運命は白々しいほどに空回る

その日の授業を終えてから教授棟へと向かった。

夕焼けが眩しい。

授業を受けていたら夕方になってしまったから、もしかしたらもういないかもしれない。

ひんやりとしている教授棟の中を通って、一番奥の部屋へとたどり着いた。


“城山千里”と書かれたプレートをじっと見る。

ドアに付いているすりガラスの窓からは光が漏れていて、まだ中にいる事をアピールしていた。


声も聞こえない。

心臓がバクバクしてきて、動悸息切れがひどくなる。

いざ話すとなるととても緊張する。

何の震えかは分からないけど、ぶるりと全身を波のような震えが襲った。


コンコンとノックする。 


「どうぞー」


聞こえた声に、喉がカラカラになった。

カチャっと扉を開けると、千里が書類から顔を上げる。


私を見る。

目を見開いて、少しして明らかに視線を素っ気なく逸らした。


「佐々木さん。どうかした?」

「……私、先生にお話があって」


今日着ていたチュニックの裾をぎゅっと掴む。

ごくりと息を飲む。

千里が私の様子をじっと見て、反応がおかしいと気付いたのか、困ったように首を傾げる。


「あの、」

「うん」

「……私ね、言わないといけない事があって。大事な話」

「佐々木さん」

 

胸を押さえながら喋り出すと、千里がはっきりと私の名前を呼んだ。

まるで私の言葉を遮るように。

「はい」と返事をする。


「間違ってるのなら悪いんだけど、……プライベートの話題なら応えられないんだ。ごめんね」


は?


あれ。

振られた?

まだ何も言ってもないのに?


ちらりと千里を見る。

気まずげな顔。

早くここから立ち去ってほしいと顔に書いてあるようで、どうも気に食わない。


なるほど。

若い大学生から迫られる事も多いのだろう、きっと。

教授の中では群を抜いて若いし、頭のいい講師陣にこんな男前は早々いない。特に文学部という女だらけの場所で、千里がいくら既婚者でも放っておかれるわけがなかった。


だから、きっと今までと同じ。

切羽詰まった顔で女生徒が訪ねてきたら、釘をさす。

お決まりの方法なんだろう。


「あ、それかディベートの話だった?」


黙りこくった私の空気に気付いたのか、慌てたように明るい声を出す。


「……ディベートの話じゃないです」


ぼそりと言う。

機嫌が悪くなった私に気付いたのか、千里は苦笑する。居心地の悪い顔をする。

なんでそんな顔をされなきゃいけないんだ。

そりゃあ、こっちは生徒だし、そっちは先生だし?

都合が悪いのも分かるけど、話ぐらい聞いてくれたっていいじゃないか。

イライラする気持ちが喉の奥までせり上がってきた。


「ていうか、飲みに誘っておいて、プライベートで接点作っといて、こっちに気があるって気付いたらいきなりガードするってずるくないですか?」

「……佐々木さん?」

「……ひどいよ」


ぽつりと告げると、声は思いのほか切なく響いた。

ショックだった。


私は明穂だけど、美亜なわけで。

美亜であったら千里は振り向いてもくれないんだ。

幼なじみで家が隣じゃなければ、明穂だったとしても、千里は私を好きになんてならなかったかもしれない。

そう思うと、悲しい気分だった。

 

千里はハッとしたように顔を上げて、私を見る。

バツが悪そうな顔をして、「ごめん」と告げる。

その言葉はやけに空気を重くさせた。

何かを喋らないとと思っていると、コンコンとノックがして思わず振り返る。


千里が一度髪をくしゃっと乱して、「どうぞ」と告げた。

中に入ってきたのは、京だった。手にはプリントを持っている。

何かを提出に来たのだろう。


「あれ? 美亜? 美亜も提出?」


京が楽しげに話しかけてくれる。

こんなところで会うと思っていなかったのか嬉しそうだ。

このタイミングで邪魔が入った事に千里は明らかにホッとしていた。

何となく、神様に邪魔をされている気がしたけれど、どうだろうか。私の勇気が足りないだけなのか。

心がじくじくと悲しみで蝕まれる気配がした。


「美亜? どうしたの? 提出終わった?」


京に顔を覗きこまれて、ハッと我に返る。


「うん、そんな感じ」

「そっか。ディベートの資料提出に来たんだ。美亜も一緒に聞く?」

「んー、ごめん、京。私先に帰るね」

「あ、うん。また明日ね」

「また明日」


京は私と千里を交互に見たけれど、引きとめる事もなかったし、追及してくる事もなかった。

あの場にいるのは限界だった。

京を交えて出来る話題でもないし。


新緑が美しい道を通りながら、やりきれなさと空しさでいっぱいだった。

波のように寄せては消える、明穂を告げようとする勇気。

とりあえず今は千里の顔も見たくなかった。

 


しかし次の日、間の悪い事に一限はゼミの授業だった。

欠席をしようかと思ったけれど、さすがに嫌味すぎるかと思って、何とか登校する。

私が行くとなぜか遅刻常習組の京が教室にいて、女の子に話しかけられている。

小さく手を振って少し離れた位置に座っていると、京が近付いてきて、私の隣に腰かけた。


「おはよ、美亜」

「おはよー。昨日はすぐ帰ってごめんね」

「ううん、かまわないよ」


京はそれっきり何かを聞いてくる事もなく、私のふわふわの髪をもてあそんだ。

メールで裕ちゃんとひろちゃんから遅刻しますと来ていた。

今日のゼミはどうやら二人きりだ。

京も一応ディベートについては真面目にしてくれている。

二人で消費税増税の是非の議題について話し合っていると、チャイムが鳴って千里が入ってきた。

 

