彼らの幸せは…1
――そして、今。
私は電車に乗っている。
ワンマン電車であるそれは、ひどく懐かしかった。
東京の実家から新幹線に乗って、その後特急電車に乗って、ワンマン電車へ乗りかえる。
実に片道三時間の道のりはとても長いけれど、隣に千里がいるからしんどくはなかった。
「美亜? さっきから大人しいけど緊張してる?」
「……うん」
「実家に行くのが怖くなったら、僕の家で待っててくれたらいいから。ちょっと挨拶するだけだから」
「うん。行ってから決める」
千里が安心させるように手を握ってくれた。
ほとんど人のいない車内で、千里の手を握り返しながら肩にもたれた。
終点まで行ったそこは、十九年ぶりの故郷だった。
相変わらず寂れた無人の駅。
そこを降り立つと、虫かごを持った少年たちが走り抜けていき、懐かしさに目を細めた。
東京では考えられないような空き地が目立つ。
駅も無人のくせに広くて、みんなが自由に車を停めている。
どこに行くにも歩きじゃどうにもならないこの町で、駅に止まっていた一台のタクシーに乗り込む。
運転手はカッターシャツではなくてポロシャツで、こんがりと日に焼けた腕が何とも懐かしい気持ちになる。
千里が懐かしい住所を告げると、タクシーは慣れたように走りだした。
「変わってないでしょ?」
「うん、全然」
「商店街の方は多少店変わったけど、この辺りはどれも一緒だね。ほら、ぶどう売ってる露天の店、まだあるよ」
「あぁー、千里とよく買いに行ったっけ」
「うんうん。夏だけ出てくるんだよね」
「冬は焼き芋屋さんになるんだっけ」
懐かしくて車窓からじっと外の風景を眺める。
お父さん、お母さん、和志。
どうしてるかな。元気かな。
「和志はどうしてるの?」
「なんか、結婚予定の彼女がいるらしいけど、まだ実家に住んでるよ。長男だし、理容店継ぐらしいしね」
「うそ! 和志が理容師!? えぇー、嫌がってたのにぃ」
「まぁあの時は小学生だったからね。ちゃんとあの家に住んでるよ」
「……そっか」
和志は都会に出たくなかったかな。
私がいないせいであの家を離れられなかったんじゃないだろうか。
妙にしんみりした気分になる。
千里が握ってくれる手だけで勇気をくれるようだった。
タクシーの車内は冷房がよく効いていて、外の暑さが嘘のようだ。
七月二十一日の今日は、真夏日で、だけどまだ蝉は鳴いていない。
私の誕生日でもあり、明穂の命日。
佐々木美亜は十九歳になった。
タクシーに下ろされた場所は、千里の家の前だった。
千里と私の家がいまだ変わらず横並びになっていて、懐かしくなる。
「どうする?」
「……どうしよっかなぁ」
千里と手を繋いで、家の前に立つ。
懐かしいそこは、私と和志の小さな自転車が無くなっただけで、後は何も変わっていない。
私が子供のころはまだ新しかったこの家も、今じゃすっかり貫禄がある。家の小さな花壇には相変わらず伸び盛ったアロエがあって、嬉しくなって頬を緩めた。
目の前のコンクリートは水撒きをされた跡があって、お母さんの毎日の日課だった事を思い出す。
「僕だけ行ってこようか? 美亜は暑いからあっちのコンビニで待っていればいいよ」
「うーん」
どうしよう、どうしよう。
……どうしよう。
勇気が出なくて決めあぐねていると、いきなり後ろから声がかけられて、身体が跳ねた。
「あ、千里兄だ。おかえりー」
「……あぁ、和志。ただいま」
和志?
後ろから自転車に乗ってこっちに向かってくる男の人を見る。
向こうも私を見て、ほんの少し首を傾げた。
大人に、……なったなぁ。
和志も今は二十九歳?
