ダーリン、ハニー、パンプキン

大石エリ

瞬きで変わる世界1

大きな事件があった。

私にとっては人生を左右する大きな事件。


世間にとってどれだけの事件だったのかは知らない。

ただ、今の辛い、辛い状況から脱出できるのかもって。

それだけ。

それだけしか頭になくて。


私の手を掴んで必死に走ってくれるお姉さんの手をきゅっと離さないように握った。

その人は知らない人だったけど、手のぬくもりは温かくて、近くで激しい乱闘の音が聞こえても絶対に、絶対に手を離さなかった。



「あ!」


お姉さんの手を止めて引っ張った。


「なに!? 急いで!」

「……でも」


忘れ物をしたのだ。

大切な忘れ物を。

後ろを振り返る。

私が今までいた小さな部屋は外から見るとこんな感じだったのかと呆然と大きな日本家屋を見つめた。


「なにかあるの? 早く出ないと見つかる!」

「……うん」


余裕のない顔でお姉さんが私を見下ろして、また走り出した。


私は大切なものも置いて走った。

その身一つで飛び出した。


そして、私はおぞましい地獄のような場所から生まれて初めて外に出た。

外の世界は広く、知らないものばかりで、大きな門扉を出た瞬間、足が竦んだ。

必死に走ろうとするお姉さんの手を引きとめて、立ち止まってしまう程に。


外には楽園があるんだと思っていた。

理由もなく、ただただそう信じていた。

だけど、大きな建物が立ち並ぶ外に、楽園の要素はなく。

さらにおぞましい地獄が待ち受けていたらどうしようと、眉を寄せた。

息が詰まった。

もう少しでいつもの症状が出てきそうで、必死に息を吸い込んだ。


「大丈夫だから。ね」


お姉さんが綺麗な顔で微笑む。

その顔は信用できない。

綺麗な顔で微笑む人は嘘を付くから、信用できない。

だけど、嘘を付かれたって、私にはどうしようもない事を知っていたから、こくりと頷いた。


お姉さんは「もう少しだから」と言ってまた走り出して、走った事のない私は転びそうになったけど、本当にもう少しの距離だった。

少し走ると、車というものに乗りこんだ。

車は知っているけど、乗ったことは無い。

じっとしているのに進んでいくその物体を怖いと思ったけれど、口にはしなかった。


何かを言ってもどうにかなったことなどない。

怖いと言っても誰も助けてはくれない。

動いていく景色が怖くて、両目を閉じた。


「寝てていいからね」


お姉さんの優しい声が聞こえた。


眠ったわけじゃなかったけど、返事はしなかった。

両目を閉じる。

それが地獄から逃れるために一番いい方法だと知っていたからそうした。

いつだってそうしてきた。


大きな建物に連れられて、そこの一室で一晩を過ごした。

お風呂に入ろうと言われ、その後、ふかふかの布団に連れられて、寝なさいと言われたので、その通りにした。


次の日、目を覚ますと、机がある部屋に連れられて、たくさんの人に囲まれた。

色んな人が質問してくる。


「名前は?」「今までどうしてた?」「こいつに見覚えは?」


たくさんの写真が目の前に並べられた。

たくさんの男の人に囲まれてすでに恐怖はピークだったのに。

並べられた写真の中に見知った顔を見つけて、身体全体がけいれんした。


「はっ、はぁっ、はぁっ、」


呼吸が不規則になる。

息が浅いところでしかできなくなって、あまりの苦しさに涙が零れる。

中年の男の人が慌てて、肩を掴んできたから余計に怖くなった。

強烈な頭痛を鎮めるように目を閉じる。

涙が閉じたまぶたから次々と零れた。


「はぁ、はぁ、ひっ、ひぅっ」


私の事が手に余ったのかもしれない。

私が発作を起こしているうちにがやがやとした男の人たちの声は聴こえなくなった。

しばらく経つと、自然と呼吸が落ち着いてきた。

背中をさする優しい手つきに気付いて、目を開けると、私を地獄から連れ出してくれたお姉さんが心配そうな顔で覗き込んでいた。


「大丈夫? ごめんね。野蛮な奴ばっかで怖かったでしょ」


地獄から連れ出してくれたお姉さんがいて、思わず抱きつく。


怖い。怖い。怖い。

お姉さん、お願いだから助けて。


「あー、よしよし。ごめんね。とりあえずここじゃダメだ。出ようね」


目の前に写真は並べられていなかった。

それにホッと息を吐いて、お姉さんの背中に回す手に力を込めた。

それから、また車というものに乗せられた。

お姉さんと一緒にだった。

私は昨日と同じように両目を閉じた。

次に目を開けた時に視界に入ったのは、大きな建物の前だった。


「降りて」


お姉さんに手を引かれて車を降りる。

窓がたくさんある建物で、四角い箱に乗せられた。

変な感覚のするその箱に乗って、「三十二かいだったな」とお姉さんが言った。


しばらく変な感覚に耐えると、扉が開いた。

すでに気持ちが悪くなっていたけど、それを口にする事はなかった。

私はまたお姉さんに手を引かれて、いくつか同じ扉の前を通って、一つの扉の前で立ち止まった。


“ピンポーン”

変な音がする。

じっと開かない扉を見つめると、お姉さんが細い脚でガンガンと扉をけり出した。


ガン!

ガン!

怖い。怖い、怖い、怖い。

ビクビクと身体が震えだした私に気付いたのか、お姉さんがハッとした顔をした。


「ご、ごめん。ごめんね。もうしない。しないから」


お姉さんのその言葉は嘘じゃなかった。

なぜなら扉が開いたからだ。

そこから顔を出した、とても背の高い男の人は、お姉さんを睨むような目で見た。


「なに」

「早く開けなさいよ。この子驚かせちゃったじゃないの」

「は?」


ようやく男の人の視線が扉で死角になっていた私に注がれた。

じぃっと値踏みするように全身を見られた。

長い時間だったように思う。


「だれ」


私に声を掛けたわけじゃなかった。

男の人はお姉さんに視線を向けていた。

私は恐ろしくて、お姉さんの手をきゅうっと力を込めて握った。


「笹川のじじいのとこ、あんたが襲撃したでしょうが」

「それが?」

「そこの地下に監禁されてた子。聞いたでしょ?」

「……ああ」


男の人の視線がまた私に戻ってきた。

怖くて、下に俯く。

綺麗な廊下の床をじっと見つめた。


「あんた、この子の面倒見なさい」

「はぁ?」

「責任もって面倒見なさい」

「……意味わかんねぇ。責任ってなに」

「あんたが襲撃したからこの子外に出てきたのよ。だから、面倒見なさい」

「いや、それでこいつ助かったんじゃねぇの? なら、俺の責任ってより、俺のおかげだろ」

「そうだけど、この子、行き場ないでしょ。あんた襲撃中に指令無視して突っ走って謹慎中なんだから、どうせヒマでしょ」

「……どんな理屈だ」


男の人の重いため息が落ちた。

人の感情の変化には機敏だ。

男の人が嫌がっている。次に来る行動は、私に怒る。多分それ。



「帰る」


私がぽつりと喋った小さな言葉は、二人に届いたらしい。


「帰る? どこに?」


お姉さんが優しく声を掛けてくる。

どこって言われても分からない。

私にはテディの部屋と、ベッドの部屋しか知らないし、そこには帰りたくない。

帰ると言ったらそこしかないんだろうけど、そこには帰りたくない。

帰るという言葉は失敗だったかもしれない。

あそこに帰されたらどうしよう。どうしよう。あそこには帰りたくない。


テディの部屋はまだいいけど、ベッドの部屋には絶対に嫌。

呼吸が。

呼吸が苦しい。


「はっ………はっ、はっ……はぁっ」


呼吸が乱れる。

苦しい。息ができない。


「お、おい」


男の人の焦った声が聞こえる。

涙が滲む。


「はぁっ……、はっ、はぁっ」


涙がぼろぼろと零れて、滲んだ視界の中で、お姉さんの手をきゅっと握った。


「あんた! 紙袋、早く!」

「そんなんねぇよ」

「ビニール袋でもいいから。あるでしょ!」

「ちょっと待て」


男の人がバタバタと扉の中に駆けて行った。

お姉さんがしゃがみこんで、私の視線に合わせてくれる。


「大丈夫よ。ゆっくり息して。吸って、吐いて」

「はぁっ、ひゅっ、はぁ、はぁ」


言われた通りにしようと思うのに思うように行かない。

そのうち、口元にくしゃくしゃの白いビニール袋が宛がわれて、ようやく息が吸えた。


「はぁ………、すぅ……」

「良かった!」


お姉さんにきゅうっと抱きしめられて、肩に頭を預けて涙を流した。

男の人はその様子をじっと見下ろしていた。


「ほら、あんたのせいだよ」


お姉さんが男の人に言う。


「なんで俺」

「あんたが嫌そうな顔するからでしょ」

「関係ねぇ」

「とにかくあんたがこの子の面倒見て。この子、今目離せないのよ。一人じゃ生きてけないのよ」

「お前が面倒見たらいいだろ」

「私、新婚で、家に帰ったら旦那がいるのよ!? あの人がこの子好きになったらどうすんのよ! それでなくても浮気性なのに! また浮気されたらあんたのせいだからね! それでもいいんだったら連れて帰るわよ! いいのね!?」

「……保護する機関とか色々あるだろ」

「はぁ!? そんな不安なところに入れて、この子、あっちに奪われたらどうすんのよ!」

「………………わかった」


男の人のため息がまた落ちた。

間を空けて落とされた言葉と共に、目の前の扉が開いた。


「入れよ」


男の人は私を見下ろして、不機嫌そうな顔でそれだけを言った。


「入ろ?」


ビクリと身体をはねさせた私を安心させるように、お姉さんは私に告げた。

手を引かれて、扉の中に入る。

まっすぐ続く長い廊下の右の部屋に、大きなベッドが目に入った。


ごくんと息を呑む。

怖い。

あの部屋には入りたくない。


そう思った私は足取りが重くなったけど、ベッドの部屋は通り過ぎて、廊下の一番奥の広い部屋に入った。

そこにはベッドは無く、ただただ、広い空間が広がっていた。


「相変わらず何もないわねー」


お姉さんが呆れたように言う。

確かに何もない。

すごく広いし、窓もすごく大きいのに、置いているものはテーブルとイスとソファとテレビ。

それくらいしかない。

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