私は顔を上げずにずっと京と話しあっているふりをする。

そうでもしないと、心臓が正常ではいられなかった。

今日の授業はディベートの事ではなく、個人プレゼンの説明だった。

参考文献を紹介しているプリントを眺める。

意識はかなりしたけど、一時間半の授業はあっという間に過ぎ去っていった。


チャイムが鳴って、千里が「じゃあまた次の授業で」と告げる。

生徒たちはそれぞれ立ち上がり、雑談が一気に増えた。

私と京は次の授業へ移動しようと、筆記用具を鞄に詰めると立ち上がる。


「京、次ってB号館だっけ?」

「あぁ、うんそうだよ。あの大教室」

「行こう」


二人で話しながら歩いていくと、千里がこっちを見ているのが視界の端で分かった。

だけど気付いてなんてやらない。

帰りの挨拶もしないで立ち去ろうとする私に、千里が声を掛けてきた。


「佐々木さん。ちょっといいかな?」


立ち止まる。

隣に並んでいた京も立ち止まって、私と千里を交互に見た。


「なにか用ですか?」


どうしても笑顔を作れなくて、ぼそぼそと告げた。

三人の間には微妙な空気が流れている。

周りのゼミ生たちは楽しそうなのに、ここだけ異空間のようだ。


「あぁー、えっと」


ちらちらと千里は他の生徒に視線をやって、暗にここじゃ話せない内容だと伝えていた。それに気付いていながらも、黙っていた。

昨日の事に怒っていたわけじゃなかった。

生徒と簡単に恋仲になっちゃいけないことは知っている。

そもそも私になんて恋愛対象として何の興味もないのだから、あしらうのは当たり前だ。


そうでなくても、最近商学部の准教授が女生徒と個人的に飲みに行った際に、手を握ったとか腰に手を回したとかで、セクハラで訴えられていた。

教授は立場として弱い。

いくらまともな恋愛でも、女生徒が強要されていたと発言すれば、それが真実のようになってしまうのだ。


だから、千里の気持ちも分かる。

怒ってなどいないのだ。昨日の千里の振る舞いに怒っているわけじゃない。


ただ、悲しかった。 

中身は明穂のままなのに、佐々木美亜として姿かたちを変えれば、見向きもされないって事が。


「美亜。次の授業、小テストだよ?」

「え、あ、そうだっけ」

「早く行こう」


千里の視線が突き刺さる。

だけど、京が私の腕を引っ張るから、私は千里にちらりと視線をやった。


「話はまた今度聞きます。すみません」


千里の横を通り過ぎた。

京に腕を握られたまま、教室を出た。

ショックを受けたような千里の顔が目に焼き付いて離れなかった。


教室を出て廊下を歩いていると、パッと京の手が離される。


「京、小テストあるって嘘でしょ」

「ふふ。昨日邪魔しちゃったお詫びに。困ってそうだったから」

「……そっか、ごめんね」

「何があるか知らないけど後悔のないようにね」


意味深な京の言葉に苦笑する。

一体この男はどこまで知っているんだ。見られてないようで、よーく見られている。私の感情は分かりやすいのかもしれない。


二限目からはひろちゃんと裕ちゃんが登校してきて、四人で授業を受けた。三限で今日の授業は終わりで、私は陸上サークルへ行こうと、コートへ足を進めていた。


吉村、いるかな。

期待をしながら、コートに着いたけれど、吉村は見当たらなかった。

いつもこの曜日はいるはずだけど、まだ時刻は三時になっていない。多分高校生はまだ授業中だろう。

もう少しすれば来るだろうと思い、何本か短距離を走った。


そのうち案の定、高校の生徒たちとわいわいしながら吉村はやってきて、私を見ると手を挙げた。


「おう」

「うん」


元気のない私に気付いた吉村は、首を傾げる。

口元はにやついていて、どうも腹立たしい。


「なーに落ち込んでんだよ。お前でも落ち込む事あるんだな」

「あるに決まってんでしょ。女の子なんだから」

「え、うそ。知らなかった、ごめん」


真顔でとぼける吉村。

背中をバシンと叩いてやると、「いってぇ!!」と叫び声をあげた。

吉村といると元気になれる。随分甘えている自覚はある。


だけど、この男は私にただ単に優しくするだけじゃなくて、うまい具合に甘えさせてくれる。

素直になれない口が、心の中ではありがとうと呟いていた。


「よーし。コーチ終わったら話聞いてやるから、あのカフェ行こうぜ」

「いいの?」

「おう。キャラメルフラペッペも頼んでいいぞ」

「フラペチーノですぅ」

「ふはは。どっちでもいいだろ」


爽快な笑みを見せると、ジャージ姿の吉村は高校生の元へと走って行った。

私はもう少し走ろうと決めて、何本か走る。

夕暮れが近づいてきて、女子更衣室に入って、簡易シャワーを浴びた。


備え付けのドライヤーで髪を乾かして、軽く化粧をする。

ジャージから私服に着替えて、コートに向かうと、吉村がサッカーボールで一人遊んでいた。


「お前遅ぇよ」

「ごめん。女の子は準備に時間がかかるもんで」

「はいはい。見た目だけな」

「はぁー?」


憎まれ口をたたきながら、近くのカフェに行く。

吉村と最初に行った、あの大型喫茶店だ。

相変わらず大学生だらけのそこは、私と吉村が入って行っても何も違和感はない。


まぁ吉村も見ようによっては、二十五歳くらいに見えるし。

席に着いて、ドリンクを注文する。


「で?」


いきなり切り出された会話に苦笑する。

女の子と違って、会話にクッションがない。

だけど、それが心地よくて、私は千里との事を吐き出していた。

一通り吐き出すと、吉村は「そんな事かよ」と口にする。


「そんな事って何よ」

「くだらねぇよ」

「なにが」


八つ当たりで喧嘩腰になる私に、吉村がコーヒーを飲みながら笑う。


「お前、千里の事、好きなんだな」

「え?」

「好きなんだろ? 千里の態度に一喜一憂して、落ち込んで。俺に相談して。向こうが全く気がない事がショックで」


言われた言葉に目が白黒する。

そうなのか。私はやっぱり千里が好きなのか。

独占欲なのかと思っていたけど、これが好きって事なのか。


「……そうなのかなぁ?」


俯きながら首を傾げると、吉村が汗をかいた額を拭いながら笑った。


「昔、そばにいたから……。今は近くにいないし、独占欲かなにかかなって」

「独占欲? じゃあ、お前はてっとり早く明穂だって告げてるよ。そしたら、簡単に千里なんて独占できるさ」

「……そうかな」

「言わないって事は、お前は千里に今の姿のまま、もう一度好きになってほしいんだろ?」

「……そうかも」

「認めろよ。お前は千里が好きなんだ。だからくだらない事でうじうじしてんだ」


はっきり言われると、心臓がぶるりと震えた気がした。

寒気のようなものが全身に襲い掛かって、背中が粟立つ。

指の先までしびれが走った。


「好き、かぁ」

「でもな、明穂。千里は佐々木美亜を好きにはならねぇ」 


はっきり告げられた真実に、驚愕する。

目を見開いて、思わずテーブルを掴んだ。


「な、なんで?」

「千里が明穂を好きだからだ」


呼吸が止まった。

シンプルすぎるその理由は、あまりにも胸に痛い。

まるで、明穂が生きているように言うじゃないか。

涙が思わず込み上げそうで、必死に瞬きを繰り返した。


向かいに座る吉村はいつだって私たちの事を知りすぎている。

私たちが知らない自分の感情までも吉村は先回りして知っている。


ずっと見ていてくれたからだろう。

ずっと心配してくれていたからだろう。私たちを。


「心の中にな、一人好きな奴がいたら、他の女なんて見えねぇよ。好きな奴が無条件に一番で、他の奴はみーんな圏外だ」


その後で、「千里はずっとその状態なんだ」と告げられた。

吉村を見ると、彼は若く見える割に複雑な表情をしていた。何も考えていない若者ではできそうもない、複雑な表情だった。


「だからな、佐々木美亜がどれだけ魅力的でも千里は好きになれないんだ。だから気にすんな」

「吉村、ありがとう」

「おう、次会うときには笑ってろよな」


吉村は立ち上がると、相変わらず早い動作で会計へと向かった。

私はその後をついていきながら、「ありがとう」ともう一度素直に口にした。

吉村は聞こえたのか、聞こえなかったのか、返事はなかったけど、店を出ると私を見て笑った。

 

「俺、車あっちに置いてるんだわ。お前送ってってやるから、ちょっとここで待ってて」

「いいの? じゃあその間に一回生協行って、レポート用紙買ってくる」

「おう、分かった」

「えーっと、じゃあ、あそこの旧校舎の前で待ってるね」


吉村は了解と告げると、私とは反対方向へと向かっていった。

私は生協でレポート用紙を買って、旧校舎の前へ行く。大学の旧校舎前は人が全くいない。

なんでも歴史ある建物だから壊さない意向らしく、だけど立ち入り禁止ならば一体何のためにあるのか分からない建物だった。


旧校舎の前は道路になっていて、たまに車が通り過ぎる。

多分吉村はそこに来るだろうと、少ない車の列をずっと眺めた。

左側十メートル先には正門がある。

そこはすごい人通りだけど、こっちは駅方面でもないし、歩いてくる人は全くいない。

この奥にあるとすれば、教員向け駐車場ぐらいだ。

ぼーっと車の列と正門を交互に見ていると、正門から出てきた人が一人こっちに向かって歩いてきた。


教員?

小さな人影に目を凝らしていると、それが千里であることに気付いた。


うわ、気まずい。どうしよう。

いくら明穂だと告げると言っても、タイミングとか勇気とか心の準備とか色々必要なものがある。

それに今の佐々木美亜と城山教授の仲は、いいとは言えない。

むしろ昨日から今日のゼミにかけて、完全にこじれてしまっている。

向こうは私をチラリと見て、一瞬目を見開く気配がした。

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