そりゃ大人にもなるか、ちゃんと育ったんだなぁ。本当に良かった。
涙がじわりと滲んだけれど、ここで泣いちゃいけないと思い、何度も瞬きを繰り返した。
「なに、千里兄。彼女?」
「うん。佐々木美亜さん」
「ども。こんな田舎来ても何もねぇけど、うちにも上がってってよ」
和志が笑う。
目尻がくしゃっとなって、歯を出して笑う。
その顔は十九年前のあの日と何も変わってなかった。
涙がまた込み上げて来て、口元を震わせてしまった。
変わらないで、あんたはここで生きているんだね。
「ありがとうございます」
お辞儀をするふりをして、顔を俯けた。
和志。
ごめんね。
あの日、ご褒美のお寿司どころか、「ただいま」も言ってやれなかったね。
小学五年生の和志にはとても辛い出来事だっただろう。
「千里上がるの?」
「僕はお邪魔するけど、美亜はどうする?」
「あ、えっと、私も上げてもらっていいですか?」
和志に向かって言う。
もう和志に会っちゃったし、ここで私だけ上がらないのも変だろう。それになんか和志の笑顔見てたら、両親にも会いたくなっちゃった。
「もちろん。今日姉ちゃんの命日だから来てくれたんでしょ。美亜ちゃんもお線香だけでも上げてやってよ」
「……お邪魔します。ありがとう」
かしこまる私に、和志はまた安心させるように笑って扉を開けてくれた。
お父さんやお母さんに会うのは反則かもしれない。佐々木家の家族に悪いかもしれない。
だけど、この人たちも確かに私の家族だから。
過去形なんかじゃなくて、今でも私の家族だから。
両方とも家族だなんてぜいたくかもしれないけど、他人にしてしまうのは悲しいんだ。
ほんの少し顔を見たら帰るから。
家の中に上がって、和志の後に続いて仏間に行った。
明穂がにかっと笑う写真が遺影に使われていた。
だけど、どうも中学生の子供の写真が遺影として飾られているのは不自然で、妙に悲しいものがあった。
「姉ちゃん」
和志がいきなり言うものだから、思わず返事をしてしまいそうになる。慌てて和志を見ると、ただ遺影に声を掛けているだけだった。
ただ、その声の掛け方があまりに自然で、涙を誘った。
きっと。何度も話しかけてくれているのだろう。
「姉ちゃん。千里兄来てくれたよ」
まるで私がそこにいるように話す。
和志が穏やかな声で、大人になって声変りをした声で、姉ちゃんと呼ばれるのを聞くのは涙腺を刺激して困る。
千里が黙って仏壇の前で正座するから、私もその少し後ろに正座して座った。
「母ちゃん。父ちゃん。千里兄と彼女、来てくれたよー」
和志が居間に向かって言うと、二人が仏間に顔を出してくれた。
あ、お父さんと、お母さん。
老けたけど、でも変わらない。
お母さんは白髪も増えたし、お父さんはおでこ部分が怪しいし、皺も増えたけど、記憶の頃のまま。
十九年ぶりの、私の両親だ。
「おう、千里。毎年毎年遠いのに悪いな。離婚したのはこの前電話で聞いたけどよ」
「そうなんです。いきなり事後報告ですみません」
「それはいいけどよ。なんだ、お前離婚した途端、若い彼女作ってんのか。そうかそうか」
相変わらずぶっきらぼうな口調で千里に言う。
お父さんは私をちらりと見て嬉しそうに笑った。
「おじさん、おばさん。お久しぶりです。彼女の佐々木美亜さんです。今日は連れてきちゃいました」
「初めまして。お邪魔してます。よろしくお願いします」
ぺこっと頭を下げると、お母さんが「まぁまぁ」と口にする。
「色の白いべっぴんさんだこと。こんな田舎にようこそ。熱中症に気付けるのよー」
「あ、はい、ありがとうございます」
千里がお線香をあげる後ろで私も一緒に手を合わせた。
それに合わせてみんなも正座する。
「千里。明穂が亡くなって十九年経つんだぞ。早ぇよな」
「そうですね。ほんと早いな」
「あいつな、十五年しか生きてねぇんだ。俺なんてあいつの四倍近くも生きちまってなぁ、分けてやれたら良かったんだけどなぁ」
お父さん。
ごめんね。
きっと何度もそう思ってくれたよね。
でもね、腑に落ちて死ねたかと言われたらどうか分かんないけど、十五年の明穂の人生は本当に幸せそのものだったよ。
大事に育ててくれてありがとうございました。
私が最後に優勝した百メートル走の金メダルが仏壇に飾られている。
見るのは初めてだった。
じっと見ていると、お母さんがそれに気づいて微笑んでくれる。
「明穂はね、陸上ばっかりしてたのよ」
「……そうなんですね」
どう返事していいか分からなくて、少し間を開けて返事を返した。
「おばさん。美亜も陸上してるんですよ」
「あら、そうなの。こんな色真っ白で、焼けない体質なのかねぇ」
「そうなんです。父譲りで」
お母さんと話をする。
普通に話している状況が信じられなくて、ふわふわと浮いているような感覚になる。
変な感じ。
むずがゆくて、でも痺れあがるほど嬉しい。
お父さんが仏壇の前に座って、線香をたいた。
千里と後ろへと移動して、手を合わせる。そうすると、みんなが続いて手を合わせた。
しんと部屋で、目を閉じる。
線香の匂いがやはり涙腺を刺激した。
「明穂。おめぇ、最近夢にも出やがらないで何してんだ」
