用されている。
起動準備が着々と進む中、飛躍的に稼働率を上げている機関がナノマシンプラントである。
ほぼ全ての機関に貢献しているナノマシンは、体内機関の調整役であると同時に、直接体表面に露出することで防御機能を発揮する。
これは単分子構造体の内骨格と双璧を成す、単純防御系機能の要でもある。
Asmu00が着ているように見える黒の上下インナーも、ナノマシン群が体表面に露出したものである。因みに黒く見えている頭髪は、マルチプルセンサーでありヒートシンクではない。
『ロシュキャンセラー起動…ホーキング放射及びエルゴ球減滅保護』
起動準備は最終フェーズに入る。
『縮退連鎖開始』
主機に火が入る。古臭い言い回しだが、博士はこの表現が好きだった。
第一フェーズを履行したAsmu00はシリンダーから出てくる。
「霧島学術顧問、一次自律起動完了しました」
「よし、ではそのまま稼働率を上げながらで構わない。突発的事情により緊急任務が発生したので伝達する」
スクリーンに任務内容を映し出そうとする博士を、Asmu00は制止する様に質問を投げかける。
「開発機の私に、なぜ任務が下るのでしょうか?」
「もっともな疑問だが、貴様だからこそ適任であるというだけだ。貴様の開発経緯と理念を答えよ」
「我々天の川銀河系人類は、他銀河系を起源とする生命体との接触後、5年以上交戦状態にあります。現在、半数以上のハイパーゲートを制圧しており戦況の優位性はこちらにあります」
「そうだ、例のハイパーゲートから現れたアンドロメダ星人(仮)との戦争も勝利は時間の問題と言えよう。だがこれは先遣隊に勝っただけに過ぎず、慢心せず第二波に備えなければならない。それに我々は奴らが本当は何処から来て、何の為に戦争を仕掛けてきたのか分からない。分かっているのは奴らが我々には不可能な銀河間の移動が可能ということだ」
熱の入った博士とは逆に、管理用AIとAsmu00は平淡な返答をする。
「結局、自分で言ってしまうのですね」
「他銀河系起源種とされる存在の本質は未解明で、技術力に差があるかもしれないと」
博士は一呼吸おくと、Asmu00を指差す。
「古代文明が残したとされるハイパーゲートを、こちらも解析し敵地へと乗り込む。奴らが何者かを知り、我々が何者なのかを知らしめる。それが、Asmu00−87sb26の存在意義だ」
黙って話を聞くAsmu00に反して、飽きたのか苺パフェを食べるエモートで遊ぶ管理用AIを尻目に博士は話を続ける。
「そう言う訳で開発の更なる進歩の為に、実際に別起源種とされる存在に接触してもらう」
「それは戦況に変化があったと言うことですか?」
「いやアンドロメダ星人(仮)ではない。全く違う世界軸の存在から接触があり協力依頼があった。貴様は現地に赴き、未知の世界に適応し依頼者に協力せよ。その上で有益な情報を持ち帰えるのだ!」
「…本当に、宜しいんですか?」
「人は時に、非科学的で根拠の無いものに身を委ねる事で、想定以上の成果を生み出す生き物なのだよ。貴様も向こうに行けば、それが何か知ることが出きるだろう」
数秒の沈黙の後、姿勢を正し任務受領の意を示すAsmu00に博士は安心する。命令系統的に博士の方が数段上であるが万が一ということもある。
Asmu00は遠隔地で孤立無援の中、独自の判断で任務を遂行しなければならない為、又機密保持の観点から基本的にオフラインであった。
これが項を奏したのかは分からないが、Asmu00は受け止めてくれた。
軍からの依頼で貸与されたAsmu00を、無許可で異世界に送り出した事が発覚すれば霧島博士といえども軍法会議での重刑は免れないだろう。
そう言う訳で、博士は結果が出るまでバレ無い為の偽装工作や根回しに勤しみ、Asmu00は異世界での任務に向け様々なソフトウェアの習熟を限られた時間で行う中、管理用AIは寝た。
二日後、公開実験15分前
研究施設内にある多目的広場にてセレモニーが始まっており、多くの政治家や軍関系者、関連企業の役員等が歓談に勤しんでいた。
A棟の研究チームにとって、絶対に成功させなければならない案件であり、最終チェック中の研究員達の緊急は限界に達していた。
そんな中、主任研究員が硬直した空気をほぐす為に、各員に声をかけながら準備に追われていた。
主任研究員は小声で挨拶の言葉を反芻しながら作業をしていると、視界の隅に出来れば今は見たくなかった人物が、招待客用に並べられたブュッフェ料理を楽しんでいるのが映ってしまった。
地場産のサーモンとスピナッチクリームをパイで包み焼き上げたクリビヤックを、これ見よがしに頬張る様は、明らかにこちらを意識した行動だ。
白衣にこぼしたパイの屑に腹が立つ。
飲めもしないワインを、テイスティングするグラスの円運動がチラつき集中力が乱れる。
プチフールを選ぶ顔は、研究に行き詰まったかの様な真剣な眼差しでありふざけている。
別に直接的な確執が合ったわけではない、ただの嫉妬だ。
それはわかっている当然だ、あちらは本当の天才であり妬まない方がおかしい。だからこそ腹も立たない筈なのに、理性的でいられなくなるのが自分自身分からない。
「狐塚主任、そろそろ挨拶の準備をお願いします」
司会から声を掛けられ我に返る。生返事をしながら冷静になるように深呼吸をする。
今はアイツの事を、気にしている場合ではない。悶々として思いを振り切る為に、公表会の流れを頭から確認し直す。
仮設ステージ脇に待機し身なりを整え、司会からの合図で登壇する。
「皆様、本日はこの様な遠隔地にまで、足を運んでくださりありがとうございます。私達の研究の成果を是非楽しんで行って下さい」
大きな拍手に手を振り返し、何度も練習した手順を披露していく。
「では早速と行きたいところですが、今回皆様にお見せする新式転送装置の進化がどれほどのものか比較する為、先ずは、旧式での転送パフォーマンスにお付き合い下さい」
狐塚主任の言葉を合図に、ステージ裏にいる研究員達が転送準備を進める。
ステージ上空に展開されたスクリーンに、各種ステータスと転送装置の映像が映しだされた。
「私達は積み重ねてきた伝統を重んじ、この地で研究に取り組めることに誇りを感じています。そんな私達に賛同し、今回協力してくれるのが彼です」
テンション高めの熊のマスコットがパフォーマンスを交えながら、木彫りの熊を転送装置に設置する。
この程度の構造、質量であれば直ぐに解析が終わり転送が始まる筈だったが、何故か転送準備が完了しない事に、バタ付くステージ裏の動きを悟った狐塚主任はフォローに入る。
「これは…誇張し過ぎですね。いやいや、今日集まられている方々は専門家レベルだというのに…研究ばかりしていないで、バレない忖度の仕方も身に付けないと」
乾いた笑いと共に何とか捻り出すもやや受けの反応で、司会に場を繋ぐ様にアイコンタクトしステージ裏に引っ込む。
狐塚主任は対応に追われる研究員達に説明を求めるも、原因が分からず苦慮していた。
直ぐ様、思考を切り替える。あくまで旧式での転送はパフォーマンスであり、適当な理由で強引に仕切り直しても良いだろう。ただそうなると、本番でのもたつきは乗算的な不評になってしまう。
そんな対応に苦しむ研究員達を嘲笑うかのごとく、モニターに構造解析完了の文字が表示される。
ステージ上のスクリーンも同様に映った様で、狐塚主任は慌てて壇上に戻る。
「申し訳ありません、大変長らくお待たせしました。それではさっそく転送して行きましょう」
司会に進行を譲りカウントダウンが始まる。
10、9、8、7…
ステージ前には、スクリーンの映像を見る者や旧式のパフォーマンスだからとまだまだ歓談に興じる者が集まる中、離れた場所で一人上空を見上げる者がいる。
「アンナさん、上手く使いこなしてみせるんだぞ」
霧島博士は転送が始まると、ホールスタッフにパック詰めさせた料理を片手に、観測機からの情報を確認する為に研究室へと帰っていく。
秋晴れの澄み渡る空気に響く吉報を、背中で受け取った霧島博士の足取りは軽かった。
月系平衡点ラグランジュ3:軌道管理用ファウンデーション3000km手前
「霧島様、確かに受け取りました。大切に使わせて頂きます」
展開していた術式によって、引き上げた情報塊が小さな光球となってアンナを中心に周回する四つ目の光となった。
胸元で手を組み新たに術式を展開すると空間が歪み始めゲートが開き、この世界に別れを告げると、亜空間へと突入しアンナは帰還の途に就いたのだった。
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