番外編:この世にさよならを告げる時

◇千里side


お通夜とお葬式、散々泣いたけれど、僕には明穂がいない実感なんてなかった。

今でも少し散らかった明穂の部屋は存在するし、明穂の歯ブラシだってまだ洗面台に置かれている。

明穂が美術の授業で作った、不恰好な鳥の粘土細工だって、トイレに飾られていた。


お葬式の数日後、水野家に当たり前のように入ってぐるりと歩いてみたけど、何も変わってはいなかった。

今日は平日だ。

今頃みんな授業中だろう。

ずる休みをしているのは僕くらいだろう。

とても行く気になんてなれなかった。


母親もそんな僕の様子を理解しているのか、当たり前のように制服に着替えない僕を見て、寂しげに微笑んだだけだった。


明穂は一体どこに行ったのだろう。

この世にいないなんて信じられない。

学校が大好きだったから、学校にいるのかもしれない。

もしかしたら、今明穂のクラスにいれば、いつもの席に座って、相変わらず吉村くんとふざけているのかもしれない。


そうならいい。そう思った。

たとえ、僕の事を一生好きになってくれなくてもいい。

例えば、吉村くんと付き合って、結婚してくれたっていい。

明穂という存在を僕から奪わないでくれるのなら、何もかも良かった。


和志は学校に行っていた。

明穂のお父さんとお母さんは親戚の家にいるらしく、この家は無人だ。

しんとしている。

しんとしている家はいつも僕の家の方で、明穂の家は対照的にうるさいくらい賑やかだったのに。

こんな家は似合わない。


思わず明穂の家から飛び出した。



門を出て、しゃがみ込む。

すぐ隣には僕の家がある。

この門の前で明穂はよく僕に手を振った。


またあとでねとか、おやすみとか、じゃあねとか、おはようとか、たくさんの言葉と一緒にいつも笑っていた。

明穂が悲しい顔をしたところなんて考えてみればほとんど見たことがなかった。

僕は明穂のそんなところにいつも助けられていた。


車もほとんど通らない道で座り込んだ。

ここにいれば、また明穂が笑いかけてくれるかもしれない。

今日はまだおはようを言っていない。

明穂におはようを言わないと、僕は学校に行かない。


心を空っぽにすれば、病室でのことがフラッシュバックしそうで、目の前に咲いている名も知らない花の花びらの数を数えた。


それから蝉の音を聞いた。

何匹いるのか想像してみた。


道を通った蟻の足が何本か数えてみた。

昆虫はみんな六本の足だ。数えるまでもない。


それから、それから。


「おい、城山。こんなとこで何してんだよ」


声がかかった。

思わず顔を上げると、ふてくされたような顔の吉村くんが僕を見下ろしていた。

手にはなぜか段ボールを抱えていた。


「明穂が、……帰ってくるかもしれないから待ってるんだ」

「は……?」

「明穂に、おはようって言ってもらえてなくて。ああ、今もう夕方か。じゃあ、明穂が学校から帰ってくるかもしれないから、おかえりって言おうと思ってね」


僕が吉村くんを見上げて微笑むと、彼は奇妙なものでも見るような目になった。

それから怒ったような、悲しんだような、何とも形容しがたい表情で僕を睨みつけた。


「あいつは! あいつはもう死んだんだよ! もう、いない……」


彼の声は尻つぼみに消え入りそうになった。

僕はいつものハツラツとした彼とのあまりの違いに驚いて、涙が溢れた。


知ってる。

そんなこと。

言われなくたって知ってる!

明穂を看取ったのは僕だ。

言われなくたって、明穂の呼吸が消える瞬間をこの目で見た。

彼女の瞳が最後に僕を映して、二度と開くことはなかったことも、知っている。


頬に触れるとまだ温かかった。柔らかかった。

だけど、彼女の瞳が、僕を映すことはなかった。

吉村くんはそれ以上何も喋らなかったけど、その場から立ち去りもしなかった。

夏の夕方の生暖かい風が僕たちをそよいでも、二人でしばらくじっとその場にいた。


「……吉村くん」

「なんだよ」

「……朝ね、目が覚めても、どうしても制服を着ようと思えないんだ」

「………」


彼を見上げると、唇を噛みしめた彼が僕をじっと見下ろしていた。

彼は少し窮屈そうな制服を着ていた。


「吉村くんは、どう?」

「……俺は、お前と違って、……軟弱じゃないんでね。別に世界が変わったって、朝練にも出れば、部活にも出る。母親もうるさいし」

「……そっか。そうだよね」

「だからって! 別に! 俺だって、悲しくないわけじゃない!」

「…………うん。うん。知ってるよ」


知ってる。

彼がどれだけ明穂の事を好きだったか。

僕は毎日明穂を見ていたから知ってる。


明穂のそばにはいつだって彼がいた。

彼は明穂と共にふざけて、笑いながら、時折優しい目で明穂の横顔を見ていた。


「お前。学校は来ないつもりなのか」

「……分からない。正直、今は立っているのもやっとなんだ」

「ふん。相変わらず軟弱な奴だな。うるさい明穂はいないし、お前までいないから女子がへこむし、今の学校は葬式状態だ」

「ふふ、そう」

「俺は帰るけど、お前さ、おかしな事考えるなよ。それだけは許さないからな。じゃあな、これ。おばさんに渡しといてくれ。陸上部のロッカーにあったあいつの物。あ、あいつのユニフォームは1枚俺がもらったから」


そう言って、僕に段ボールを押し付けて、吉村くんは帰って行った。


……おかしな事。

本当の事を言うなら、考えなかったわけじゃない。

明穂の両親や、僕の母親が、常に僕に目を配って、心配してくれるから、かろうじてとどまっているだけ。

すでに悲しんでいるこの人たちが、僕がいなくなればさらに悲しむことが分かっているからできないだけ。

それがなければ僕は明穂を追いかけたかもしれない。


だけど。

明穂が死んだ実感がないせいか、不思議と行動に移そうという気力も起きなかった。

学校に行く気も起きない。

外に出る気さえ出ないというのに、後を追うほどの行動力も今はなかった。


段ボールを探る。

中からは、明穂のランニングシューズやタオル、ユニフォーム、ヘアゴム、たくさんのものが出てきた。


さっき、吉村くんがユニフォームを一つもらったと言っていた。

返せよって思ったけど、同時にいらないとも思った。

これもすべて、本当はいらない。

僕は明穂のものが欲しいわけじゃない。欲しいのはそんなものじゃない。


僕はユニフォームを一つ手にとった。

軽いそれは手の中でくしゃりと歪んだ。


「…………明穂」


返事はない。

こんな事考えてももう意味はないのだけど、明穂に話したいことがたくさんあった。


本当は。

本当は、恋人にだってなりたかった。

根性なしの僕は明穂に気持ちを伝える勇気がなくてずっとずっとできなかったけど、本当は好きだって伝えて、好きだって言い返してほしかった。


明穂が僕をそういう意味で好きじゃない事だって、痛いくらいに分かっていたけど、キスがしたかった。抱きしめたかった。明穂に触れたかったし、五センチの距離で名前を呼ばれたかった。


