未練が追いかけてくる
教授棟に入って、廊下の奥へと歩いて行く。
千里いるかなぁ。
さっき奥さんと歩いてたし、一緒に帰ったかもね。
扉の前に立って、ノックしようと手を上げる。
手が扉に当たる寸前、中から声が聞こえて、思わず手を止めた。
廊下のリノリウムの床は薄汚れていて、廊下には至るところに教材や資料が点在している。
綺麗な大学なのに、教授棟だけは何やら古めかしい。
廊下のど真ん中に掛けられている振り子時計なんて明らかに年代物だ。
ギシギシと音でも立てそうな扉に近付いて、耳を澄ました。
「ねぇ、千里。あなた昨日努力するって言ったじゃない」
「言ったよ、言ったけど……」
奥さん?
千里と呼ぶ声は女性のもので、怒ったような口調に驚く。
千里は困った様子で、言葉を探しあぐねていた。
「なによ、この写真。こんなもの置いてるからいつまで経っても忘れられないのよ!」
写真?
頭にひっかかるそのワード。
「ちょっと、それに触らないで! 頼むから。ごめん貴和子。努力したいけど今すぐに忘れることはできない」
「今すぐって、……そう言ってからどれだけ経つのよ。もううんざりなのよ」
「ごめん」
「昨日も言ったけど、やっぱり別れましょう。お互いのためにそれが一番いいわ」
それに対する千里の返事はなかった。
写真っていうのは、あの時の写真だろうか。
決して立てられる事のなかったあの写真。一体何が写っていたんだろう。
千里と奥さんはやっぱり離婚しちゃうのか。
そうだとしたら、千里は大丈夫だろうか。
不安な気持ちになって、鞄を握り締めたまま、じっと扉の外に立ちつくした。
引き返した方がいいと思うのに、身体が動かない。
そのうちガチャリと目の前で扉が開いて、さっき見た奥さんが出てきた。
彼女はびっくりした様子だ。
「あ、ごめんなさい。どうぞ」
「……すみません」
生徒の私が教授室を訪れて来たのだから、何もおかしな事はないだろう。
だけど、心の中は勝手に罪悪感でいっぱいで、彼女と目を合わせる事はできなかった。
盗み聞きをしてしまった。
奥さんが廊下を歩いて行く。
その後ろ姿をちらりと見る。
彼女はラフな格好で日に焼けた足をさらしながら歩いて行く。
運動のできそうなふくらはぎ……。
スニーカーを履いた足は締まっていて、何となく懐かしい気分になる。
その視線を動かして、開いたままの扉の奥を見つめると、髪をぐしゃぐしゃとかきまわした千里が私を見ていた。
目が合うと、ふにゃっと情けない顔で笑う。
どこか泣きそうにも見えた。
「……せんせ、ごめんなさい。変な時に来て」
「あ、いや、構わないんだけど、ごめんね。変なところ見せちゃって」
「い、え」
なんて言っていいか分からず、言葉に詰まる。
廊下に立ちつくしたままでいると、千里が空気を変えるように「中に入って」とはっきりした口調で言った。
おずおずと中に入る。
「とりあえず座って。なんか用あった?」
「あ、はい、ディベートの事で、色々決まったし。あと、提出のプリント持って来ました」
「そっか。いつもありがとう。どれどれ?」
生徒の前では先生らしくいなきゃいけないと思っているのか、気丈にしているけど、本当はそんな気分じゃないんだろうな。
いつから付き合っているのかは知らないけど、千里は奥さんを大事にしようとしていたみたいだし、振られたら誰だって辛い。
目の前の千里を見る。
私が手渡したプリントを見ながら頷いている様子は、やっぱり千里だ。
女子よりも綺麗で、大人しくて、都会的な雰囲気の漂う千里のままだ。
プリントを持つ指が長い。
節ばった指は大人を感じさせるけれど、関節だけがごつくて指はほっそりしていて、相変わらず肉付きはよくない。
「このままでいいと思う。ただ、反対尋問の時に突っ込まれると思う事も考えて資料用意しておくとベストだね」
「あぁーなるほど。ディベートって結構面白いですよね。みんな結構やる気になっちゃって」
「グループワークだから楽しいよね。四年生になる頃には英語でのディベート大会があるから英語力上げないとね」
「えぇー、英語ぉ……」と意気消沈する私に、千里は軽快に笑う。
そういや千里はすでに中学生の時から、英語でスピーチしたり、英語はペラペラだったな。
