◇君の歩いてきた人生
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愛とは相手に変わることを要求せず、
相手をありのままに受け入れることだ。
ディエゴ・ファブリ
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明穂と呼ぶと、返事が返ってくる。
実に、十八年ぶりの事だった。
姿かたちは違う。
千里と呼ぶ声色だって、やっぱり違う。
……だけど。
僕はきっともう、この人を手放す事はできないだろう。
あの日、明穂を亡くした痛みを僕はいまだ忘れられない。
七月二十一日。
夜中にも関わらず蒸し暑くて、病院もほんの少し熱気に帯びていた。
控えめに掛けられた冷房が音を出さないのが、妙に苛立った。
眠ったままの明穂の頬に触れる。
頬を濡らしている涙は、明穂のものじゃなくて僕のものだった。
親指で綺麗に拭いてから、病室を出た。
家に荷物を取りに行っていた、明穂のお母さんに電話を掛ける。
電話のコール音が鳴る瞬間、心臓が潰れるかと思った。今から僕は何を言う気なんだろう。
「明穂が死にました」って言うのか?
まだ受け入れられてもいないのに、そんな言葉、到底口にできそうにない。
「はい、水野です。もしもし? 千里くん?」
真夜中の電話は僕しかいないと分かっていたのだろう。
黙ったままの僕に、おばちゃんが話し掛けてくる。涙を必死に留めて、唇を噛みしめた。
「おばちゃん……。明穂が、」
「……すぐに病院に行くわね」
こくこくと返事もできずに頷く僕に、おばちゃんは電話を切った。
そのまま公衆電話の下に崩れ込んだ僕は、また狂ったように泣き続けた。
子供に先立たれる痛みはどれほどのものだろう。
明穂の家族の痛みを想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。
そのうち明穂の家族がやってきて、目を腫らした和志までも来ていた。真夜中なのに。
三人とも俺を見てから、黙ったまま病室へと入って行った。
さっき医者に施されたのは、布を一枚顔にかぶせる事だけで、それ以上はもう何もしてくれなかった。
病室の前のベンチに座っていると、目を真っ赤にした明穂のお父さんが一人先に出てきた。
「おじさん。ごめんなさい、明穂の最期に僕一人で」
「あぁ、気にすんな。ちょっと目を離した隙にこれだもんなぁ。まぁあいつらしいわな」
全然平気じゃない顔でおじさんが精いっぱい笑う。
目尻の皺に涙がうっすらと滲んでいて、何となく目を逸らした。
「明穂。最後になんか言ってたか?」
「……うん。幸せな人生を、って」
「そうか……。……あいつの遺言だ。家族は守ってやらなきゃなぁ、千里」
うんと頷いて、涙を流す僕の頭を、ぽんぽんと撫でたおじさんは、どこかに消えて行った。
朝になるまでおじさんは帰って来なかったし、おばさんと和志も病室を出てくる事はなかった。
僕は途中で駆けつけてきた自分の母親と一緒に病院のベンチに腰かけて、一夜を明かした。
――あの夜の事を僕は二度と忘れないだろう。
深い喪失と悲しみに、自我がおかしくなるかと思うほどの痛みだった。明穂がこの世にいないと言う事をはっきり受け入れられたのはいつだったかは分からない。
でも、今こうして明穂がもう一度隣にいる事をすんなりと受け入れている時点で、いまだに死んだなんて認めていなかったのかもしれなかった。
「明穂」
「ん?」
車の助手席に座る明穂が、優しげに僕を見る。
つり目がちだった明穂の瞳は、今はおっとりとした柔らかい瞳になっていて、本当に何もかも別人だ。
だけど、俺をまっすぐに見る視線は同じで。
共通点を必死になって探した。
「千里はやっぱり変わんないね」
そう言って笑われると、かぁっと体中の熱がふき上がるように感じる。
恥ずかしくてたまらなくて。
嬉しくてたまらなくて。
油断するとまた泣いてしまいそうで、鼻をすんとすすって、車の運転に集中した。
もらった一言を全部宝物にしたいと思ってしまう。
明穂はもしかしたら明日にでも消えてしまうんじゃないかという妙な焦りもある。
ずっとそばにいてくれるというなら、僕は明日死んでしまったっていい。今の家も車も職業も何もかも全て捨てたってかまわない。
「美亜、の家族はどんな?」
「んー、お母さんがやっぱ強いかな。お父さんは普通のサラリーマンだよ。妹がねー、とにかく可愛くて、今まだ中学生なんだけどね」
「そっか」
佐々木家の家族の事をとても幸せそうに語る明穂を見る。
大事にしているんだろうな。
大事にされてきたんだろうな。
育ててきてくれた事にお礼が言えるものなら言いたい。
明穂は十五年の命だったけど、明穂は美亜として十八年も生きて来たんだ。それも、とてもとても大切な人生だっただろう。
明穂が今でも陸上をしている事が物語っている。
大切なものを捨てずに生きてこれた人生は、とても恵まれたものだったのだろう。
「明穂。今度いつでもいいから美亜の家族に会いたいな」
「ん? 私の家族に? いいけど、なんで?」
「うん。ちょっと会ってみたいだけ」
明穂は不思議そうにしながらも、嬉しそうに微笑む。
僕の家に着いて、車を降りた明穂の手を引いて歩きだした。
片時も離れたくないなんて浮かれた事を思う自分は、思春期の中学生のようで恥ずかしかったけれど、久しぶりに沸き上がった自分の感情を隠したくもなかった。
「明穂。家上がったら何飲む? コーヒー飲む?」
「えー、嫌いなんだけどぉ。知ってる癖に」
「ふふ。ふふふ」
明穂の軽いパンチがエレベーターの中で飛んでくる。
何でもいい。
本当に何でもいい。
明穂でも、美亜でも、どちらでもかまわないから。
こうしてそばにいてくれる事だけが奇跡なんだ。
泣きたくなった。
嬉しくて、嬉しくて、声をあげて泣きたくなった。
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