大好きだった。

この世で一番大切な人だった。


明穂しかいらなかった。

手を繋いで学校に行く。僕の彼女なんだと吉村くんに言う。学校中が大騒ぎになる。吉村くんには殴られて、周りの生徒は僕たちを冷やかす。


そんな夢を。寝ている時、授業中、帰り道、何度も見た。

現実になればいいと幾千回願った。

そんな思いを抱きながら、明穂の顔を擦り切れるほど眺めた。


そんな明穂はもういない。

触れるどころか、もう姿を見ることすら叶わないのだ。


「………うあっ………うっ、…………くっ………」


涙が止まらなかった。

僕は一人だ。

たった一人になってしまったのだ。

もうそんな夢を描くことすらかなわないのだ。

こらえきれない嗚咽が田舎のあぜ道に消えた。


「――千里……? 泣いてるの?」


声が聞こえて、意識が浮上する。


目を開く。

見慣れた部屋の風景が目に入って、心配そうに僕を覗き込んでいる顔をぼーっと見た。


「……明穂」

「はい。珍しいね、その名前で呼ぶの」


楽しそうに笑って、僕の頬に流れていた涙を指で拭ってくれた。


そうか、夢か。

昔の夢を見た。

僕の自我がバラバラになりそうだったあの頃。

一番辛かったあの頃の夢。


「怖い夢でも見たのー?」

「……うん。恐ろしかった」

「なになに。幽霊でも出た?」

「幽霊は出なかった。一度だって出てくれなかった」

「寝ぼけてる?」


美亜が楽しそうに笑う。

どうやら僕はお風呂から上がってうたた寝していたらしく、入れ違いにお風呂に入った美亜はタオルを頭に巻いている。


「美亜。ぎゅってしていい?」

「ん? はいどうぞ」


美亜は子供を見るように微笑んで、僕に向かって両手を広げた。

ソファに座ったまま、立った状態の美亜を抱きしめた。

ぽんぽんと頭を撫でられる。


「なにー? ほんとにそんな怖い夢でも見たの?」

「うん。恐ろしかった。二度と見たくない」

「そっか。よしよし」


美亜の胸あたりに顔を埋める形になった。

柔らかい感触に癒されるように顔を押し付けた。

美亜は頭上で軽快な笑い声をあげている。


どうせ子供っぽいと馬鹿にしているのだろう。

別に馬鹿にされてもいい。こうして抱きしめられるなら、それでもいい。

お風呂上がりだからなのだろう。

下着を付けていない美亜の胸の感触にだんだんと引き寄せられて、誘惑に逆らえず、胸の先端をTシャツの上から食んだ。


「……あっ」


甲高い声が上がる。


「もう。やめてよ」


照れくさそうな美亜の声。

可愛くてたまらなくて、僕の膝の上に座らせるように手を引いた。

素直に、僕と向かい合わせに腰を下ろしてくれる。


若干顔を赤くしている。顔を近づけていくと、美亜は目を瞑って僕を受け入れてくれた。

唇をついばむ。

柔らかい感触を確かめるようにして、何度も唇を離しては重ねた。

舌を差し込むと、美亜もそれに控えめに応えてくれる。優しく包み込むようにキスをする。


「ん……っ」


美亜が声を上げる。

少しして、顔を離すと、顔を上気させた美亜が僕をじっと見て微笑んだ。

ぎゅっと背中を痛いくらいに抱きしめると、美亜もお返しと言わんばかりにぎゅっと背中に腕を回してくれた。

息が苦しくなるくらい抱きしめ合った後、また見つめ合う。


「……好きだよ」


僕が優しく告げる。

美亜は一瞬パチパチと瞬きをして、それから花が綻ぶように笑んでみせた。

本当に嬉しそうに。


「千里」

「うん」

「……私も好き。千里」


その声を聞いて、美亜の頬に触れる。

柔らかい。とても温かい。

頬を親指で撫ぜると、美亜が困ったように微笑んだ。


それから、五センチの距離で君は言う。


「千里。好き」


僕はたまらなくなって。

本当に、本当に、こっちの世界の方が夢みたいで。


「……うっ………くっ………」


涙が堰をきってこぼれた。

びっくりしたような美亜が僕を見て、それから、仕方なさそうに僕の頬に指を這わせた。

親指で優しく、目の縁を拭ってくれる。


「まだ夢を引きずってるの?」

「……好きだ。明穂っ」


明穂と呼んだ。

だけど、美亜は嬉しそうに微笑んで、ただ「ありがとう」と言った。

僕はたまらなくなって、彼女の唇を乱暴に奪った。


触れたい。

彼女の中におさまりたい。

彼女に触れられたい。

好きだと言われたい。



「好きって言って、明穂」

「好きだよ、千里。大好き。大好きだよ、千里」

「うん。うん」


僕の頬に添えられた手に手を重ねた。

唇を何度も何度も重ねて、どちらの唾液か分からなくなるくらいのキスを交わした。

柔らかな胸を触ると、美亜は高い声をあげた。

足の指を一つずつ舐めた。膝小僧にキスをした。手の甲にも。小さなおへそにも。

全身をくまなく愛撫すると、美亜の真っ白な肌は薄く桃色に色づいた。何度も美亜を抱いたけれど、いつ見ても綺麗だと思う。


美亜の両足を抱えて、目の前にある顔をじっと見た。美亜はほんの少しとろんとした顔をして、僕の頬に指を滑らす。


「千里。愛してるよ。ずっとそばにいるね」

「うん。うん」

「千里。大好き。千里、明穂だよ」

「うん。うん」


美亜の中に入り込む。

それだけで死んでもいいほどの至福を味わう。


思春期のあの頃。

おこがましく、浅ましく、何度か夢に見た。

目を覚ました瞬間、明穂を汚したようで深い自己嫌悪に陥っていた。


今、明穂と繋がっている。

汚したなんてとても思えなかった。

それほど彼女の身体は神々しく、温かなそこは僕を懸命に受け入れた。僕は生命の神秘に感動して、何度もキスを落とした。


「ん…っ、千里。……千里……っ」

「……明穂。愛してる……っ」


僕は三十三になって情けなく、十八の美亜を抱きながら、涙を流し続けた。

美亜は僕の名前を何度も呼び、僕に何度も何度も愛の言葉をささやいた。

僕はその一つ一つに癒され、助けられ、辛い記憶を頭の隅に押し込んで、鍵を掛けた。


明穂と美亜。

二つで一つの不思議な存在。

明穂だけではなく、美亜だけでもない。

彼女は、明穂と呼ばれても、美亜と呼ばれても、嬉しそうに笑う。

彼女自身、二つの狭間にいるのだろう。


奇跡のような君。

僕はこの愛しい存在を二度と手放さないだろう。

君と共に、ずっと一緒に生きていく。


そして、僕はこの世にさよならを告げる時にきっと願うだろう。



生まれ変わるならば

どうか君のそばで。



おわり

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