やっぱり小さい頃から留学してたら、違うよなぁ。
私もしておけばよかったけど、一度言ってみたら、両親に反対されたんだったな。
さすがにそんな小さいうちから留学は無理だって。
ぐるりと室内を見渡す。
相変わらず乱雑な物の配置に、不自然に伏せられた写真立て。
さっきの喧嘩の原因はきっとあの写真立てなのだろう。
一体なにが。
でもさすがに千里に聞く勇気はない。
「じゃあ、このプリント預かっておくね」
「はい、お願いしまぁす」
だからと言って、さっきのあの場面を見て、白々しくディベートの話をするってすごい違和感がある。
気まずい空気に私が立ち上がると、「そうだ」と何かを思いついたらしい声を千里が上げる。
「ん?」
「吉村っていう陸上短距離のオリンピック選手知らない? ちょうど七年前のオリンピックに出てたんだけど」
「あぁー……」
「まぁ知らなかったらいいんだけど、彼が僕と同じ地元の同級生でね、今この辺りでコーチしてるから。佐々木さん陸上してるって聞いたし、もし会った時は紹介するよ」
「あ、はい、ぜひ」
にこにこと話す千里になんて言っていいか分からずに、部屋を出ようとした。
だって、もう知り合いになったと言っても突っ込まれたらどうしていいか分からないし、昔からの知り合いですとはさすがに言えないしな。
最後に挨拶をしようと振り返ると、千里も立ち上がって鞄に荷物を詰めていた。
「あれ? 先生も帰るんですか?」
「あぁ、うん。今日はなんか仕事する気分でもないし」
少し寂しそうな顔で笑ったりなんてするから、胸の奥がぎゅうっと疼く。
悲しい。
千里にはそんな顔なんて似合わない。
「今からどこか行くんですか?」
「ん? んー、家に帰るのもあれだし、多分飲みに行ったりするかな」
はははっと乾いた声で千里が笑う。
一緒に教授棟の廊下を歩きながら、もの寂しくなる。
教授棟の玄関まで歩いて、「じゃあまた」と声を出した千里は足早に歩いて行こうとして、思わずその腕を掴んだ。
歩きだした足が止まる。
大人の顔をした千里が少し驚いた顔で私を振り返った。
肌のきめまで見透かすような視線で、不思議そうに見られる。
かぁっと顔が赤くなるのが分かって、教授棟の前を通り過ぎていく生徒たちが私を見ているのも分かった。
ただ、じんじんと、千里の腕を握る手が燃えるように熱い。
「せんせっ。私じゃだめですか」
「……え?」
「あ、あの、今から誰かを誘うなら私じゃだめですか」
「え、あぁ、飲みに? 佐々木さんと?」
「あ、私は飲めないですけど、そのお付き合いします」
腕を掴みながら言う。
ただ一緒にいたい。
千里が悲しんでいる時に一緒にいるのは私でありたい。
顔が上げられず、少し俯いた私をじっと見つめて、千里はちょっとの間考え込んでいる様子だった。
「ありがとう。……じゃあ、少しだけご飯でも行こうか。ゼミの友達との話も教えてくれると嬉しい」
「あ、はい。と言っても、あの協調性のない三人とばっかり一緒にいますけど」
「ふふ。まぁ、でも優秀な子たちばかりだ。彼らのプライベートを教えてほしいな」
さりげなくパッと腕を離して、隣を並んで歩いた。
千里とご飯に行く。
そんな事だけで胸が騒ぐ。
明穂の時なんてほぼ毎日のように一緒にご飯を食べていたけど、それとは全然違う。
妙に意識してしまって、千里から少しだけ距離を開けて歩いた。
もしかして明穂の時。
私が全く意識していなかっただけで、千里は毎日の夕食一つにもドキドキしてくれていたのだろうか。
二人の関係が逆転したような、変な気分だった。
千里は車を大学に置いて行くらしく、こいつ飲む気満々じゃないかとじとっとした目で見つめたけど、反応はなし。
本人は機嫌良く、タクシーを呼ぶと、私を先に乗せて車は発進した。
夕方五時半。
まだ飲むには早い時間のようにも思われるけど、タクシーの車窓から見える景色には仕事帰りのサラリーマンも多い。
「春って夕暮れが綺麗ですよね」
「あぁ、東京でも夕暮れは変わらず綺麗だよね」
千里は運転手さんにどこか行き先を告げると、私と同じように車窓から外を眺めた。
「先生飲むの?」
「え? 飲むよ?」