お父さんが話し出したのに驚き、目を開けた。心臓が止まるほどの衝撃を受けた言葉だった。
心臓がバクバクとうるさい。
千里は私の隣で、目を瞑って手を合わせている。
「元気にしてんのか。ちゃんと飯は食ってんのか。そっちでは何も困ってないのか。あ? たまには夢にぐらい出てこい」
下唇が震えた。
歯が小さくカチカチと音を立てて、鼻をすすった。
風鈴の音だけがする静かな部屋で、泣くのをどうしても我慢できなかった。
「……元気ならいいんだがよ」
ぶっきらぼうなお父さんの言葉。
寂しそうで、悲しそうで、だけど娘を心配する色で満ちていた。
死んでしまっても、親というのは娘がどうしているのか気になるものなのか。
子を思う親の心理とはこんなにも深くて、広いものなのか。
私はどうやら。
とても大きな思い違いをしていたらしい。
千里がこっそりと私の背中を慰めるように撫でてくれた。
お母さんも涙ぐんでいて、今でもこんなにも愛されている自分が最高に幸せ者だった。
みんなにバレないように泣いたつもりだったけど、顔を上げると姿勢正しく正座をしていた和志とバッチリ目が合ってしまった。
しばらくして、しんみりした空気を断ち切るように和志が立ち上がる。
「千里兄と美亜ちゃん。スイカ食う? すっげぇ冷えてるよ」
「あ、和志。もらっていい?」
千里の返事に和志がうんと頷いて、冷えたスイカを持ってきてくれた。それを頂きながら、みんなで仏間に揃う。
お父さんが庭に向かってスイカの種を飛ばすのを笑って見る。
「お父さん、庭がスイカ畑になっちゃいますよ」
あははと笑いながら言うと、和志がぎょっとした目で私を見た。なにか変な事を言っただろうか。
不安に思って首を傾げると、「ううん何でもない」と和志が言う。
しばらくして、お母さんが私の隣に腰かけた。
「美亜さん、千里くん優しいでしょ」
「あ、はい。すっごく優しいです」
「東京から遠いのに、年に何回か帰ってきては、実家より先にうちの家来てくれるのよ」
「ここの家って僕の第二の家みたいな感じに勝手に思ってるんで。むしろ第一の家かな」
ふふっと笑う千里に、みんなが嬉しそうに笑う。
そっか、千里は私が亡くなってからも、うちの家族と仲良くしてくれていたんだなぁ。
「まぁだから、あんたも、千里と結婚したら、一気に家族が増えるぞ」
「お父さんっ。若い子に気が早いわよ」
「わりぃわりぃ」
家族。
素敵な響きに満ちていた。
千里が私の顔を覗きこんで、優しげに笑う。
そうか、千里はこうして私をこの家にもう一度家族にならせたかったんだな。
そのためにここに連れて来たんだ。
千里の優しい魂胆を思い知って、やっぱりこの人が好きだと思う。
「千里。お墓も行くんだろ? 和志に車で送らせようか? 俺らは朝から行ったんだよ」
「いや、歩ける距離だし、歩いて行きます」
「そうか? 暑いから気付けろな」
少しして、水野の家を出た。
お礼を言うと、「また来いよ」という温かいお父さんの声に精一杯頷いた。
和志が見送りに出てくれて、二人で和志に手を振る。
「二人ともまた来てよ」
「うん。和志、あのさ」
千里が和志に話しかける。
私は隣に立つ千里を見上げて言葉を待った。
「もし、明穂が生まれ変わって、生きてたらどうする?」
その質問にぎょっとする。
あまりにも際どい質問だ。
だけど、和志はうーんと一言唸ってみせると、なぜか少し涙を滲ませた。
「嬉しいよ、そりゃ。聞いてもらいたい事がいっぱいあるし、姉ちゃんの走るところ見たいし。あはは、俺さ、姉ちゃーんって言いながら泣くかも。これってシスコンっていう?」
和志が嬉しいと返事をするのに、ほんの少しの間も無かった。
これっぽっちも迷わなかったらしい。そういうものなのか。家族って言うのは、そんなにも深いものなのか。
「僕も明穂ーって言って泣いたよ。……じゃあ、ありがとう、和志。また来るね」
千里の意味深な言葉に、和志はほんの少し首を傾げて、手を振った。振り返った私にも、笑顔で手を振ってくれた。
だけど、しばらくして手の動きが止まり、和志はぎゅっと口を真一文字にすると決心したように、私に向かって声をあげた。
「美亜ちゃん!」
「……え?」
「わかんねぇけど、俺になんか言う事ない? 頭の中の俺が聞け聞けってどうもうるさいんだよね」
私は首を傾げる。千里は私の隣で立ち止まって、じっと和志を見た。
姉弟っていうのは、時を超えても姉弟のままなのか。心に沁み渡るほどの感動があった。
「ごめん、意味不明だよね。何もないならいいんだ」
和志が家の門に手を掛けたのを見て、慌てて声をかける。
「あ、えっと、」
その声に和志が振り向く。
「今度!」
「え?」
「今度! 食べれなかったお寿司、みんなで食べに行こう」
ぽかんとした顔の和志。
訳が分からないっていう様子の和志は、そのままその場に佇んで動かなくなった。時が止まったように私たち三人は微動だにしない。
大きな風がびゅうっと通った瞬間に、和志がぼろりと大粒の涙を一粒流した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます