エピローグ

 天穹殿で凌雲を待ちながら、紅月は膝の上でじゃれる青い縞の猫を撫でていた。猫、と言ってもその大きさは普通の三倍ほどあり、虎の子のようである。


『いつまでそうやっているのだ! 見苦しいぞ』


 そんな姿に苛立ちの声を上げたのは玄牙である。すると、紅月の膝の上の縞猫が耳をピンと立てて抗議する。


『なにを。あたしは陛下のご命令に従って、紅月様をお守りしているのです』


『情けない。人間にいいように使われおって』


 玄牙は牙を剥いて縞猫を威嚇する。縞猫はひゃあと言って紅月の膝に顔を埋めた。


 この縞猫はいつから居るか、というと、あの皇后が事切れたすぐ後からである。




***




『ぐっ……ぐっ……げぇ』


 突然何かを吐き出した玄牙を、紅月が慌てて振り返ると、その足下に何か毛玉のようなものが蠢いていた。


『玄牙、それって……』


『ああ、さっきの猫鬼だよ。腹の中で消化仕切る前に、この女の呪縛が解けた。おかげで吐き出すことができた』


『ああ、良かった』


 紅月は、玄牙がこれ以上仲間を犠牲にすることがなくて、本当に良かった、と思った。


『それで……どうしたらいいのかしらこの子』


 墨と空の青の混じったような、綺麗な縞柄のこの猫は、真っ青な目で紅月を見上げている。


『名前を付けてやってくれ。紅月。放って置けば、またどこかの蠱師に捕らわれるやもしれん』


『分かったわ』


 紅月は縞猫を抱き上げた。だが、その手をそっと止めたのは凌雲だった。


「紅月、何をしている?」


「この……先ほど玄牙が吐き出した、皇后が操っていた猫鬼に名を付けようとしています。どこかの蠱師に悪い目的で操られたら可愛そうですから」


「うむ……」


 凌雲はそれを聞いて何が考えているようだった。


「そのように名を付けて、紅月の体はどうもないのか?」


「え? ええ……今のところ……」


「であれば、名付けは私がする」


「ええ⁉」


 突然にそんなことを言い出した凌雲を紅月は驚きの目で見た。


「なりません。そんな、玉体になりかありましたら……」


「紅月はなんともないのだろう?」


 確かにそう答えたし、紅月はなんともないのだが、だからと言ってそれは話が別だろうと思う。


『おい、間抜け面! やめとけ。そこの猫鬼がおかしなことをしても俺が食い殺せるからなんともないが、お前は幽界と繋がりを持つことが分かっておらん。化け物の言葉や姿が分かるようになるのだぞ! ……と、伝えろ紅月』


「ええ……凌雲様あの……」


「玄牙はなんと申しているのだ?」


 紅月はとりあえず「間抜け面」は省くことにして、玄牙の言うことを凌雲に伝えた。


「言葉や姿が……」


「恐ろしい姿をしたものを見るかもしれませんよ」


 そう言った紅月の肩を、凌雲は掴んだ。


「それを聞いて、ますます名付けたくなった。紅月、私はそなたと同じ世界を見たい」


 凌雲は頑なであった。紅月の抱えている猫鬼、凌雲からは紅月が何か抱いていることしか分からないのだが、そこを覗き込んで聞いてくる。


「どのような猫なのだ」


「青い縞の不思議な柄の大きな猫です。と、言っても玄牙よりもずっと小さくて、比べると子猫のようです」


「ほうほう……」


 凌雲は紅月の手の中に手を伸ばした。


蒼虎そうこ、そなたの名は蒼虎だ」


 途端、紅月の抱いていた猫鬼――蒼虎は目を開き凌雲を見た。


『あたしの名前? 蒼虎って言うのですか? あなたは誰?』


「私はこの国の皇帝、凌雲だ」


『名前……! 名前。あたしの名前!』


 蒼虎は紅月の腕を飛び出し、部屋の中をぐるぐると回った。


『やかましい!』


 玄牙は蒼虎のあまりのはしゃぎっぷりにうんざりとして怒鳴りつけた。


「聞こえる……見える……!」


 凌雲は紅月の手をはっしと掴んだ。


「これが紅月の見ていた景色なのだな」


「はい……」


 凌雲があまりに嬉しそうなので、紅月はこれもよいかと思い直した。何より蒼虎は本当に子供のようで、無垢な様子だ。きっと危害を加えたりしないだろう、と思った。


「それにしても、ううむ……意外だった」


「何がでございますか」


「玄牙はなかなかの美丈夫ではないか」


「凌雲様⁉ 玄牙は妖怪ですよ」


 凌雲は「わかっている」と言いつつ苦笑いをしていた。


「さて、猫鬼たち。一度姿を消しておくれ。人を呼ばねばならん」


 玄牙と蒼虎が姿を消すと、紅月は明珠の死に顔に視線を移した。明珠の顔は毒で苦しんだはずなのに穏やかだった。


 それは形はどうあれど、彼女の初恋が成就したことを物語っていた。




***




『あっ、陛下がお戻りになります!』


 紅月の膝の上で寛いでいた蒼虎がぴょこんと立ち上がった。彼女の言う通り、すぐに凌雲が姿を現す。


「蒼虎よ。紅月を見ていてくれたか」


『もちろんですとも、陛下!』


 蒼虎はくるりと宙返りをする。すると青みがかった黒髪を顎のあたりで切りそろえた、六歳くらいの女童の姿となる。


「よしよし。蒼虎には菓子を持ってきたよ」


『わあ、ありがとうございます』


 玄牙が酒を好むように、蒼虎は菓子が好きだった。それも砂糖の塊のようなうんと甘いものがとりわけ好きだった。


『そんな見張りを立てなくても、何もせん』


 玄牙は不満げな顔をして凌雲の前に立ち塞がった。


『醜い嫉妬はやめろ』


「ちょっと、玄牙やめなさい」


 紅月は慌てて玄牙を凌雲から引き剥がした。


「まあまあ。お前にも酒を持ってきたぞ」


「……ちっ」


 玄牙は凌雲から酒瓶をひったくって中身を飲み始めた。


「お礼くらい言いなさいよ」


 紅月が呆れながら見ていると、凌雲が紅月の肩を叩いた。


「紅月にも土産があるのだ」


「まあなんでしょう」


 凌雲は袖から布に包まれたものを取りだした。凌雲がその布を取り去ると、紅月はぎょっとした。


「なんだ、頼んだのは紅月だろう」


 凌雲が持っていたのは小さな頭蓋骨だった。


「十二月に死んだ猫の頭部だ。これをすりつぶして服用すれば、紅月は猫の呪いが解けるのだろう」


「はい……そうです」


 紅月はそっとその頭蓋骨を受け取った。ようやくこれで明珠の起こした事件の全てが解決する。


「薬研と乳鉢を用意していただけますか」


「ああ。だが、少し惜しいな。私は猫の紅月も好きだから」


 それは紅月も同じ気持ちだった。猫の姿で凌雲に寄り添って寛ぐのは心地の良いものだ。


 そんなことを思っていると、ふいに玄牙が紅月の手の中の頭蓋骨を取り上げた。


『そんなもの、飲まないでいいぞ』


「玄牙。それでは、玄牙に体を返せないじゃないの」


『それはお前が死んでからでいい』


「え……」


 紅月が驚いて見ていると、玄牙はふいっと横を向いた。


「紅月。どうやら玄牙はお前とずっと友でいたいようだよ。紅月が死ぬまでね」


「えっ……えっ……⁉」


 凌雲に言われ、ようやく意味が分かった紅月は、嬉しくてにやけそうな顔を両手で押さえた。


「玄牙、本当なの」


『……うるさいな。さあ人間ども、寝ろ!』


 玄牙は大猫の姿に変わり、寝台の上に飛び乗る。


「ははは……では、そうしよう」


 凌雲が玄牙の脇に横になると、蒼虎も「わあい」と言いながら、猫の姿になってその横に寝そべる。


「では、私も!」


 紅月は白猫の姿になると、ひらりと凌雲の胸の中に飛び込む。


「これはいい。四方八方ふかふかだ」


「にゃあ」


 紅月は凌雲の頬に顔を擦り付けて、丸くなった。そしてじっと凌雲の顔を見つめ続ける。彼が安らかな、眠りに落ちるまで。




                                     完



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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

カクヨムコンに参加しようとこの作品を書き始め、ようやく完結させることができました。

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呪いと猫の後宮夜話〜月夜のまじない妃と眠れない皇帝〜 高井うしお @usiotakai

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