なに、さも当然みたいに……。
さっきちょっとだけご飯行こっかって言ったの誰よ。
「へぇー……」
「佐々木さん付き合ってくれるんだろ?」
にこっと笑った千里になにか悪意を感じたけど、そのまま黙って頷いた。
千里は満足そうに笑う。
なぁんか大人になって、性格悪くなったというか、図太くなったような気がするんだけどな、気のせいかな。
千里に案内された場所は、少し落ち着いた居酒屋だった。
和風居酒屋らしく、ほりごたつになっているそこは半個室で、落ち着いた照明に、愛想のいい店員さん、雰囲気はとても良かった。
ぐるぐると見渡していると、千里が笑う。
「居酒屋とかあんまり来ないか」
「あ、はい。まだ一応未成年なので」
「一応って。ふふ」
いや、本当に一応なんっすよ。
精神年齢は遥かにオーバーです。
千里はビールを頼んで、私はピンクレモネードを頼んだ。
「乾杯」
グラスをコンと合わせて、メニューを見ながら食べ物を頼んだ。
なんか変な感じ。
こうやって教授と生徒が一緒にご飯に行くとかってありえるのだろうか。
まぁ他のゼミでもゼミの飲み会に先生が参加するっていうのはよく聞いた事あるけど、一対一は珍しいよね。多分。
ちらりと千里をうかがう。
彼は私を見て、思い出したように話しだした。
「そういや佐々木さんって、水本くんと付き合ってるの?」
「え、京と? いやいや、ないですよ」
「へぇ、なんか今日のゼミで仲良さげだったから気になってて」
「いやー、京はいつもあんな感じですよ。誰にでも。アメリカンな感じ」
「アメリカを履きちがえてると思うよ。ふふ」
千里はビールを軽快に飲むと、楽しそうに運ばれてきた串を食べながら、私の話を聞いた。
千里の奥さんの話は話題に上がらず、ゼミの仲間の話や英語の話が会話の主だった。
――それがどうしてこうなったのか。
時刻は夜の九時。
しばらく話しこんだ私たちは、そのうち英語著書の話に流れて、大いに楽しくお互いの好きな本の話を語っていた。
だけど、時間が経つにつれ、千里のお酒を飲む手が進み……。
「佐々木さん、僕はねぇ! 人を幸せにする事なんてできないんだよ~。だって、……うっ、あ、いたっ」
おいおい。
千里は後ろの壁に頭をごちんとぶつかると、へらへらと笑いながらまたワインに手を出した。
「ちょ、ちょちょちょ、危ないよ、先生」
「大丈夫だってば。ふふ」
この人もしかしてお酒弱いの?
まぁ確かにそれなりに飲んでいたけど、ここまで酔うかな普通。
相変わらず千里ってちゃんとしてるようで、実は結構抜けてるんだよね。
可愛いな。
まぁいいか。
千里とこんな風に穏やかな空間にいられるなんて久しぶりだし、もう少し堪能したって罰は当たらないかな。
だけど、千里にこんな風に近づいてどうする気なんだ。
明穂だと明かすつもりもないくせに、美亜としてまさか恋愛しようとでも言うのか。
別れそうだって言ったって奥さんだっている。
ダメだと律する天使と、久しぶりなんだから少しくらい一緒にいたっていいじゃないかと囁きかける悪魔が、脳裏でバトルする。
「佐々木さんはさぁ~、こんな僕どう思う~? 結婚記念日に花束を渡したら別れたいって言われて~、大事にするからって頼んで許してもらったのにさぁ」
「うん」
「写真見られちゃったんだよね~」
「写真?」
“写真”とはあの伏せられた写真立ての事だろう。
千里は酔っぱらってるくせに、ワイングラスをまだ持ったまま、ぐいっと煽る。
もうやめておけばいいのに。
ふぅっと息を吐いて、ワイングラスを手から取り上げると、いやいやをするように首を振って取り上げられた。
「あぁー、会いたいなぁ」
「ふふ、誰にですか?」
「明穂。明穂に会いたいなぁ~」
ウーロン茶を飲んでいたグラスがゴトンと音を立ててテーブルに落ちた。ちょうど真下に落ちたものだから、倒れずに済んだけれど、千里はほんの少し目を丸くする。
動揺しているのがバレたかと思い、ひやひやしたけれど、しばらくするとまたふにゃっと笑いだした。
「そういや、君はちょっと明穂に似てる」
冷や汗が流れる。
「写真は、…………その人が写ってたの?」
「ふふ、……うん。明穂がそばにいないと僕は仕事一つできやしない」
さっきまでへらへらしていたくせに、急に大人しくなる。
なんだか物悲しくなって、黙り込んだ。
嬉しい気持ちと、切ない気持ちの両方が沸きあがる。
「せんせ。寂しかったね」
「……うん」
可哀想になった。
置いて行ってごめん。いつも一緒にいたのに、放って行ってごめん。千里の気持ちになんて何一つ気付きもしないで、置いてきぼりにしてごめん。
向かい合わせのテーブルで手を伸ばす。
さらさらの髪の間から小さなつむじが見えて、頭をゆっくりと撫でた。
千里は大人しく私に頭を撫でられて、捨てられた犬みたいな顔をした。
「多分、その人も離れ離れになって寂しかったと思うよ」
「……そうかな」
「きっとそうだよ。会いたいって思ってるよ」
千里は一筋涙を流した。
とても綺麗な、透明の涙で、私は黙ってそれを手で拭ってやった。
頭を撫でられるとじっとしている千里は子供みたいで、こうして歳を重ねたって全然変わらない。
当時も嫌な事があると、私の元に黙って訪れて、私は優しく頭を撫でて、手を握ってやった。
千里は見た目の雰囲気から手の届かない存在として、中学の時も一目置かれていたけど、実際は甘えん坊のダメな男なんだ。
酔っていて教授としての人格は崩壊しているのか、素の部分が全開になっている千里がまた言葉を続ける。
私はただ大人しく、うんうんと何度も相槌を打った。
「よく死んだら星になるって言うだろ。でも、明穂はあんないっぱいの星の一つになってないと思うんだよ。そんな小さい存在じゃあ~、……ないから、明穂はどこかで今も笑ってるんだ。笑ってないと……嫌だなぁー……」
支離滅裂な言葉にうんうんと頷きながら、涙が込み上げてくるのを必死に我慢した。
ごめんね、千里。
ごめんね。
随分心配させたね。
「大丈夫だよ、きっと。きっと笑ってるよ」
にこっと笑いながら、千里の頭を撫でる。
千里はワイングラスから手を離して、私の手を掴むと、ぎゅうっと握りしめた。
「え?」
「へへ、優しいな~君は」
またへらへらと笑いだした千里に苦笑しながら、「そうでしょ?」と言ってやる。
うんうんと頷きながら、ワインを口に運ぶ千里をじっと眺めた。
「君の幸せってなに?」
「私の幸せ? えぇー、うーん家に帰ったらおいしいご飯があってぇ、玄関からいい匂いがしてて、あ、今日は生姜焼きかなーとか思ったりしながらね。んで、家族仲良くご飯を食べるの。その時たまに幸せだなーって思うよ」
そう言った後、幸せな顔をしていた私を千里は穴が開くほど見ていた。
ん? と首を傾げると、「いいね、それ。……すごくいいと思う」と千里はなぜか泣きそうな顔で笑った。
「あぁーーあ、今日家帰りたくないなぁ! よし飲むぞ~」
「あはは。飲め飲め。飲んじゃえ~」
そして、思う存分飲ませた結果。
向かい合わせのテーブルで千里はふらふらしながらもなぜか上機嫌。
なんでなんだ。
普通眠ったりしないのか。とか、気分悪くなって吐いたりしないのか。
なんでこうも理想的な酔い方をするんだ、この人は。
「よーーし、次二軒目行くぞぉ! あはは、君誰だっけ。あはははは」
いやー、もう。人格崩壊ですよ。
ていうか、確実にこの人一人でお家帰れないよね。
とりあえず終電もあと一時間で来るし、帰らないとなー。
「せんせ、帰ろっか」
「えー、帰るの?」
「うん、明日先生も仕事あるでしょ。ていうか、うちのゼミあるよ。一限だよ」
「えー、とりあえず会計するね」
千里は覚束ない足取りでお金だけはキッチリ払ってくれた。
そのまま、私にもたれかかるようにして外に出て、ビルの隅っこで座り込んでしまう。
「ちょちょちょ、先生。帰るよ。起きてぇ」
「むり。今日ここで寝たい」
「だぁめだって! おうち帰るよ」
「帰りたくないいいいいぃ」
だめだ、話になんない。
あー、どうしようかな。さすがにまさか家に先生連れ帰ることはできないし、かといって学校に送り届けるわけにもいかないし、ホテルになんて二人で入るのはどう考えてもまずいし。
どうしようかな。
うーむ。
あ、そうだ。
あいつしかいないじゃないか。
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